第17話

「は……?」


 年端のゆかぬ子どもをあたたかく見守るように、ただ暢気に眺めていたジェラルドは、呆けた声しか出なかった。


 メアリーアンの小さな手の中、グラスが光を弾くのを見る。緩い光なのに眩しい。ジェラルドのグラスなのだ。ジェラルドの家のと所有の意味でではなく、先ほどジェラルド自身が酒を注ぎ、飲みかけのまま放置したもの。


 酒はウィスキー。そのスピリットを尊び、原液で。


「メアリーちゃん、あなたそれ、そんな飲み方をして……大丈夫なんですか?」


 一拍間を取り、キッと見上げたのは瞬間。メアリーアンは確かに何かを言おうと唇を動かしかけ、しかし最初の一音すら発声はならず、


 ふ、と、

――視界から消えた。


「ええっ?!」


 ジェラルドの陽気な生涯において、このような奇声を発するなど、どんな事情があるだろう。


 自分は女性には慣れている。これまで対処に苦したことなどない。時に想定外の言動に驚きこそすれ、それは愉快の域をはみ出ることなどなかった。


 予想外。楽しい驚き。そういった種類のもので。


 そんな経歴も自信も、もはや過去のものとなってしまったのか? 例えるならダイヤモンドのような強固な、輝く透き通る美事な結晶であったもの。


 賞賛を惜しまれることのない素晴らしきそれが砕け散り、瞬時に塵と化して消えた――などという事態なのか?


 失ったものの大きさに自失を覚える。だがこの辺りで、持ち主のアイデンティティを守るためか、頭の端で理性が役割を思い出し立ち上がった。


 現実を! 現実を見ろ、ジェラルド。このような場所で終わる君ではないぞ! 効あり、ジェラルドは我に返った。我に――よりも、もう少し、高位の彼かもしれない。


 やっと絨毯に膝を着く。人間一人、消えることなどあるわけがない。女性一人、そんな風に簡単に、行方を眩まされてたまるか、この世。


 まだ多少のとっちらかりを思考に見せながら、おそるおそる――手を伸ばしつつ、呼びかけた。


「……メアリー、ちゃん?」


 呼吸はしている。ふつうに時は刻まれている。ジェラルドはもう一息の勇気をふりしぼり、やっとその手はメアリーアンの頬に届く。あたたかい、ということは、命の危険はない……らしく思える。


 が。これは希望的な視線かもしれない。軍隊にでも行っていれば、少しはましな判断のできたものを。と行くつもりなど欠片もなかった分際で考えをそこに飛ばし、とすれば、とたどり着いた。


 人間、能力には向き不向きがある。つまりここではそのような人間を呼べば良いのだ。自ら持ち合わせのない力を探り続けるなど意味のないことを続けていても仕方がない。


「当然、ここは医者だろう」


 つぶやけば、力になる。ジェラルドは腹に力を入れて大きく叫んだ。


「呼んでこい! 誰でもいい。すぐに来ることができる者だ! そしてまともな奴!」


 すっかり脅えた風で立ち竦んでいたメイドが、激しくうなずき駆け出して行った。


 そこにずっと居たのか。君は居たのか、そこに。役に立たないと言ってしまっては酷だが、何か反応を見せてくれてもよかった。一緒に慌てるだけで良かったのに。


 扉が開く。そして閉じた。動いている。扉の向こう。人間はいくらでもいる。


 ようやく思考が地に着いた。ふう、と息を漏らす自分を感じる。安堵、だこれは。医者を待つ以外にすることはなくなった。


 ジェラルドは、腕の中の娘に視線を戻した。ただ眠っている――ように見える。自分の頬が微かに、メアリーアンの息を感じていることに気付いた。


 手にも腕にも、ぬくもりが伝わる。あたたかな体を、自分はその手で抱えているのだ。小さい。なんという軽さか。考えたこともなかった。ここまで近づいた後のこと。


 その唇がどれだけ達者に言葉を繰り出すか、よく知っている。そんな日々を重ねてきた。けれど今はただ沈黙を載せ、ただ呼吸のために震え、


 ……ただ、娘じゃないか。


 そう。すべては幻想――に近い。これまでの時間を思う。

 但しぼんやりと。


 だから、ジェラルドは。(そしてジェラルドは?)彼がその瞬間に考えていたことは、


 一生口を閉ざしているが良かろう。


 さらには生を終え、天上のラッパが響く、美しき安住の果てまでも。

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