第2話


 雨が強くなってきている。


 花火と噴水のバカ騒ぎを抜け出してきたのは正解だった。今頃残った面々は上がらぬ空の華に焦りを見せ始め、ご婦人方は興醒めの吐息を漏らしていることだろう。


 そんな場所での弁明など御免蒙る。


 パーティは冷える前に退場。そうすることで人の記憶には、楽しい場面でしか残らない。

 登場は他の誰かが場を温めた頃に。それでこそ朗らかなスタートが切れるというもの。


 奥義、時に師とも仰ぐ(本気で)友人の姿に学び――盗んだものだった。

 

 クリストファーの華麗なる容貌を思い浮かべていたために、篠突く雨、灰色の町の風景の中に、メアリーアンを見つけたのかもしれない。


 驚きに、花火もご婦人方も友人をも追い払いながら、ジェラルドは御者に減速の合図を送った。


 それとは失礼な言い草。思いつつ、体を捻り通り過ぎてきた方向を見る。

 間違いない。やはり本物だ。


 なんと言うことか。この雨の中、正気を疑う。


 今まで幾度も規格外と評してきた相手とは言え、ここまでのことはなかった。――ように思う。もっとも本当のところはわからない、と自ら直す。


 とかくジェラルドは忘れっぽかった。世事の中空を、滑るように生きているせいだ。だが今回の場合は耳にしたばかりだったのが幸い、あぁ、とジェラルドは手を打った。


 なるほど。と、うなずく。二度三度と繰り返し。うなずくごとにジェラルドの表情は、徐々に曇りを増していった。らしくもない。


 ジェラルドを社交の席でしか知らない人間であれば、目を疑うことだろう。

 ジェラルド・カーストン。浮ついた微笑みで表されることが多いので。


 メアリーアンの悩みごと、恐らくはこの状態に結びついた原因は、ジェラルドとも無関係ではないものなのだ。上澄みを嘗めていては済まされない。アイデンティティに関わる一問題。


 その厄介な事情を思えば躊躇しないでもなかったが、まさか放って通り過ぎるわけにもいかないだろう。


 ステッキを手に取る。御者は停止の合図を聞いた。あのまま真っ直ぐに歩き続け、テムズに浮かれてしまっては寝覚めが悪いどころではない。


 待つこと、深い呼吸を四回。轍の音の消えた馬車の箱の中に、今宵の強い雨音がどれほど響くものなのか。意識する前に、メアリーアンの横顔が窓の向こうに見えた。


 もう一呼吸。ジェラルドは扉を開く。


「なんの真似ですかね、お嬢さん。私などには計り知れない何かの事象を調査中?」


 口を開けばいつもの軽い調子が滑り出てくる。自分でも驚いたことに。日々鍛錬の鍛錬の賜物か。


 しかしこの術、常に逆らわず効果はなかった。眼前の娘は立ち止まりはしたものの、こちらを向こうとはせず、返事もない。いつも通りの無の対応だ。


 口が開かないどころか、他の部分も動かない。虚ろな瞳は、濡れて重たく張りついた髪の向こうで、雨と同じ色をしていた。


 グレイ。そうして歩いていた長い時間のうちに、映していた色に染まったのだろうか。


 いつものメアリーアンの瞳の色は? ジェラルドは思い出そうとした。過去の芳しいとは言えずとも、多少なりとも甘い記憶を探る。定かなものではないけれど、少なくとももっと、常に光を宿して輝いていたはずだ。


「ミス・エルドリッジ」


 ロンドンの街中。聞いている者などいなくとも、この呼び方が正しいだろう。メアリーアンを刺激しない呼称を選ぶ。


 一瞬、視線がぶつかる。


 すぐに伏せられた瞼の下、いつものメアリーアンが現れたことに、安心を覚える。自分をどんな目に遇わせてくれるのか。この娘はいつも予想の範疇に収まらない。


 現在、ジェラルド・カーストンは誰よりも、年頃の娘(及びその親族連)の熱い視線を集めている。


 男爵家の次男。不足などあろうはずもない家柄・収入に加え、麗しき姿形をも備えた、結婚相手として考えるに完璧な男。それがジェラルドなのだから。(但し、教養は少々危うげな面もあり。マダムの中には、その行状面から眉をひそめる方もあり)


 安心を得たジェラルドの心は、落ち着きを取り戻した。本来の余裕が蘇る。


「お乗りなさいな。風邪を召しますよ。いくらあなたが否定なさっても、今度ばかりは私の主張の勝ちですね。驚くばかりに良識的だ」


「……椅子が濡れるわ」

「乾きますよ。さぁ」


 腕を掴んでも逆らわなかった。おとなしく、されるがままになっているとは、……情けない。


 おそらくメアリーアンが初めて見せた従順という状況は、ジェラルドを喜ばすものではなかった。決して。


 ライバルの衰退は見たくはないものだ。何度となく拒まれてきたその手を取り、ジェラルドは思う。


 勝利とは、なんと虚しいものか、と。

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