エピソード 1ー2
ソフィア・ウィスタリア。
私がプレイした乙女ゲーム史上最低の、私が一番嫌いな悪役令嬢の名だ。
傾国級の美貌と、見聞きしたことを忘れない明晰な頭脳。それに、走っても苦しくならない健康な身体を持っている。彼女は大陸でもトップクラスに裕福な公爵家の娘として生を享け、優しい両親とイケメンの兄のいる家で愛情を注がれて育ったという設定。
私がどれだけ望んでも手に入れられなかったすべてを持っていた。
なのに、彼女は溺愛されることを当然と思い、増長して他人を見下すようになった。その果てにヒロインに嫌がらせをして退学、修道院に入れられてしまう。
だが、その程度の罰ですんだのも家族や皇子の慈悲があったからだ。結局、彼女は最後まで周りの者に愛され、なのにその愛情に決して気付かない愚か者だった。
私はそんなソフィアに転生した。
いまの歳は十四歳。自分の記憶を思い返す限り、私はまだこれといった悪事を働いていない。少し増長を始めていた時期だけど、まだ家族に愛されている時期だった。
つまり、完全無欠のお嬢様の、問題がある人格だけが入れ替わった形だ。少なくとも、私がヒロインに嫌がらせをして、修道院に入れられるようなことにはならない。
私はどうしてソフィアに転生したんだろう? そんなふうに考えたとき、死の間際に聞こえた声のことを思い出した。あの声は、私に機会をあげると言った。
これは……私が幸せになる機会?
あの声の主が何者なのかは分からないし、目的がなんなのかも分からない。でも、私にとって絶好の機会なのは事実だ。私はこの第二の人生で幸せになりたい。
だけど、生きていく上で気を付けなくちゃいけないことが二つある。
一つは、バッドエンドを回避することだ。
この乙女ゲームの舞台となるのは、魔術と魔物が存在する世界だ。
孤児院育ちのヒロインが聖女として認められ、その力を振るって世界を救済する。そうして攻略対象の誰かのルートに入って、ハッピーエンドになるのがメインストーリーだ。
基本的にはストーリー重視で、攻略の難易度は低い。だが、ふざけた選択肢ばかり選んでいるとヒロインではない別の人間が聖女に選ばれてしまう。
その聖女は力を発揮できず、ヒロインはなぜか行方不明になってしまう。その結果、人類は魔物に生存領域の大半を奪われるというバッドエンドに至ってしまう。
これを回避するためには、ヒロインが聖女に選ばれる必要がある。
もう一つは、不慮の事故が起きないように気を配ることだ。
たとえば、私が溺れたときにそのまま死ぬ可能性はあった。原作のストーリーにスリリングなシーンが多く含まれるため、攻略対象の誰かが運悪く死ぬ可能性は否定できない。だから、彼らが死ぬことのないように、原作のストーリーを知る私が気を付けなければいけない。
これが、私が幸せになるために必須の条件だ。
――という訳で、私はベッドから起き上がった。
さっきは状況を飲み込めなかったけれど、いまは状況を把握している。
ここは王族が所有する湖畔の別荘にある客間。遠い親戚にあたる公爵令嬢の私は、湖上の魔術発表会に参加するためにこの屋敷の一室を借りて滞在中だ。
ちなみに湖に落ちたのは、会場の下見を兼ねた散歩中にシリル様と出会い、彼の気を引こうとしたからだ。いや、なにをやっているのよと自分に突っ込みたい。と言っても、私が前世の記憶を取り戻したのは湖に落ちた瞬間なので、それ以前の行動は不可抗力なのだけど。
でも、転生後の私の行動はファインプレーだった。
原作のソフィアはシリル様にお礼を言うどころか、湖に落ちるまえに助けてくれなかったことを責め立てた。それが原因で嫌われるので、私はその流れを回避したことになる。
……いや、罵ってはないけど、お礼はまだ言ってなかったわね。
助けてもらったお礼をちゃんと伝えようと思い立ち、ベッドサイドに置いてあったベルを鳴らす。やってきたのは、オリーブグリーンの髪と瞳を持つ、落ち着いた雰囲気の女性。彼女はクラウディア、成人したばかりの私の侍女である。
「ソフィアお嬢様、よかった、お目覚めになったのですね」
「ええ、心配掛けてごめんなさい。服を着替えさせてくれたのは貴方ね、ありがとう」
私が謝罪と感謝の気持ちを伝えると、クラウディアは少しだけ目を見張った。
「……どうかした?」
「いえ、どういたしまして」
クラウディアはそういって微笑んだ。
あぁ……そっか。最近の私、優しくされるのが当たり前だと思い始めていたから、謝罪や感謝の言葉を口にしていなかったのね。それなら驚かれるのも当然よ。
私はベッドから降り立ち、柔らかなカーペットを踏みしめながらクラウディアのまえに立ち、その両手を握った。彼女の手は温かく、心地よい安心感が広がった。
同時に、原作に登場する彼女のことも思い出す。
クラウディアは、最後まで忠実な侍女として仕えてくれる。なのに、ソフィアは修道院に入れられることが決定したとき、クラウディアを冷たく突き放して解雇してしまう。ソフィアは最後まで、クラウディアの優しさに気付かなかった。
でも、いまの私はそうじゃない。
「クラウディア、いつもありがとう。これからも私の側にいてね」
「ソフィア、お嬢様……?」
ポカンとした顔。それから顔をくしゃっと歪ませ、目に涙を浮かべた。
「もったいないお言葉です。今日、ソフィアお嬢様が言ってくださったこと、私はずっと忘れないでしょう。これからも、貴女の侍女としてお仕えさせてください」
ギュッと手を握り返される。
お礼を言っただけでこんなに感謝されるなんて、私はとんでもなく恵まれている。この幸せを失わないために全力でがんばろうと、私は密かに拳を握りしめた。
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