月姫
オーミヤビ
三日月
幼い頃から、空を見上げることが好きだった。
今みたいに娯楽品がのさばっているわけでもないし、そう頻繁におもちゃを買えるほどウチは裕福でもない。ついでに体も弱かったものだから、自由に駆け回ることもできない。
そんな私に残されていた唯一の楽しみが、雄大な空を観察することだった。
空は、毎日違う姿を私に見せて、楽しませてくれた。
多様な形を成す雲の行列は不遜な顔をしながらいつでも私に挨拶をしてくれていたし、煌々と輝く太陽は暗がりの部屋に引きこもることしかできない私の存在を、たしかに示してくれていた。
「貴方は本当に、空が好きなのね」
起きている間は四六時中空と対話していた私を見て、母は口癖のようにそう言っていた。
それに私はどう返していたのか今では思い出せないが、きっと気のない返事をしていたのだろうと思う。
母が死んだ今ならもう少し話しておけばと思わないでもないけれど、ただその頃は何よりも空を眺めることが重要事項だったのだ。
そして、私たちが運命的な出会いを果たすのは、それよりも僅かに後のことであった。
***
こんな脆弱でちんちくりんな体を授かったために、死に遅れた老人よりも早く眠りに就いていた私であったが、 その日は珍しいことに夜更かしをしていた。
時刻にして、午後の7時を廻るころ。
世はそれまで起きていることを夜更かしと定義することはないだろうけれど、少なくとも当時の私からすれば紛れもなく夜を更かすに値する時間であった。
さて、なぜ起きていたのかと言えば、その日はエポック流星群が観測できるという日であったからである。
百年に一度、世紀を跨ぐか跨ぐまいかという周期でその流星は降り注ぐと言われ、空狂いの私にとっては必見というべき事項であったし、それ以外の者たちも物珍しさからか己が眼に収めようと、一様に首を傾けて星が降るのを待っていた。
ただ、その時期の7時はまだそれほど暗くもない。
予定されている時刻よりも1時間程度は早かったし、私以外の空への注意は散漫と言わにふさわしかった。
皆ともに流星を見物する家族や友人と談笑しており、焼けるような橙色に染まる空へと眼を向けるものは限りなく少なかった。
一方で語り合う友を持たない私は、背中で相変わらずに「相変わらず」と語る母の言葉を聞きながら、「うん」だか「ああ」などと言う気のない返事をして、じっと空を見上げていた。
そもそも普段この時間まで起きていない私にとっては、夕焼け自体が珍しいものだったのである。
今度いつこの空を見上げることができるのか、あるいはもうこれで決別なのかもしれないという面持ちで、私は空と対面していたのだった。
そうしていてしばらく、ふと、私はあることに気が付いた。
「母さん、まだ明るいのに、月が上ってるよ」
朱色の空を背後に、冷ややかに青白い三日月が佇んでいたのだ。
私の知る月は、黒い天蓋で白らかに浮かぶ、突けば弾んでいくのではないかと思わせるほどに丸いものであるはずだった。
「あらホント。きっと、あわてんぼうさんなのかもしれないわね」
子思いな母は料理を作る手を中断して、冗談めかしくそう言いながら、私と一緒に窓越しに、朱色の空にて孤独な月を見上げた。
星々もまだ姿を見せず、孤独に寡黙に浮かぶ月。
彼女は今、何を想っているのだろうか。
母の言う通り慌てて出てきてしまったことに、恥じているのだろうか。
あるいは飛び出してしまうほどに、皆に注目されているエポック流星への嫉妬に駆られているのだろうか。
答えなど、私に出るはずもない。
そもそも世界の片隅にいるちっぽけな私に、寛大で巨大な月の心情など推し量れるはずもない。
ただ、確かに言えることと言えば、私は彼女の心情を考察しているということに、ある種の優越感を抱いていたということだ。
周りの者たちで、あの独り佇む月を語る者は誰もいない。
彼女の姿に気づいているのは、私のみなのだ。
そんな傲慢ともいえる感情が私の中で芽生えた。
冷静に思えば、夕焼けに月が浮かんでいるという状態は珍しいことでも、特筆して語るべきことでもない。あの月に気が付いていない者もいただろうが、気づいた人間でも多くいただろうし、取り立てて話題に上げていなかっただけだろう。
しかし無垢で無知な私がそのような発想に至ることはなかったし、そしてその時の私は魔性ともいえる月の魅力に取りつかれており、自己中心的な感情が留まることを知らなかったのだ。
「……綺麗だ」
気づけば私は、ポツリとつぶやいた。
エポック流星などというのはとうに脳裏からこぼれ落ちていた。
夕焼けに霞む三日月は、私に優しくウィンクしていた。
月姫 オーミヤビ @O-miyabi
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