32話 大切な人は

 翠色に輝く、硬い体。

 触れると冷たくて、無機質な手触りにゾッとする。

 ディリウスの足元をペロリと舐めたヴァンが、みーと悲しげな声で鳴いた。


「ディル……いや!! ディルーーーーッッッ!!!!」


 ローズマリーの目からは、涙が滝のようにすべり落ちた。

 滅多に笑顔を見せない男が、最後に優しく微笑んだまま硬化している。


(私のわがままのせいで、ディルが光輝の英雄になるなんて!!)


 こんな結末など、望んでいなかった。

 いくら大好きな人が元に戻っても、ディリウスがいなければ──


「ディル、ディルーー〜〜……ッ」


 どれだけ後悔しても足りない。大事な幼馴染みが光輝の英雄になってしまった事実。今まで感じたことのない絶望で、心臓が握り潰されるような痛みが走る。


「……ローズ」


 懐かしい声が、ローズマリーを呼んだ。

 振り返ると、懐かしい碧い目をしたその人の腕へと飛び込んでいく。


「レオ様!! レオ様、ディルが……ディルが……ああぁぁああああ!!」


 レオナードが元に戻ったことは嬉しいというのに、それ以上の悲しみが大き過ぎて。

 もう二度とディリウスと話すことができないのだと思うと、海の底に沈められたようば悲しみに襲われる。苦しくて、息もできない。


「うぁああ、ああぁああ!! ディル、ディル……ッ!!」

「落ち着け、ローズ」

「だって、ディルが……わ、私のせいで……っ」

「とにかく、話を聞かせてくれ。俺が光輝の英雄となっていた間のことを」

「れ、お、様……」


 ひっくと喉を上下させながら、ローズマリーはこくんと頷いた。

 そして前世や魔法を覚えたこと、開かずの扉の奥のこと、聖女や魔女、神の存在のことをレオナードに伝えていく。

 話しながら光輝の英雄となったディリウスを見る度、涙が溢れた。


「ディルは……私に協力してくれたの……私の、せいなの……っ」

「大丈夫だ、ローズ。話を聞く限りじゃ、ディルを戻す方法はあるだろう」

「……え?」


 驚いてレオナードを見上げると、十年前と変わらない笑顔で彼は笑った。


「俺が魔法を覚えて、ディルのエメラルド化を解除すればいい」

「そんな!! そうすれば、今度はまたレオ様がエメラルド化することになるわ!」

「ああ。それでいいんだ」


 優しく微笑むレオナードを見ると、思いを声に変換できない。ローズマリーはふるふると首を振り続ける。

 レオナードはそんなローズマリーの肩に優しく触れながら、言葉を続けた。


「ローズ。俺は光輝の英雄となってからも、ほんのうっすらとだが意識はあった。二人が会いに来てくれていたのも、なんとなくわかってる」

「意識が……? そういえば、心を読む魔法を使った時に、レオ様の声を少し聞けた気がするわ」

「ああ。もう俺を気にする必要はないと、そう訴えていた。届かなかったみたいだがな」

「……どうして」


 まるでローズマリーを拒むようなレオナードの発言に、胸がぎゅっと痛くなる。


「私は、レオ様が好きで……! この十年間、ずっとレオ様のことを思って頑張ってきたのに……!」

「ありがとうな。でもローズの大切な人は、もう俺じゃない。ディルなんじゃないのか?」


 ディリウスの名前を出されると、噴火するように心臓がバクンと音を立てた。

 顔が火照り、耳が燃えているようだ。だというのに、ディリウスの姿を見るだけで、滝のように冷たい悲しみの涙が溢れて。

 ヴァンがローズマリーの足元で、みぃと寄り添ってくれる。


「私は……ディルが……」


 レオナードのことが大好きだったはずなのに。いや、今でも大好きなのに。

 それ以上の存在が、ローズマリーの心の中にいつの間にか住み着いていた。


 ディリウスとは、ほとんど毎日顔を合わせていたのだ。

 一緒に教会に行き、くだらない話をして。

 ローズマリーのレオナードへの気持ちを、いつも応援してくれていた。

 話を聞いては助けてくれて。

 レオナードと交わした〝ローズを守る〟という約束を、ディリウスは決して破らなかった。


 ずっと一緒にいてくれることが、隣にいることが、当然だと思っていたのだ。

 こんなに自分の気持ちが膨れ上がっていることに、まったく気づきもしていなかった。


(私は、ディルが好きだったんだわ……こんなにも……!)


 微笑んだまま動かないディリウスを見ると、涙が止まらない。

 一番大切だった人を、こんな目に遭わせてしまった自分が許せない。


「ごめんなさい、ディル……」


 罪悪感と後悔に苛まれていると、レオナードがローズマリーの顔を覗いた。


「俺に魔法を教えてくれ。俺がディルのエメラルド化を解いてやる」

「それはだめよ! レオ様がまた光輝の英雄になっちゃうわ! 誰かが犠牲になるのは、もういや!」


 反対をすると、レオナードは大きな手をローズマリーの頭に置いた。まるで子どもをあやすように、ゴシゴシと撫でられる。


「犠牲じゃない。元々俺が光輝の英雄だったんだからな。これが一番自然な方法だ」

「せっかく戻ったのに……そんなに光輝の英雄がいいの!? こんな状態が、そんなに誇らしいことなの!? 私にはそうは思えないっ!!」


 前世からずっと抱き続けてきた疑問。

 光輝の英雄となった人は素晴らしい人達だとわかっている。

 だからこその理不尽。だからこその、怒り。


「ローズ。俺も、光輝の英雄にされた時は、無念だったよ」

「じゃあ、どうして……」


 ローズマリーにはわからなかった。

 どうしてまた、光輝の英雄になることを望むのかが。


「聞いてくれ、ローズ。俺の寿命は、もう残り少ないんだ」


 耳を疑うようなレオナードの言葉に。

 ローズマリーは、絶句するしかなかった。

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