深淵〜いつか眠りにつく日

@sunagimou

ーーー大切な人の死。


紫陽花


開花時期 五月~七月


花言葉 和気藹々、辛抱強い愛情、寛容、

強い愛情、ひたむきな愛、冷淡




 俄雨。梅雨前、気分も天気も何かはっきりしない。五月病が流行りだす時期。

天気もこんなだと流石に気が落ち込むのも分かる。ただでさえストレスが溜まっているこの時期に雨ばかりだと辛い。アメリカなどでは九月スタートのことが多いらしいがそうしたら五月病のような症状は出なくなるのだろうか。そうなったらそうなったで十月病が流行りそうだが。この時期は何故か元気がない。今日も湿度は九十六パー。幸い偏頭痛持ちではないから良かった。腫瘍の痛み止めと精神安定剤を服用して今日も一日乗り切る。




 確か右が親指、左が中指、かかと少々、

いや、別に友達に靴下の穴を見られてもどうって事ないんだけど……

「てか、テーブルで良かったわあ、私今日靴下穴空いてんだったww」

「そりゃ良かった」

お前もかよ。

そうだよね、今の時代靴下の穴が空いたくらいで捨てるのはサステナブルじゃない。

いや本当は買い換えるのがめんどくさいだけ。

まぁでもなんというか穴空くくらい履いた靴下の方が履き心地がいいって言うか、新品よりも安心感があるというか、その、、足馴染み…

もういいか。靴下の事は。


さて、友達とご飯を食べに行った時こんな事を聞かれた。


「明日の朝、必ずあなたは死にます。さて、あなたは今日どのように過ごしますか?」。ちょっとしたゲームだと思って、この問いの答えを考えてみてほしい。「全財産を持って、お買い物に行く」「美味しいディナーを食べに行く」「大切な人と会う」。様々な答えが返ってきそうだ。

だが心底正直な気持ちになった時に出る、最も多い答えは次のようなもの。

「いつもと同じ通りのことを丁寧に行い、安らかな気持ちで眠る」

何だか意外に思う人もいると思う。でも人生の最後に「日常」を大事に味わいたいという人は本当に多い。

「周りの人に『ありがとう』と言って感謝を伝えておきたい」こう望む人が多いらしい。

「毎日同じ繰り返しなんて退屈でたまらない」「何も起こらない日常に飽きている」そう反論する人もいるだろう。

だが本当は誰でも心の奥底で『日常生活』を送る事で心を満たしたり、大きな癒しを与えられている。




 今から七年前、中学二年生の六月、同じクラスの友達が自らの手で死んだ。緊急全校集会が開かれ校長先生の口からそう伝えられた。

一緒に修学旅行も行ってクラスでもいつも通りの素振りしてたのに裏ではこの世からいなくなりたいと思うほど思い悩んでたのかと、


「大丈夫」って言葉に安心しすぎた。


私はそこで初めて『死』を実感した。

大切な人の死を嘆く事のプロセスを理解して尊重し、それが必要な行為だと認めなければならない。病気からの回復のように闘って打ち勝てるようなものでは無い。私達人間は本能的に痛みや苦しみから避けようとするが、悲しみを癒すにはあえてその痛みを感じる必要があると思う。痛みは避けられないからこそ、その中で自らを支える方法を見つけなければならない。

私は友人が亡くなったという事実を認められず、自分を責め、力になろうとした家族や友人とケンカした。この痛みこそが最終的には友人の死、昨日まで普通に会話を交わしていた友人の死、未来ある小さい命の死という現実の悲しみを乗り越えず、受け入れる事で生きる道を貴方に見つけさせることになるが、そこに至るまでは長い道のりがあった。




 高校三年生になった私は腹部の手術をきっかけに精神的な病にかかった。

何故か頻繁に倒れるんだ。

貴方は心配になって私に駆け寄った。


「どうして人は、ほんとは全然大丈夫じゃなくても大丈夫だと言ってしまうんだろうね」


私は言葉を失って貴方の顔を見つめる。



『私』はある日、祖父が死んだという電話を取ってしまう。突然訪れた大切な人の死。現実味のない現実を確かめに『私』は実家へと帰る。

「今日じぃちゃんが死んだ。」

いつもは滅多に鳴ることのない携帯が、まどろみの中だった午前五時に鳴った時は非常に不愉快だった。だが寝ぼけ眼のまま通話ボタンを押すとそんな頭のモヤモヤは一瞬で霧散した。かけてきたのは母親だった。現実とは言い難い現実を突如まんまと突きつけられた。

三日後に定期通院を控えていたので三日分の着替えをバックに詰めて新幹線に飛び乗った。

コンビニで買った朝ごはんを食べながら二時間乗ってそこからバスに乗り換えてまた少し。

こうして実家までの道のりを辿ると大阪の学校へ進学すると言って家を飛び出した数年前を思い出す。唯一祖父と祖母は「貴方のやりたい事をやりなさい」と背中を後押しし寂しそうな顔で応援してくれたが、父と母は私が病を抱えている事を心配し、県内の学校か近場の学校にしとけと言ったのに私が大阪に出て大阪で暮らしたいと言った。それが原因だった。今思えば安定に人生を送るチャンスを逃したのかもしれないが当時の私はこの片田舎に閉じこもっているのが苦痛だった。

だから後悔はしていない。


改札を出ると母の車が駅前に停められていた。

私はトランクを開けバックを放り込み、そそくさと助手席に乗り込んだ。

車に二十分ほど揺られてようやく実家に着いた。とりあえず数日の滞在なので私は構わずバックを玄関入ってすぐにある和室に置いた。


それから私はいつだかじぃちゃんが趣味で作った縁側に座り、何となく庭を見ていた。

真上にある太陽の光で空気が熱せられて夏の始まりのような匂いがした。蝉の声はしなかった。私はしばらく縁側から動かなかった。ただ何度も携帯を開いて時間を確認した。特に意味は無い。空が晴れ上がっていた。雲がない。風で流されたのだろうか。青々とした高い空が、天井のように私の上を覆っていた。その上が黒いとは考えられないくらい、とにかく青い。筆の跡がわからないくらい、綺麗にキャンバスの上を青が満たしていた。青以外、色が見えなかった。世界が鮮やかな青色に染まった。

私は立ち上がって、縁側から逃げるようにリビングへ向かった。青が恐くなった。底がどこまでも見えなくて、一度飲み込まれたらもう戻れそうにない気がした。


喪服に着替えると、最低限の貴重品だけ持って、さらに車に十五分ほど揺られてじぃちゃんの居る場所へ向かった。

玄関をくぐると、お線香の匂いが鼻を擽った。

部屋の真ん中に据えられた大きめのテーブルを囲むようにして親族が集まっていた。

「おー久しぶり。随分と大きくなって」

昔よく遊んでもらったおじさんが私を見るなり笑顔で言った。

奥にはたくさんの花と位牌とお線香と、棺桶。

白い棺桶だった。

じぃちゃんがいた。その白い棺桶の中だった。

会うのには時間を要した。だがすぐに会った。

無表情で、しかし今にも起き上がりそうに眠っている。ただ眠っているだけ。顔色も想像以上に悪くない。それが死化粧というものだと気がつくまでに時間がかかった。


じぃちゃんは強く優しかった。

私がまだ小さい頃いつもニコニコと笑って遊んでくれた。共働きだった両親の代わりに幼い頃ほとんどの時間をじぃちゃんとばぁちゃんと過ごした。おやつには今川焼きやアイスを出してくれたり、折り紙や絵を描いたり、夏には毎年恒例の花火をした。私が家を出た時もじぃちゃんばぁちゃんだけは優しく「行ってらっしゃい気をつけてね頑張ってね」と言ってくれた。それだけで、私は大阪でもやっていける気がした。


でもじぃちゃんは私が大阪に来てすぐ白血病と診断された。

白血病が完治したと思った矢先、次は食道癌。

さらに肺にまで転移し、末期の癌となった。

あれから中々会えず、一度も会えず、死んでしまった。

「病死だってさ。ここまでよく頑張ったって医者が言っていた。」

そりゃそうだ。

私を育ててくれたのはじぃちゃんだった。

じぃちゃんが居たから私は今こうしてやりたい事ができて、そこそこ充実した生活を送ることが出来ている。人並みの幸せを感じている。

自分の進みたい道を進めている。

そのじぃちゃんが死んだ。じぃちゃんは今死と共に私の目の前で横たわっている。

私は今この瞬間までその現実から目を背けていた。朝、電話で現実を突きつけられてから私は、じぃちゃんの死とまともに向き合おうとしなかった。受け入れるのが恐かった。爪先に水滴が落ちた。ようやく、涙が出た。目元を拭いても泉のように湧き出し、視界もはっきりとしなくなる。痛かった。胸も頭も。逃れられない喪失感が私を包んで、どうすればいいのか分からなくなった。

この世界に、じぃちゃんはもういない。じぃちゃんは深淵へと消えてしまった。濃い青のその向こう側へ、じぃちゃんは私を置いて行ってしまった。辛いとか、悲しいとか、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、気持ち悪くなった。耐えられなくなった私は、トイレにかけこんでから二回吐いた。

‭三時‬間くらい、じぃちゃんの隣でうなだれていた。もう何もする気にはならない。私を覆い尽くす絶望感は、少しも消えてくれそうになかった。両親や親戚は何度か声をかけてくれたが、何も受け止める気にはならなかった。

私の中にはもう何も残ってはいなかった。あるのは、何もないが故の空虚感だけ。涙さえもう出なかった。深淵にいるのは、私も同じかもしれない。こんなにも早く、また大切な人を失うなんて考えてもみなかった。

父が私の隣に座って、そして手に持っていたものを何も言わず私に差し出した。

 「何、これ…」

「お父さんが死ぬ前までつけていた日記。遺品整理していた時に出てきた。」

私はそれを受け取りゆっくりと開いた。

確かに日記だった。古い人だからか、病気で弱っていたからか所々普段使わないような字が使われていた。

ゆっくり、ページを捲る。

読んで、ページを捲って、また読む。

何度も何度も、ページを捲り、読む。

それを繰り返しているうちに、自然と頬に涙が伝った。

書いてあるのは毎日の通院のことや病気のこと、そして私の事も書かれていた。

よくやっているか。ご飯はちゃんと食べているか。悪い男に捕まったりしていないか

体は壊してないか。勉強はちゃんとやっているか。仕事で頑張りすぎてないか。

ほどほどに、幸せに生きているか。


持病のこと気にしていないか。


捲って捲って、その日記は五日前の日付で終わっていた。


「死ぬことは怖い。苦しみながら死にたくは無い。でも天国は楽しみだ。

あの子も気にしているだろう。辛いと思うが頑張らなくていい。生きてくれたらそれでいい」


次のページも、その次のページも、真っ白だった。

どれだけ捲っても、続きはない。真っ白な上にボタボタと涙を落としながら、必死に探した。でもなかった。じぃちゃんの字は、もうどこにも書かれていなかった。


「ペン、持ってる?」

聞くと父は私のほうを見ずに内ポケットからボールペンを取りだして私に差し出した。


「じぃちゃん、帰ってきたよ。元気だよって、言いたいとこだけど、身体が心に追いついてないみたい。じぃちゃんいなくてお話出来なかったけど、私生きるから安心して眠ってね。

今までよりもずっと、何倍もじぃちゃんのことを想っときます。闘病生活お疲れ様。」


日記は火葬の日に一緒に燃やした。


「棺の蓋を閉じてしまうと、もう顔を見ることはできません。」




 大阪で二年間の学生生活が終了し、私は社会人となった。

私の持病は一向に治らない。

前兆もなくとてつもない頻度で倒れる。

脳に異常があるかもしれないと私は病院へ行った。

「ここに大きなでき物があるの分かりますか?

脳腫瘍です。」

私は頭が追いつくまで数日。いや数週間かかった。


死ぬのが怖い私と死ぬのが楽しみだったじぃちゃん。


私の中でじぃちゃんは現実と向き合わせてくれた気がした。



 お墓参り。

「あれ新しい花がおいてある。しかもこの花って。」

「そう、紫陽花。縁起は悪い花かもしれないけどお願いされてね。」

「誰に?」

「ばぁちゃんがね、じぃちゃんが好きだった花をお墓参りの時に持って行きたいからって。」

「そうなんだ。なら今度、自分が行く時も持っていこうかな」

「やめた方がいいと思うよ」

「どうして?」

「紫陽花の花言葉は『辛抱強い愛情』だったり『ひたむきな愛』って意味があるから。それは二人だけのものにしてあげたくない?」

「そうだね」

私と母は笑いあった。



 病気は素敵な魔法の言葉だと思う。

病気のことを言った途端皆目を逸らして逃げていく。

魔法の言葉がきかなかったのは…『貴方』だけ


 そしてじぃちゃんが発見された日ばぁちゃんが死んだ。発見されたのはその二週間後だった。

二人揃って孤独死か。



 私は気づいた、命の短さを。だから私は願った、大切な○○の死んだ姿を見ることが無くなることを。










 

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