ボクじゃダメなの?
仲瀬 充
ボクじゃダメなの?
とてつもなく強い磁石に引き寄せられたような感覚だった。
僕は一瞬で恋に落ちた。
二度見しただけでなく立ち止まった。
彼女も歩みを緩めて振り向いた。
ショッピングモールでのすれ違い、この偶然は必然だ。
声をかけなければ一生後悔する。
「あの……」
「はい」
付き合い始めて気になることが一つだけあった。
麗子は時折ふっと遠くに目をやるのだ。
例えば、喫茶店でたわいもない話に興じて笑い合った後。
例えば、ジャズバーでお気に入りの曲を聴いている時。
まるで幸せに浸り切るのを恐れるかのように。
平日のデートタイムは僕の仕事がひけて麗子が店に出るまで。
水商売ということ以外、麗子は自分の
これだけの美女だから銀座のクラブ勤めということも十分あり得る。
「あなたのお給料じゃ無理よ」
そう言って僕に恥をかかせないために店を教えないのかもしれない。
今日はあまり時間がないので僕の行きつけのバーへ直行。
麗子はシガレットケースから細身の煙草を取り出した。
「君もそうだけど煙草を吸う女性は声がハスキーだね。女は喉が弱いのかな」
「禁煙は何度もチャレンジしたけど意志が弱くて」
「意志は強いじゃないか、絶対お店に来ないでなんて。君のこともっと知りたいんだがな、親にも紹介したいし」
麗子はふっと例の遠くを見るような目をして煙を吐いた。
「ご両親に紹介? 水商売で働いてて男と駆け落ちしたこともある私を?」
「駆け落ちは初耳だ」
「彼が闇金の取り立てに追われてて一緒に逃げたの。でもビジネスホテルに1泊しただけでサヨナラ」
「どうして?」
「夜中に彼のトイレの音が聞こえたの、ジョボジョボジョボって。それで冷めちゃった。ま、もともと結ばれるはずもない二人だったってこと」
麗子はいたずらっぽくそして半ば寂しげに煙草の煙で輪を作った。
「感覚の問題は大きいよね。僕が学生の頃に彼女と別れたのは風のせいだった。海辺でデートしてる時に強い風が吹いてきたから」
「それで?」
「真正面から風を受けて彼女が顔をしかめたんだ。その顔がすごく不細工だったんで熱がいっぺんに覚めちゃった」
「別れを切り出すにしてもそれが理由だなんて言えないわね」
「うん、適当な理由をつけたけど納得するはずもなくて何度かアパートに押しかけて来た。心を鬼にして居留守を使ったよ」
「ボタンの掛け違えみたいなものね。ちぐはぐで取り返しがつかない」
あの時ドアを開けていたらなし崩しに元の鞘に収まるか修羅場になるかのどちらかだっただろう。
そんな想像を巡らしているとドアに絡む別の体験が思い出されて気が滅入ってきた。
「どうしたの?」
「何年か前のことだけど帰宅して何気なく窓からマンションの脇の路地を見下ろしたら外灯の陰から僕の部屋を見上げている男がいたんだ。それが2日続いた」
「男ならストーカーとかじゃないわね。知らない人?」
「藤野という奴だった。親友ってほどじゃなかったけど学生時代の友達。僕がいるのが分かってるのに上がって来ないのがちょっと気味悪くて放っておいたんだ」
麗子も僕もバーテンにモスコミュールのお替りをオーダーした。
「3日目にインターホンが鳴った。ドアを開けると『久しぶりだな、元気?』って言うんだ。僕はここ2日間のことがあったんで『おう、藤野か。元気だよ、何か用?』って返事すると『いや、たまたま近くを通りかかったもんだから』って」
僕はここで言葉を切ってグラスを一口飲んだ。
「ちょっと顔を見たかっただけだと言って帰ったんだけど、数日後に自殺した」
えっ?と麗子はグラスから唇を離した。
「後で知ったけどお金にかなり困っていたみたいだ。2日間ためらったあげくインターホンを押したんだろう。あの時『まあ上がれよ』って言ってたらどうなってたのかなってずっと引っかかってる」
麗子は無言でグラスを傾けた後、また遠い目をして呟いた。
「それもボタンの掛け違えかしら。言いそびれたら取り返しがつかない」
そろそろ腰を上げる時間だ。
会って別れる時、断っても麗子は頑なに電車の駅まで僕を送る。
店の場所を知られないための用心としか思えない。
今日は裏をかいてサプライズをしかけよう。
麗子の見送りを受けた後、僕はすぐに別の改札口から出て麗子を追った。
付かず離れずの距離で麗子の後を付いて行く。
どんな店だろう、僕が入店した時の反応が楽しみだ。
麗子が入っていった店は予想に反して高級クラブではなかった。
「いらっしゃあい! ニューカマー様約1名!」
店内に足を踏み入れたとたん
その声で客たちも一斉に興味深そうな視線を僕に絡ませてくる。
カウンターの中でママの隣りに立っていた麗子だけが僕を見て固まった。
入口付近で突っ立ったままの僕はすぐに覚った。
この店に女性は誰一人としていない。
僕は明らかに場違いな客だ。
麗子がカウンターを出て僕の側に来た。
「飲んでいく?」
小さな声でそう言った麗子の思いつめたような顔が今も脳裏に焼き付いている。
人間のあんなに真剣な顔を僕は後にも先にも見たことがない。
僕は麗子から目をそらして無言で店を出た。
後ろ手にドアを閉めた時、客たちの無遠慮な笑い声が漏れ聞こえた。
僕はしばらくドアの外にたたずんでいた。
そしてドアが開く気配を感じた時、信号が点滅する横断歩道を駆けて渡った。
あれからもう20年近くが
ノックの音がして高校生の娘がドアを半開きにして顔をのぞかせた。
「お風呂わいてるよ。お母さんがガス代もったいないから早く入ってって」
「分かった。すぐ入る」
ボクじゃダメなの? 仲瀬 充 @imutake73
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