15:桜

(なっ、なんでなんでなんで!?)

 よりによって今!? ここで!?

 浮かれていたときに限ってよくないことが起こるの、勘弁していただけないかしら!?

 黒フードは、私のことには気づいていないみたいだ。

「と、とりあえず……」

 勢いで突っ込んでいけるほどの勇気はないので、周囲確認とまいりましょう。

 私はさっと木の陰に隠れて、きょろきょろと辺りを見渡した。

(人は……ほとんどいないわね)

 まあ、それはそうよ。こんな学校のすみっこにスケッチしに来る人なんて、よっぽどの変わり者よ!

『それ、綾瀬先輩にも変わり者って言ってません?』

「いや……まあ……否定はできなくないかしら」

 いろいろな意味で……。

 木の陰から、そうっと黒フードの出方をうかがってみる。

 黒フードはゆらゆらと揺れながら、周りの様子を見ていた、みたいだけど……ふと何かに気づいた様子で、ひょこひょこと綾瀬先輩の方に近づき始めた。

「……!?」

 集中している綾瀬先輩は、背後から忍び寄る気配に気づいていないみたいだ。

 まさか、また綾瀬先輩の絵の具を狙ってる!?

 いや、それとも……あのインク弾で、綾瀬先輩の絵が台無しにされてしまうかもしれない……!?

「……だめ……!」

『姫さま!?』

 いてもたってもいられず、私は木の陰から飛び出した。

「……あ、綾瀬先輩っ!」

「?」

 去ったはずの私に声をかけられて、綾瀬先輩は首を傾げる。

「えっと……もうすぐ通り雨が来るらしいので、校舎に入った方がいいですよー……!」

「え、そうなの?」

「そうみたいです! この前みたいにびしょ濡れになったら、大変ですし! ね?」

「あー、それは確かに」

 何とか説得して、綾瀬先輩には校舎の中に避難してもらう。

 そして私は、じっと黒フードの方を見つめる。

「……これでよし……」

 黒フードが綾瀬先輩を妨害しようとする様子はない。

 行動を起こしたことで、すっかり私の方に目をつけたみたいだ。

 こんな風に、思わず体が動いちゃうなんて、めったにないことだけど……。

(私一人でも……やるんだ……!)

 すっとパレットを開いて――作るのは『ダブグレー』だ。

 一度描いたから、やり方は分かる。細かく描き込むほどの技術はないけれど、それで十分だ。

 まあるい灰色の鳥を、空中のキャンバスに一羽!

「トリドリ・イロドレ・イロドリカ! ――さあ、いってらっしゃい! ハトっ!」

『ぽろっぽー!』

 ぽふん! とささやかな煙とともに、ハトが形になって……。

「……」

 黒フードは飛び出したハトを目で追いかける……が、その場に立ったまま、移動する様子はない。

「……あ、あれ?」

 話が違う!

 いくら何でも、反応が違いすぎるわ。

 この前出会ったのとは別の個体なのかしら……それとも、同じ手は通用しないってこと?

『どうしましょう、姫さまぁ』

「ど、どうすればいいのかしら……」

 落ち着いて、落ち着いて。

 そう心をなだめてみるけれど、いけると思った作戦が失敗したのは、わりと痛い。

「■■■■■!」

 黒フードは何か言いながら、ぶんぶんと杖を振っている。

『来ますよ、姫さま!』

 リトルテディの注意から、間を置かずに――こっちに向かって、黒いインクの弾が飛んできた。

「ひえぇっ……!」

 まずい、避けるのが間に合わないわ!

 こうなったら、一発は食らう覚悟で……いや、あれ当たったらどうなるのかしら……。

 慌てる私と冷静な私、頭の中が混乱を極めようとしていた、そのとき。

 ――バサッ!

 聞こえた羽音に、はっと顔を上げる。

 青い空に、黒いツバサ。

 鳥の形だったシルエットがゆらめいて、もっと大きな、新しい形を作り出した。


「――トリドリ・イロドレ・イロドリカっ!」


 黒い剣の切っ先が、インク弾を叩き斬る。バラバラになったインク弾は、地面に落ちてじゅわりと蒸発した。

「ネロくん……!」

「咲良、大丈夫かい!?」

「あ……あんまり大丈夫じゃないかもしれないわ! 『ダブグレー』のチカラが効かなくて……!」

「……分かった。『黒フード』の攻撃は僕が防ぐから、咲良は体勢を立て直すんだ!」

 その背中は、今の私にとってあまりにも頼もしい。王子様――どころか、救世主だわ!

 ネロくんは、また飛んできたインク弾を剣で弾いて、

「う……」

 わずかに顔をしかめる。

(やっぱり、また……)

 あの『呪い』が痛んでいるんだろう。

 このままじゃ、ネロくんはまた防戦一方だ。何か、新しい策を考えなくちゃ。

「とりあえず、『アイビーグリーン』を試してみようかしら」

 ――そうですね、姫さま!

 と、返ってくるはずの相づちが――聞こえなかった。

「えっ、……リトルテディ?」

 名前を呼んでも、頭の中は静かなまま。まるで、時が止まってしまったみたいだ。

 でも、その間にも、ネロくんと黒フードは攻防を繰り広げている。

 私だけが……ひどく焦っている。

(どうして、答えてくれないの……?)

 ああ、だけど。いつかそうなる気はしていた。

『……姫さまは、変わりましたねえ』

 イマジナリーフレンドに頼らなくたって、自問自答ばかりしなくたって――私の力で、行動できるようになるって。

 リトルテディがいなくても、平気なときが来るって。

(でも、でも! よりによって、今じゃなくたっていいじゃない!)

 目の奥が、じわりと熱くなってくる。

 ……ダメ、今は泣いてる場合じゃないわ。落ち着かないと。

 落ち着いて……色を作らないと。

 一つ呼吸をして、パレットに筆を置こうとした、そのときだった。

「咲良、危ない……!」

「……!?」

 ネロくんが防ぎきれなかったインク弾が、私に向かって飛んでくる。

 慌てて横にずれて、避けようとして……。

 ――べしゃっ!

 インクが、何かに着弾した音。

 私が持っていたパレットが、真っ黒に染まっていた。

「……あ……」

 やってしまった。

 さあっと頭の中が冷たくなる。何も考えられなくなる。

(まずい……っ!)

 よみがえるのは、パレットを渡された時の、アクアちゃんの言葉。

『これさえあれば、いつでもコロルの力を借りられるぞ!』

 ――ということはつまり、パレットが使えなかったら、何もできないということだ。筆があっても、色を混ぜ合わせることができないんだから。

(じゃあ……じゃあ、どうすればいいの……!?)

 パレットはもう使えない。

 リトルテディも答えてくれない。

 それに、ネロくんも――。

「っ……逃げるんだ、咲良……!」

 ――ガツン!

 と響いた音で、私ははっとネロくんの方を見る。

 黒フードとネロくんが、剣と杖とを交えていた。二人の力は拮抗しているみたいで、一歩も退かない押し引きが繰り広げられている。

「ネロくん!? あなた、呪いは大丈夫なの!?」

「少しなら、大丈夫だよ……だから、早く……!」

 そう、ネロくんは言うけれど。

(大丈夫じゃないでしょう……!)

 腕が、震えている。

 杖を支えるのがやっとで、剣を振る力が出せないんだ。表情も、さっき以上に苦しそう。

(ダメ、置いていっちゃいけない……!)

 ネロくんを見捨てちゃいけない。

 でも……私に、何ができるの……?

 とっさに取れる行動が見つからずに、私がぎゅっとスカートを握った、そのとき――。

「……っ!」

 ……熱い。

 脚の付け根の辺りが……熱い……!?

「な、何……⁉」

 ――違う。熱を持っているのは脚じゃない。

 スカートのポケットの中、だ!

 私は急いでその中を探る。そこに入れていたものの心当たりは一つしかない。

(これ……!)

 桜の押し花のしおり。

 それは、ただの乾いた花びらとは思えないくらいの熱を発している。さらに言えば、ほんのりと光っているようにも見える。

 まるで、私に呼びかけるみたいに。

 ――桜の花びら。

 ――桜の色、桜色……!

(もしかして、『桜色』のコロル……!?)

 はっとして、手の中のしおりを見つめる。

 これは私にとって、大事な『お守り』。

 でも、ネロくんを守ることの方が、今は……!

「っ……ごめん、おばあちゃん!」

 そう言って、ラミネートをべりっとはがす。

 むき出しになった押し花に筆先を当てると――とぷん、と色がにじみ出た。

(やっぱりそうだ、コロルだわ……)

 パレットの絵の具と違って、これは量に限りがある。たぶん一筆か二筆か、そのくらいしか使えないでしょう。

 そもそも桜の花を描いたって、敵を倒せるほどの強力なものにはならないと思う。

 それでも。それでも、これに懸けるしかない!

 すうっと息を吸って――呪文を唱える。


「トリドリ・イロドレ・イロドリカ――出でよ、桜吹雪っ……!」


 ――ぶんっ!

 私は、筆を握った右手を大きく振りかざした。

 筆先からこぼれた絵の具のしぶきが、ふわりと空気に触れて、桜の花びらへと変化する。

「……!」

 ネロくんが、わずかに目をみはって。

 黒フードが、不思議そうにそれを見て。

 ――私は、全力で叫ぶ。

「……お願い、ネロくん……!」

 ネロくんは、私の方を一瞬だけ見て――一つ、うなずいた。

 鋭いまなざしとともに力を込めて、黒フードが持つ杖をガシンと弾き飛ばして。

「――はあっ……!」

 黒い剣が、その体に一撃を叩き込んだ――。

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