14:鮮やかな世界

「いやぁ、体育の授業、疲れたね~」

「本当、へとへとよ。もう腕が筋肉痛な気がするわ……」

「え~? 姫ちゃん、絵描けそう?」

「そこは大丈夫よ、別腹だから!」

「ふふ~、そうこなくっちゃ!」

 のぞみさんと一緒に美術室に向かうのも、もう何度目かしら。

 最初は一人で見学に行こうと思っていたのが、ウソみたいね。特に誘ったりしなくても、部活の時間になると自然とお互いを待つようになっている。

「失礼しま~――」

 元気なあいさつとともに美術室の扉を開けて、

「……あ」

 教室の中にいたのは、古屋くん一人だけだった。

「……先生、職員室行ってる」

「あ、そうなのね……」

 ……この前ぶりだけど、何となく気まずいわね。いろいろ話したからこそ、距離の取り方が分からないわ。

(というか、のぞみさんは……)

 言い争いになってから、美術部で会うのは初めてよね?

 そう思っていると――すっとのぞみさんが前に出た。

「……古屋くん、この前はごめんね」

 そう言って、真面目な顔で古屋くんを見る。

「わたし、何も分からないまま、古屋くんのこと否定しちゃってたよね」

「や、あの時は俺も、イライラしてて……」

 古屋くんも、少し口ごもりながらも、はっきりと言葉をつむぐ。

「……ごめん、小宮。あと姫川にも……迷惑かけた」

「気にしないでちょうだい! 二人が少しでも分かり合えたのなら、私は満足よ!」

「……うんっ! 改めて、これからよろしくね~!」

 というか、ちゃんと私たちの名前覚えててくれたのね、古屋くん。やっぱりいい子じゃない。

 これでようやく、美術室に穏やかな時間が戻ってきた。

 私たちが少々ぎこちなくも和やかな空気になっていると、

「いやー……いいな、青春って感じだな!」

「せ、先生!? いつの間に……」

 腕組みをした木下先生が、入り口の扉にもたれかかって、うんうんとうなずいていた。

「描く理由も、目的も、どんな絵を描くかも……ここではみんな違って、みんな自由ってわけだ」

 そう言って、温かな目で私たちを見る先生。いい感じにまとめたわね。

「……というわけで、課題が終わったやつは自由行動でいいぞ」

「急に雑になったわね!?」

「はは。お前たち、想定より筆が早いから……。体験入部期間ももうすぐ終わりだしな」

 そういえば、そうね。

 私たちはまだ、正式な美術部員ではない。体験入部期間が終わったら、入部届を提出して、本格的に所属になるという流れなのだ。

 作品を二つも描いたし、ちょっぴりトラブルもあったしで、濃い時間を過ごしたような……それでいて、あっという間だったような……。でも、楽しかったのは間違いないわ。

「……俺はまだ手直しするので」

「うん、わたしももうちょっと描き込んでみようかな~」

 のぞみさんと古屋くんは、課題の続きをやるみたいだけど……。

(私は、どうしましょうね……)

 ……正直、もう納得のいく出来にはなっているのよね。

 下手に手を加えるより、このままの方がいい気がする。『楽しい』気持ちは、十分この絵に込めたから。

 それに……と、私はのぞみさんたちの方を見る。今の二人なら、また同じトラブルが起こることはないでしょう。

「じゃあ、どこかでスケッチでもしてみようかしら」

「おっ、いいじゃないか! 今日は晴れてるし、外で描いてみるのもいいと思うぞ」

 先生にも賛成してもらえたことだし、私は荷物をまとめて、外へ繰り出すことにした。


 さく、さく、と草を踏みしめて歩く。

 運動部のかけ声、吹奏楽部の演奏……放課後の音が聞こえてくる。

(中学校に入って、しばらく経ったけど……)

 まだまだ知らない景色ばかりで、どこを描くべきか迷ってしまう。

 こういうとき、ついつい行ったことのない場所を開拓したくなっちゃうのよね。校舎の裏の方へ、一人で歩いていってみると……ぽつんと立つ人影が見えた。

 それは、セーラー服を着た、すらりと背の高い――。

「……綾瀬先輩!」

「ん……」

 綾瀬先輩は私に気づくと、顔を上げた。

「ああ、一年の。えーっと」

「姫川です」

「あー、姫川さん。絵の具見つけてくれたんだって? ありがとね」

「いえいえ、偶然見つけたもので……!」

 例の絵の具箱はフタを開けて置いてある。ちょうど使っているところみたいだ。やっぱり、取り戻せてよかったわ。

 イーゼルに立てかけられたスケッチブックには、描きかけの色が踊っている。まだ淡くてはかない、でも何だかキレイな色。

「スケッチをしていらっしゃったんですね」

「うん。……学校の中って、いろんな景色があるから」

 そういえば、飾ってあった絵も、学校の風景だったわね。学校のモチーフ、好きなのかしら。

 せっかく綾瀬先輩と二人きりで話せる機会だし……私は、思いきって聞いてみる。

「……上手く描くコツとか、あるんですか?」

「んー……やっぱり、描くものをよく観察すること、とかじゃない? 奥行きとか、影だとか」

 なるほど、実にその通りだわ。

 私はじっくり観察しながら描くのが苦手だから、どうしてもバランスが変になったり、ゆがんで見えたりしちゃうんでしょうね。絵に立体感を出すには、間違いなく重要なこと。

 綾瀬先輩は、いろいろ考えながら描いているからこそ、人を引き込む絵が描けるのね。

「あとは、流れに任せて、わーっと」

「わーっと」

「うん。それが一番、気持ちよく描ける」

 前言撤回。やっぱりただの才能だったかもしれない。

 ……結局のところ、綾瀬先輩は『天才』というやつなんでしょうね。

(古屋くんの気持ち、ちょっと分かるかもしれないわ……)

 天性の才能も、身につけた知識や技術も、優れている。そんな存在が身近にいるのだ。のほほんとした雰囲気をまとっていながら、実際は追いつくことも超えることもできないような存在が。

 ……私からしたら、あまりにも遠すぎる存在だけどね。

 綾瀬先輩は、開かれたスケッチブックを見つめながら言う。

「前も、同じ場所で絵を描いたの。でも同じ絵にはならない。その時見えたものも、感じたものも、違うから」

「あ……分かります」

 私は同意を示す。

 とても届きそうにない存在だけど……その感覚は、ちょっと通じるものがある。

「今見える世界は……今だけのもの、ですものね」

「ん。よく分かってるじゃん」

 ぐっ、とサムズアップする綾瀬先輩。やっぱり愉快な人の気配がするわね……。

 ざわざわと風が吹いていく。緑の匂い、春の匂いがする。

「姫川さんは、さ。絵を描くの、好き?」

 そんなことを問われて、私は。


「――好き、です」


 答えが、口をついて出た。

 それは。それだけは、はっきりと言える。

「私……特別絵が上手いわけじゃ、ないですけど。昔から続けてきたことで」

「うん」

「上手く描けなくても、モチベーションが湧かなくても……『やめたい』って思ったことは、一度もなくて」

 目を閉じて、思いを巡らせる。

 絵を描くのは、楽しくて、苦しくて……でも、やっぱり楽しい。

 楽しいから、まだ描いていたいって思う。

「やめられないんです、きっと……。私の心が、鮮やかな世界を描きたがっているんです」

「……うん。その気持ち、大事にするといいよ」

 はっとして、目を開けると。

 綾瀬先輩は――私を見て、やさしく微笑んでいた。

「姫川さんの見てる世界は……きっと、すごくキレイなものなんだろうなって、思うから」

「っ、はい……! ありがとうございます!」

 ぺこりと頭を下げて、私はその場を離れる。

(――私は、絵を描くのが好き)

 それは、私の中からするりと引き出された結論だった。

 知識や技術が足りなくても、周りと比べて下手でも。

 『好き』というだけで――描き続ける理由は、十分だと。それが一番、私の絵を輝かせるんだと。

(私は……もっといろんなものを、描いてみたい……!)

 そのはじまりは自分のためでも。自己満足でも。

 まだ見たことのないモノ、まだ知らない色――それを追い求める好奇心は、きっと何かに繋がっているから。

(今ならきっと、いい景色が描ける気がするわ……)

 軽い足取りで、校舎沿いを歩き出して。

 そのとき……私の視界の端に、何かが映った。

「……えっ」


 背丈の低い、丸っこい影。

 それは――あの『黒フード』だった。

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