13:追いつけない人
「んん……」
古屋くんのわずかなうめき声が聞こえて、はっとした。
そういえば、この後どうすればいいのかしら。絵の具箱は落としものとして届けるとして……古屋くんは?
答えを求めるように二人の方を見ると、ああ、とネロくんがうなずく。
「彼が起きる前に、僕たちは退散しないと。記憶も一緒に浄化されてるはずだから、魔法のことは覚えていないと思うけど……混乱しているだろうから、ケアしてあげてくれるかい。咲良」
「えっ」
「よーし、それじゃあとは頼んだぞ!」
「えっえっ」
戸惑う私を置いて、ネロくんたちは窓から颯爽と飛び去っていった。
階段の踊り場にぽつんと残されたのは、古屋くんと私の二人きり。
「……どうしろっていうのよ!」
まあ、嘆いていても仕方ないわね。とりあえず彼を起こしましょう。
「古屋くん、古屋くん」
とんとんと肩を叩いて、声をかけると……ぴくんとまぶたを震わせて、古屋くんが目を開けた。
「あっ……おはよう?」
「……何これ、どういう状況?」
まあ、そうなるわよね。
「ええと……よく分からないけど、あなたがここに倒れていたのを見つけたのよ。寝ちゃってたのかしら?」
「本当に?」
「どうしてウソをつく必要があるの?」
……ごめんなさい。必要に駆られてウソをついているわ、今。
罪悪感で胸はちくちく痛むけど、魔法のチカラを知られるわけにはいかないものね……。
古屋くんは私の言葉を聞いて、ふるふると頭を揺らす。
「はぁ、最悪……」
……とりあえず、さっきのことは覚えていないし、気づかれてもいないみたいね? そこは安心だわ。
古屋くんは、ゆっくりと身を起こすと。
「……」
黙ったまま、視線を上げる。
その先の壁には――額縁に入れられた絵が、飾られていた。
この絵は……学校の景色かしら?
校舎と校舎に挟まれた、芝生の生えた空間。フェンス越しに見える青空と白い雲。およそ半分くらいの面積を空を描くのに当てている、ちょっと大胆な構図の絵だ。
(……きれいな絵ね)
爽やかで、透明感がある。この淡い色合い……水彩絵の具で描いたみたいね。
そういえば、こんな場所に立っていたってことは、さっきもこの絵を見ていたってこと? 何か思うところがあるのかしら。
そう思って、聞いてみる。
「この絵、好きなの?」
「……好きじゃない」
でも、絵から視線を外すことはない。
吸い込まれるように見ている……とでも言えばいいのかしら。
「……これ、綾瀬先輩が一年の時に描いた絵なんだって」
「えっ……綾瀬先輩が?」
「入学してすぐにコンクールに出して、賞を取ったやつ」
そういえば、綾瀬先輩の絵を見るのは、これが初めてだった。
よく見てみれば、絵の下に小さなプレートが添えられている。
『秘密の場所 綾瀬絵里香』――タイトルね。開けた場所なのに『秘密』というのがまた、味わい深いところだわ。
これが、綾瀬先輩の描く世界……綾瀬先輩が見ている景色。
「……俺には、こんな絵は描けない」
古屋くんが、ぽつりと呟いた。
「今の俺は、同じ一年生だった頃の先輩にも勝てない。何もかも、足りてない」
「……」
「だから、俺は描くしかない。俺は天才でも何でもないから……上手くなるには、描き続けなくちゃいけないんだ。上手くならなきゃ……いけないんだ」
そう言って、古屋くんは立ち上がる。階段の手すりに手を置きつつ、下の階へと下っていこうとして……。
「……ねえ」
思わず、声をかける。
せっかく彼が、心の内を見せてくれたんだ。だったら私も、今、伝えたいことを伝えなくちゃ。
「この前は、止められなくてごめんなさい。……古屋くんにとって『評価されること』は、『上手くなること』は、すごく大事なことだったのね」
「……!」
古屋くんが、わずかに目を見開く。その感情が動いたのが分かる。
やっぱり……予想は、当たっていたみたい。のぞみさんとも私とも違う、古屋くんの『絵を描く理由』。
「あなたなら、きっとできるわ。だって、描くことに一生懸命で、上手くなろうと努力してるんだもの」
「……ちょっとしか見てないのに、そんなこと分かるの?」
「ちょっとしか見てなくても、十分伝わってくるのよ。古屋くんが、すごく真剣に絵と向き合っていることが」
「……」
この言葉がどのくらい届いているのかは、分からない。
「だけど! 一つ言わせてちょうだい!」
それでも、私の気持ちを正直に言葉にしたい。
「あなたにとってはくだらないこと、どうでもいいことだったかもしれないけど! 私たちにとっては、好きなものを好きなように描くことが原動力なの! 大事なことなのよ!」
階段の下から、古屋くんがこちらを見上げている。
天井の蛍光灯が、私たちをかすかに照らしている。
「……古屋くんにもそうあってほしい、とは言わないわ。でも、のぞみさんや私の『好き』を……『描く理由』を、否定しないでくれるとうれしいの」
「……そう」
それだけ言って。
今度こそ、古屋くんは振り向かずに階段を下っていく。
「あっ……」
こつ、こつ、と足音が遠ざかって……やがて、その姿も見えなくなった。
私は、壁にもたれかかる。少し開いた窓から、風が吹き込んでくる。
「ふぅ……」
ゆっくりと息を吐いて、私は天井を見上げた。
(伝えたいことは、伝えられた)
……響いたかは、分からないけど。
静かになった空間で、頭の中に話しかける。
「ねえ、リトルテディ」
『……』
「リトルテディ?」
『ああすみません……ちょっとうとうとしてました』
イマジマリーフレンドがお昼寝って。
「本当に能天気なんだから……」
『いやあ、ぽかぽか陽気が気持ちよかったので、つい』
「もう、しっかりしてちょうだいよ」
気持ちは分かるけどね。最近はいい天気が多いし、眠くなってしまうのも仕方ないのかしら。
人のいない階段を、とん、とん、と一段ずつ下りていく。
「ねえ。……私に、何ができるかしら。ネロくんや、アクアちゃんのために」
『……珍しいですねえ。姫さまが他の人のことを案じるなんて』
「何よ。いつも自己中だって言いたいの?」
『滅相もございません!』
ぶんぶんと慌てて頭を振るリトルテディの姿が見える。……空想だけど、そうだろうなって分かるわ。
『姫さまはもう十分に、できることをやっていると思いますよ。今日だってそうでした。一早く異変に気づいて、逃げずに対応したじゃないですか。姫さまがいなければ、綾瀬先輩さんの絵の具は行方知れずのままだったかもしれません』
「でも……私一人じゃ解決できなかったわ。もっと、できることを増やしたいの」
私に、何ができるのか。
ネロくんに『呪い』のことを告白されてから、考えるようになった。
ただ守られるだけ、甘やかされるだけの私でいるわけにはいかない……って。
私がそう言うと……リトルテディは、しみじみと呟く。
『……姫さまは、変わりましたねえ』
「そうかしら?」
でも、そうなのかもしれない。
今の私は、箱庭の中で夢見るだけのお姫様じゃない。
広い世界に踏み出して――少しずつだけど、進んでいる。
(いつかは、私も……)
勇敢なお姫様に、なれるかしら。
誰かのためのチカラを使いこなせるように、なれるかしら。
手にした魔法の筆を見つめながら、そんなことを考えた。
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