第11話

「私、この人と音楽することにしたんです」


 そう言ったのはすみれ。『この人』とは、おそらく自分のことだろう。

 女の表情が急に曇り出す。彼女自身もその発言がいきなり過ぎて頭の整理ができていないといった様子だった。


「……は。何……何よそれ。すみれ、さすがに勝手過ぎるでしょ?」

「勝手じゃないです。昨日、ちゃんと退部届け出しました」

「違う! そういうことじゃない!」 


 その女の口調には明らかな怒気が含まれていた。その怒りが爆発してしまうのを何とか抑えているようであるが、もう爆発するのも時間の問題であろうか。明らかに感情の方が前に出過ぎてしまっていた。


彼女がすみれに向けるそのとてつもないほどに威圧的な目つきは、当然ハクを委縮させるのに十分で、口出し一つできるものではない。

 ただ一つ。疑問に思うことがあった。


 ――この人は、どうしてこんなに怒っているのだろう。


 彼女はもう退部したと言っている。

だったら、もう彼女は自由同然じゃないか。なぜ彼女を自由にさせてやらないんだ。


そう思うと、少しだけ憤りを覚える。

けれど、なぜかその憤りを言葉にするには至らなかった。それを言葉にするのはあまりに無責任過ぎると感じたから。


「コンクール……」女は言った。「十月のコンクール。どうしてもあなたが必要なの、すみれ」


 そっとその女は、すみれの手を掴んだ。


「今ね、代わりの人が弾いてるの。けど、はっきり言ってあれじゃ金賞なんて絶対取れない。あの自由曲にはすみれのピアノがいるの。あれはすみれあって吹奏楽部なの。だから、ねぇお願い。戻ってきてまた一緒にやろ? 一緒に金賞目指そう? ……ね?」

「すいません」すみれは言った。


その言葉は、申し訳なさの欠片も感じ取れないほどに冷たかった。


「金賞とか、そういうの興味ないんです私」

「金賞とか……」


彼女はついに怒りを抑えきれなくなった。


「あの時みんなで金賞目指そうって言ったじゃん!! 今年こそ取るぞって!!」


 握りしめられたすみれの手が、荒々しく揺れ動く。


「すみれ。本当にこのままでいいの? 去年の……あんな終わり方のままでいいの? 悔しくないの? ……ねえ、お願いすみれ……吹部、辞めないでよ……一緒に――」


 するとすみれは、今まで握りしめられていた右手をすっとほどいた。

 まるで決心したようなまっすぐな顔つきで、すみれは女の目を捉える。


「私は金賞を目指そうだなんて一言も発してません。興味もないです。それに――」


 一瞬だけすみれは、ハクに視線を移した。


「私、今やりたいことあるんです。申し訳ないですけど、もう吹部に戻る気はありません」


 涙をにじませている女に対し、すみれははっきりとそう断言した。


「申し訳ない……?」だが彼女は、それで納得するわけもなく……「申し訳ないって何!? すみれ絶対そんなこと思ったりしてないよね! 見下してたんでしょ……最初から。自分だけピアノが飛びぬけて上手いからって、それで注目されて私たちみたいな才能ない人たちのことなんかどうでもいいって思ってるんでしょ。そこにいる男だってどうせ、自分と同じ才能があるから気に掛けてるだけで」

「違います勝手に決めつけないでください……!」


 なぜだろう。自分は怒りに身を任せてそんな発言をしていた。

 突然の発言に、女は黙ってこちらを見てくる。


「なんでそう、人のことを勝手に判断しようとするんですか……!?」


 半ば怖さにやられた状態で言った。そこにはもちろん、己の弱さも表れていたと思う。 


「うっさい!! だいたいあんた誰なの……!? なんにも知らないくせに口挟もうとしないでよ」

「何も知らずに口を叩いているのはあなたもじゃないんですか!?」

「は……」


まさか言い返してくるとは思わなかったのだろう。女は口をぽかんと開け、瞳を空にした。

すると、すぐさま女は顔色を変えて見せる。

まるで虫を見る目で、自分たちをぼおっと見つめ出した。


「あー、もう呆れた。あんたたちみたいなろくに何も通じ合えない人と絡んでた私の方がバカだった」


 女の口調が瞬く間に豹変する。


「帰って……」女は言った。


その声はあまりにも小さく、聞き取れなかった。


「早くここから出てって!! 消えろっ!!」

「……!」


怒りがこみあげてくる。

もう一度、この何もわかっていないクソ女に言い返してやりたかった。けれど――、


「ハク」


 その瞬間、すみれは諦観を含んだ声で自分を呼び掛けた。

 背中に、優しい彼女の手がゆっくりと添えられる。

 理由はわからない。こころからの安心を感じられたのはこの時だった。

「行こ」

手のひらが、やさしく前に進むことを促す。

あたかもすみれは、もうこれ以上言っても無駄であると言っているようで。

「………」

 やがて二人は音を立てることなく、ただ静かにその場所を去った。

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