第10話 身勝手の轍
――ガラガラッ。
教室の戸よりもずっと古びた引き戸の音は、どことなく懐かしさを感じさせる。
彼女は迷うことなく、奥にあるグランドピアノめがけて歩きだした。
(……そっか。だから音楽室)
「あの、大丈夫なんですか? ぼくが勝手にここに入っても……」ハクは言った。
「別に吹部じゃなくても使っていいと思うけど。それにあの人たち、いつもこの日は使ってないはずだし」
ハクは吹奏楽部のことなど、まったく知らない。故に、すみれの言うことは真実と受け取るほかなかった。無論、彼女は今までこの部活に入っていたのだから、内情に詳しいのは言うまでもないことである。
しかし、誰もいない空間に男女でいるというこの状況というのは、嫌でも緊張感を呼ぶ。それもそのはず。こんなこと、今までの人生で一度も経験したことがなかった。
沈黙が目立つ。その沈黙をどうにかして埋めようと、考えを巡らせてみたものの一向に何を口にすればいいのかわからない。結局気まずい空気のまま、向かいの彼女が再び口を開くのを待つことしかできなかった。
「こっちこっち」すみれは自分に向け手招きをしてきた。
自分はおぼつかない様子で、首を左右に動かしながら彼女の元に寄っていった。
そんな彼女はというと、すでにピアノの座席に座っている。
華蓮で凛としていて、この豪華絢爛なグランドピアノにこれ以上似合う人間はほかにいるのかと思ってしまうほどにその姿は様になっていた。
それとともに焦る。
自分がいかに、この女性と遠く離れた場所にいるのかと。
何だか、自分が場違いみたいに思えて。
「昨日聴こえた曲、まだ覚えてる?」唐突に、すみれは口を開いた。
「はい。……あ、でも歌詞とかそういうのなくて」
「別になくてもいいよ、鼻歌とかでも」
「わかりました……」
どうやら、ピアノで伴奏するかと思ったが違うらしい。背筋が伸びたきれいな姿勢、それでいて手を膝に乗せ椅子に腰を据えている。黒い瞳はまじまじとこちらの眼光を捉え、自分が応えられそうにもない期待をひそかに感じ取った。
「あの……」ハクは細々と言った。「後ろ……向いててもいいですか」
ハクが歌って、ほんの少しの時間が経過した。
すみれはただ黙って、ハクの口ずさむ旋律を聴いていた。
手の位置も姿勢もさっきとは変わっていない。だが表情だけに変化があった。
唇と唇の間に、ほんのわずかな隙間ができている。
黒い瞳の中に、いつしか星のような光が宿り込んでいた。
――完全に、呆気に取られていた。
特段、彼が口ずさむその曲に技術的な何かがあるというわけでもない。
伴奏もリズムも何もないただのアカペラ。
凡庸に聴こえて当たり前なはずのその旋律に、なぜか魅了される。なぜだろう。いったい自分はどこにこの魅力を感じているのだろう。
――そう思考を巡らしているうちにはもう、永遠と彼の歌を聴き続けたいとこころから願っていた。
背を向けたままのハクは、当然そんなことは露ほどにも知らない。彼はいまだ緊張と不安の渦に呑まれそうに震えをこらえながら、かろうじて歌い続けていた。
サビまで歌い終えたところで、ハクは歌うのを止めた。
「どうしたの?」すみれは言った。「歌わないの? 続き」
ハクは振り向いたその瞬間、吃驚した。彼女の顔があまりにも、何かに憑りつかれたように豹変していたから。
彼女の言葉通り、ハクは再び歌い始める。その刹那のことだった。
どことなくクラシックな雰囲気を漂わせる質素な――しかし不思議と上品さを感じさせるピアノの伴奏が耳元に届き始める。思わず目を見張った。彼女が弾いているそれは、あまりにも――。
〈すごい……。
やっぱりこの人、ほんとにピアノ上手なんだ……。
奏でる音一つ一つが一級品。
ただ上手いだけのピアノじゃない。
むしろこれは――。
なんでおれ、この人の隣に並んでるんだろう……。
おれとこの人は、全然別の世界にいるはずなのに――〉
「いい曲だった」
歌を歌い終えたこの瞬間も、いまだピアノの音の余韻が鳴り響いている。
「本当にこれ、君が作ったの?」驚いたように、すみれは言った。
「そうですけど……あの――どうして、伴奏………すごいよくて……ほんとに曲に合ってたなって」
「わからない……。ただなんとなく弾いてみただけ」
無意識にそれを成し得たというなら、それは天賦の才にほかならないだろう。
「いいよ」すみれは言った。「君と音楽やっても」
驚きよりも、興奮と期待でどうかなりそうになった。
「え……!」
――ガラガラッ
その瞬間、引き戸が開かれる音が音楽室全体に響き渡った。あまりに突然過ぎる出来事に頭が追いつかない。
「すみれ……?」
現れたのは制服を着た女子だった。
(あの人……どこかで)
すぐさまその女は、すみれのもとに近寄ってくる。
「ねえ、すみれ……」その女はなぜか情緒的だった。「なんで……吹部辞めたの?」
(え……!?)
「君、昨日の……」
その女はハクを見るなり、目を見開きながらそう言った。
「私、この人と音楽することにしたんです」
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