病気なんです

「――それと日直は日誌を私のところまで届けるように。教室に残る人は、ちゃんと戸締り忘れないようにな。それじゃ――」


 先生がホームルームを終わらせたその瞬間、ハクはバッグを背負うなりすぐに教室を出た。

 最上階――三階に向かって一段飛ばしで階段を上がっていく。


 足を踏み出し、上へ上へと向かっていく度に、期待感にますます拍車がかかっていく。


 ――もしかしたら。


 そう思うだけで、このうずうずが止まらない。


 気づけばもう最上階。全力で階段を駆け抜けたせいで、息をするのに精一杯になる。膝に手をつけて呼吸を整え、ハクは目先の扉へ近づいていった。


 音楽室前。

 あの人は放課後ここに来いと、そう告げた。

 この先にあの人がいると思うと何だか緊張してくる。

 いったい何に緊張しているというのか。

 考えても仕方のないことだ。とにかく中へ入らなくてば。


「って、閉まってるし……」


 扉を開けようとしたものの、鍵がかかっていて中には入れなかった。


〈聞き間違い……? 

 いや……そんなはずない。あの人、放課後ここに来いって言ってたし。

 でも、あの人吹奏楽部の人じゃ……。

 そもそも、おれがここに入っても〉


「誰?」後ろから声がした。


 そんな声を聞いて思わず高揚してしまう自分がいた。

 今来たんだ、あの人――安心とともに、振り向いた。


「…………」


 そこにいたのはまったく身に覚えのない女子生徒だった。

 そこに妖艶さや華奢な体つきといったものは見受けられない。


 まず眼鏡をかけていた。自分を怪訝そうな目で見つめていることもあってか、厳格さと冷徹さを感じさせる。

 それが余計、自分の不安を煽った。


「ここ……今から何かに使うんですか?」ハクは音楽室の戸を指さしながら言った。

「今から……吹奏楽部が使うけど、ここ」

「そう……ですか」

「………?」その女子生徒は眉をひそめた。

「……何でもないです。すいませんでした」


 逃げるように、ハクはその場を立ち去る。

 視界から消えていく彼を見て、


「何、あれ……。変な人」


 その女子生徒は、そんな下劣な感想を吐いたのだった。


 ♢♢


 行先など決めず、とにかく階段を下りる。

 しかし階段は思ったよりも短い。すぐに一番下の階へと辿り着いてしまう。


 とにかく、誰にも会いたくなかった。人と会うのが怖くなって。

 誰も来ないような場所を探しては、やっとそれらしい場所を見つける。


 そこは埃まみれのモップや汚れ果てた物置があったりで、全体的にも清潔感に欠如している場所だった。


 電気も付いていないから、辺りは雨雲のように薄暗く少し不気味な雰囲気を醸し出している。

 異様に埃臭く、たまにその埃が鼻に寄ってくるのにはかなり気分を害された。


 けれど、ここでいいのだ。こういう場所を探していたから。


〈結局あの人来なかったし……。


 勘違いしてたのかも。

 大体、考えてみたらあの人は今から吹奏楽部の練習があるはずなんだ。

 それで音楽室に誘われたんだから……。

 きっとおれを吹奏楽部の入部希望の人って勘違いしてここに呼んだ……


 あぁ、なんだ。そういうこと……。

 なんか都合よすぎるって思った。

 おれが勝手にいいように勘違いしたんだ。


 もう家に帰ろう、早くここから消えたい……〉


 そんな時、再び呪いが襲いかかる。

 絶望は、一瞬にして苛立ちへと変わった。


(ああ! なんでこんなときに限って……!)


 彼は唐突にその場にしゃがみ込み耳を塞ぎだした。目を閉じ視界を完全に遮る。


 一分二分三分と――。


 静止画のように微動だにしないまま、時間はゆっくりと経過してゆく。

 教室から鳴る、時計の針の音。外から流れる風が靡く音。


 その音たちも、彼には何一つ聞こえない。

 周りの音も、眼前に移る視界さへも彼は断っているのだから。


 それは一つの、ある何かに全神経を注ぐため。

 やりたくもない。こんなこと。

 それでもやらされるのだから、これを『病気』と呼ぶしかないのだ。



 そんな誰もいないはずの場所に、一人の人影が現れる。

 目と耳を塞いでいるハクには、それに気づく余地はまったくなかった。


 人影はハクに近づき、やがて彼の背中のすぐそばにまで接近する。


 人影は声を発した。「ねぇ」と。


 しかし彼が気づくことはない。


 トントンッ――今度はハクの肩に触れる。


「……?」


 それでも気づいてもらえない。人影は思わず眉根を上げた。


 ――トンッ。


 今度はより強い力を込めて彼の肩を叩いた。

 ようやく異変に気づきだすハク。

 とっさに後ろを振り向いたその時――


「―――っ!」


 驚きのあまり、ハクは後ろに向かって盛大に尻もちをついた。


「何してるの? そこで」


 人影、いや女は言った。


「へ……」


 突然のこと過ぎて頭が追いつかない。

 なぜ彼女がここに?

 部活は? 音楽室にいるはずじゃ……。


「えーっと、その……」


(え……。もしかして今の全部見られてた……?)


 何かごまかせるようなセリフはないかだろうか。こういうときに限ってまったく頭が回らないのが苛立たしい。

 だがもう見られてしまったのだ、全部もろとも。いっそこの人ならこのことを理解してくれないだろうか……。


「病気、なんです」ハクは言った。

「病気?」

「急に頭の中で鳴り出すんです。音楽が。しかもそれ、自分がまったく知らない、一度も聴いたことがない曲で……。それが聴こえてくると、段々衝動に駆られるんです……聴こえてきたその音楽をもっと聴きたいって。……それで、耳と目を閉じたらそれがもっともっと鮮明に聴こえてきて。欲求が満たされるまでずっとそうしないと正常じゃいられなくなるんです」


 なぜだろうか。こうやって『病気』のことを話していると、何かがこころの底から解放されていくような感覚になる。


 本当に今までにないくらいに気持ちがよくて、心地よくて、自分の中にある不安感とかむしゃくしゃする怒りみたいなものも何もかも全部が、穏やかで温かみを帯びた得たいのしれない何かに包みこまれていく感覚になる。


 それが引き金となった。

 無意識に次から次へと、自分の口は勝手に動きだす。


「あなたに、こんなことを言うのは全然見当違いなのはわかってますけど……ぼくどうすればいいですか? どうしたらこの『呪い』をなくせると思いますか? もうここ四年くらいずっと苦しいままなんです……誰にも相談できないし、自分でもどうしたらいいか全然わからなくて……」


 ハクは無意識な自分の言動にはっとし、顔を上げた。


「すいません……こんな話急に……」

「何が聴こえてたの?」女は尋ねた。

「え……?」

「だから今、何が聴こえてたの? 頭の中の音楽」

「……えーと、オペラ? オペラみたいな女性の歌……でした」

「普段も、オペラなの?」

「あとは……オーケストラみたいな、いっぱいのバイオリンの音とか、ピアノの音とかあって――」


 思い出すようにそう話していると、


「あはっはっはっはっはっ!」

「………!?」


 その人は突然、高らかに笑いだした。

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