夜月のようなひと
「え、え、ええええええ!!」
「私に何か用? さっき目、あった」
かすかに聞こえるしゃべり声。その透き通るような声音はなぜか耳にすっと入ってくる。
彼女は、座っている自分の顔に合わせるように膝を曲げ腰を下ろした。顔と顔の距離が近過ぎて、思わず鼓動が速まる。小説か何かの本を開いたまま、それで顔を覆っている。そのせいで目から下は見えなかった。
黒い瞳。綺麗で、整っていて、黒色の宝石が瞳の中に宿っているみたいだった。
「目……ああ、それは……」
その先、何も言葉が出てこなかった。
「………。何もないなら私戻るけど……もうすぐで昼休み終わるし」
〈どうする?
ほんとに言うのか?
……でも、絶対断られる〉
「じゃあ――」
女性が背を向けたその時――
「あのっ!」ハクは叫ぶように言った。
彼女は声に反応し再び振り返る。
「ぼくと音楽しませんか……! あの、聞いたんです。あなたがすごくピアノが上手だって」
「音楽……?」
そう言った途端、彼女は顔を覆っていた本をどけた。
ふと夜空に浮かんだ月が視界の中に入ってきて思わず《きれい》だと純粋無垢に思ってしまうように、この女性もまた《なんて美しい人のだ》と、感想を抱いてしまう。
己の眼光すらも奪い去ってしまうその眩い目つきは、音の速さで妖艶さという檻に閉じ込め意識を奪い去ろうとした。
他方、彼女は沈黙していた。
再び本を顔に当てたまま、何か思考に耽っている様子で。
「音楽って何やるの?」彼女は唐突に口を開いた。「君って、何か楽器とかやってるの?」
以外にも食いついてきたことに内心驚きながらも、彼女が聞いてきたその質問には胸が強く傷んだ。
「楽器は……何も弾けません……」
「じゃあ君、歌うの?」
「……歌わないです」
「………。君は何もないの? 何もないのに私に音楽しようって言いに来たの?」
「……そうです」
「わからない、どうして私にそんなこと言おうって思えるのか」
「それは……音楽がしたくて」
「何もないのに?」
「………!」
〈何がしたいんだろう、おれ。
やっぱり音楽しようなんて思うんじゃなかった。
この人の言う通りだ。何もないのに音楽なんて無理だ。
なんで、そんなことにも気づかなかったんだろう。
もう止めよう。
ここまでやったんだ。自分にしては行動した方じゃないか。
これで。これで……〉
「…………」
ハクは再びその女性を見た。
彼女はなぜか静止していた。小さな瞳が再び自分を捉える。
――キーンコーンカーンコーン……
鐘の音が鳴り響く。五限が始まる五分前の鐘の音。
彼女は口を開け今にも何か告げようとしている。
ハクは拳を握った。
もう諦めよう――そう思っていた矢先に、彼女の口からこんな言葉が発せられるとは思いもしなかっただろう。
「放課後、音楽室に来て」
「え……?」
彼女は颯爽と駆けだした。階段を風のように駆け上がる後ろ姿に、思わず見惚れてしまって——
「あ、ちょっと――」
気づけば彼女は視界から消えていた。
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