その時にはもう逃げだしていた

〈簡単だ、簡単。

一つ上の先輩誘うくらいなんてことない……〉


 ハクは上を見上げた。そこには『2―1』の文字が色濃く映っている。

 その文字を見ただけで、今すぐにでも逃げ出したい気分に襲われた。だがそれではだめだ。もう決意は固めてきたのだから。


 忍びのようにそっと、足を一歩踏みだす。

 瞬間、視界に教室の光景が広がった。


 自分より体格の大きい生徒たち――知らない人だらけで、彼らはあちこちで群れを作っては各々戯れあっている。


 ハクは目を水槽の中にいる魚のように泳がせた。とにかく必死に『その人』を見つけるために。


 どこだ……どこだ――頭の中で、反芻し続ける。


 耳に伝わる上級生たちのしゃべり声、慣れないラベンダーの香水の香り、一部の人からはもうすでに訝しげな目線が送られてきている。

 そろそろ限界だった。


〈あぁ。

 いっぱい人居過ぎて全然わかんないし。

 帰りたい……。人に話しかけるなんて、どうせできるわけないのに〉


「どしたの?」


 突然、誰かが自分に向かって声を発した、気がした。

 いや、本当にその声は自分に向けての言葉だったらしい。声のした方に目を向けると、黒板周辺に戯れあっていた女子たちが自分を見ていた。

 逃げだしたい気持ち半分、どこか救われたような気もした。


 しかしよりによって、自分とは真逆の陽気で怖そうな人たちに声をかけられるとは。

 まぁ、今はいちいちそんなことを考えている場合ではない。これはいわば、チャンス……!


「………」


(あれ……。声が……)


「って、一年じゃん」


『一年』と、そう彼女が断言したのは、おそらくハクのスリッパの色を確かめたのだろう。群れの中から、内二人がこちらの方に近づいてくる。


「どうしたの? ウチのクラスに何かあるの?」

 しかしまた、声を出そうとしてもなぜか言葉が出てこない。


 彼女たちには、彼が極度の人見知りではないのかと察せられたらしく、「どうせ、あれでしょ。委員会とか」「ああ、そゆこと」などと話し始めていた。


 それを聞いた自分はとっさに、


「違います。その、委員会じゃくて……」

「じゃなくて?」

「人を……探してるんです。その、女性の――」



 ――うんとねぇ、ロングヘアで細くて読書が好き。あ、あとちょー美人



「―――!」


 まるで磁石のように、目線は一つの方向へと吸いついていった。

 教室の奥――。


 窓際の席で一人、浮くように読書をしている女子がいた。

 いちいち確かめずとも、彼女が『その人』であると一瞬にして悟った。


「えっと……探してる人って……?」

「あ――その、あの……ひと」


 その生徒を指さし、目の前にいる女子たちに呼んでもらう。


 ――そのはずだった。


 けれど、それ以前に体が言うことを聞かなかった。

 目が合った。彼女の瞳が、自分を捉えていた。

 その瞬間、ハクは突然逃げるようにその場を走り去っていた。


「あ、ちょっと! 君ー!」

 驚いて当たり前のことだ。いきなり訳なく走りだしたのだから。

「なんだったの?」

「さあ……変な人」


 ♢♢


 とにかく階段を降り続けた。

 廊下の隅にある非常口に辿り着き、そこに背中を委ね腰を下ろす。


 人の注意を引いてなかったのは、ここが人気のまったくない場所だったから。全速力で階段を下ったせいで、いまだに息が整いきれない。


〈なんで……なんでおれ、逃げた? 

 あのままいけばあの人と接触できたのに。

 あぁ、これだから……。

 大事な時に逃げ出す。子どものときか何も変わってない。

 あの人たちは最初からできないってわかってて、こんな無理題を押しつけてきたんだ。


 あの人たちの言った通りだ。

 おれは何もできないただの落ちこぼれ。

 楽器一つ弾けない人間に音楽なんか務まるわけない。

 ただ高望みしてたんだ。何も努力してないのに。

 そんな奴と、誰が一緒に音楽やりたいなんて思うんだよ〉


「ねえ」

「………?」


 顔を上げた。声がしたから。



 ――目の前に『その人』がいた。

 


「え、え、ええええええ!!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る