第4話
目の前にいる一人の女子――名前こそ知らないが、この筆箱を落とした本人であることはすぐにわかった。
「あの、これ」ハクは拾った物を彼女に差し出した。
その先に映ったのは、彼女の困ったような顔だった。急に不安が自分を襲ってくる。
「ごめんなさい……」
ハクはバツが悪そうに、顔をしかめながら言った。
「……え、あ、ううん。違う」だが彼女は、首を横に振りながらそれを否定した。「そうじゃなくて……ありがとう、ほんとに助かった」
「…………」
予想外の言葉に口がぽかんと開く。
その隙に、彼女はそそくさと自分の席に着いていった。
(横の席……)
「そこー。大丈夫か?」担任が声を上げた。
見渡せば皆はもうすでに着席していて、全員の注意が自分に向けられていた。
ハクはすぐさま顔を赤らめ、慌てて席に戻る。
「大丈夫です」
そう返事を返したのは、隣の女子だった。
ハクは無意識に首を彼女の方に向けたが、すぐさま顔を元に戻した。
昼休みの時間になると、教室の中は一段と生徒たちの喋り声で騒がしくなる。
学校の一階にある食堂に行く者、そのまま教室に残って持参した弁当を食べる者と、総じてその二種類に別れるのだが。
この教室ではそれぞれ半々といった感じか。周りを見ると、もうすでにちょこちょこと席が空いているのがちらほらと見受けられた。
ハクは後ろから皆が弁当箱を出し始めるのを見計っていた。
別に昼休みなのだからいつ昼食を取ってもいいのだが、雰囲気というか空気というか……自分だけが黙々と弁当箱を開けて食べるのはなんとなく気に触るのだ。
「弥生ー、一緒食べよー。……この机使っていいよね?」
前方から女子たちがやってきた。
ばれないように横目で眺めると、彼女たちは自分の右隣の席に群れ出した。
「いいんじゃない? 誰も使ってないし」
そう言ったのは例の彼女。朝、自分が筆記具を拾うのを手伝ったあの人。名前は知らない。たしか名前は何だったか。少し気がかりに思い、おぼろげな記憶の中から探りだす。
けれどその途中で、それがどうでもいいことだと思い至った。自分はもうこの人と関わることは今後一切ないのだから。
横に座る彼女は、淡々と自身の弁当の風呂敷をほどき始めていた。
席替え後というだけあってか、少しばかり雰囲気に慣れない。なにげなく空雲が映る窓際の方をぼおっと眺めてから、自分もぼちぼち昼ご飯を食べることにした。
「あぁほんとさー、最近部活しんどくない? なんかすごい空気感ギスギスしてて」
「楓、吹奏楽部だっけ?」
「うん…」
「まぁ私んとこもひどいわ」
「バスケ部きついの?」
「うん、なんか…全然先輩たちと上手くコミュニケーション取れてないっていうか」
「わかるわかる。ほんと先輩で決まるよねー空気感とか」
「弥生は?」
「ん?」
「弥生はどうなの? 部活きついって思う?」
「きついよ~」
「……。ってそれだけ!? 全然きつそうに見えないんだけど……」
「嘘じゃないよ、ほんとにきついし」
「ね~、ほんときついよね~」
「辞めようかな…わたし、部活」
「え? 弥生辞めんの!? やだよ~、私だけとかー」
「冗談。でも、それぐらい今の部活、面倒だと思う」
「へぇー。吹奏楽部も大変なんだ。……よしっ、私も頑張ろ。きついけど」
「そだね。辞めるわけにはいかないしねぇ」
「ねえ弥生。ここだけの話さー、部活の雰囲気悪いのって、あの部長のせいじゃない?」
「え?」
「ほら橋野さんのことだって。私あの人いなかったら絶対雰囲気良くなると思うだよね~。あっ弥生、秘密だからねこのこと」
「へぇ~楓、橋野さんのこと嫌いなんだ~」
「別に嫌いとは言ってないし。って! 絶対言う気でしょ先輩に!」
「言わない言わない~」
「なんか弥生の本性最近分かってきた気がするわ」
「弥生のいじわる~。……てか弥生の席良すぎじゃない? 一番後ろの席とか。私なんか前から二番目だよ、二番目!」
「いいじゃん。楓、麗子の真後ろなんだし」
「それはまぁうれしいけどさぁ、さすがに前はやだよ~」
「私も後ろの方がよかったわ」
「後ろってそんなにいい? 黒板見えずらいし、授業中できなくてすぐ寝ちゃいそうになるし。そんなにいいものじゃないよ?」
「違う違う、寝れるのがいいんだって! 私の席とか目閉じた瞬間アウトだよもう」
「目閉じたらはさすがに言い過ぎでしょ?」
「全然言い過ぎじゃないよー! だったら麗子も今度やってみてよ。絶対注意されるから」
「注意されなかったらアイス驕りだからね」
「いいよ。逆に注意されたら私にアイス奢って――」
△△
――先生今日ちょっと会議があるから、帰りのホームルームは足早に済ませるな。日直はきちんと教室の戸締りしておくように。
あの……。
ん?
あ、いや……えっと。
………?
おれ居残りするから………その、戸締りは――
あー、やってくれるの?
うん。
わかった。ありがと。
………。
カアァカアァ。
不規則に聞こえてくるカラスの鳴き声。そこにすずめの鳴き声も加わって、鳥たちの奏でる音楽はさらに重層感を増していく。
後ろに見える平らな机に向かって光が反射した斜陽は、淡いオレンジで教室の全体を輝かせ、白熱灯の色をした光の筋道の中には小さな埃の集まりたちが、まるで小川に流されているかのようにゆっくりと宙を舞っていた。
不意に窓際の方から風を感じて、薄緑の遮光カーテンが激しく踊っているのが横目に映る。
――戸締まりしないと……。
そう思ったのはごく自然なことで、別にそこまで気に留めなかった。むしろ、気になるのはあっちの方だ。
ほんの少し前から、廊下の方で耳元に聞こえている女子たちのしゃべり声。
時間が進むに連れて声はどんどん細まっていって、スリッパが地面を叩く音も段々遠ざかっていく。
「―――!」
ハクは両手のこぶしを強く握りしめた。
――ズズズッ!
椅子の足が地べたを滑る音が、うるさく響き渡る。
刹那、教室には誰もいなくなっていた。
「白石さん」
下駄箱が並ぶ昇降口前の廊下で、ハクは声を上げた。
「……!」
白石、そしてその友人のそれぞれが振り向く。
思いもしない状況に、二人は思わず目を丸くした。
「あの……少しだけ、話したいことがあって……」
「弥生に話したいこと?」友人の方が、眉をひそめながら口を開いた。すると彼女は、急に何かを察したように、「……あぁー、私邪魔みたいだから先行くね、弥生」
「うん、わかった……」
タッタッタッとスリッパの足音を廊下に響く音が、段々と遠退いていく。やがて十秒もすれば、その音も聞こえなくなった。
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