同情
高村 芳
スマートフォンがデスクのうえで震えるのを見て、キーボードを叩いていた手を止めた。パソコンの画面の隅に表示されている時刻に目をやる。金曜日の十六時。定時まではあと一時間ある。私はこっそりスマートフォンの画面を見た。メッセージアプリからの通知は、自治体からのものだった。おそるおそるタップすると、「不審者情報」という文字が目に飛び込んできた。瞬間、私の首筋の肌が粟立つ。震える指でゆっくりと画面をスクロールする。
『不審者情報
五月十二日(木)十五時頃
E町交差点付近
小学五年生女子に声かけあり』
その無機質な文字列に、私はちいさく溜息を漏らす。最近、不審者情報が多いな。デスクチェアの背もたれに体を預け、深く息を吸って天を仰いだ。
「課長、お疲れですか?」
不意にかけられた声に、私はあわてて佇まいをなおした。周囲の音が元通り耳に届き始める。誰かが電話に出る音。タイピングの音。チーム内で交わされる会話。いつもの、オフィスの風景。
「大丈夫です。どうしました?」
デスクのそばに立っていたのは部下の田嶋だった。若く背の高い容姿の整った彼は、女性社員に向ける笑顔と変わらないそれを私に向ける。
「今日、課のみんなで飲みに行かないか、って言ってるんですよ。課長もお時間あれば一緒にどうですか?」
田嶋は白い歯を見せながらジョッキを傾けるジェスチャーを見せた。たった一年前に中途入社してきた彼だったが、この屈託のなさが性別に関わらず人を惹きつけるようだ。私はジャケットの胸ポケットから財布を取り出し、数枚一万円札を抜いて田嶋に渡す。
「今日は用事があるので欠席します。これで楽しんできてください」
田嶋は驚いたようだったが、素直に受け取って席に戻った。私はパソコンに向き直り、仕事を続ける。今日はどうしても、定時までに仕事を終わらせなければならなかった。
◆◆◆
「では、お先です」
定時を二分ほど過ぎたところで、部下が残るオフィスを後にする。私は足どりが軽くならないよう、必死に気持ちを押さえながらエレベータを待つ。近くにある給湯室から、女性社員の声が聞こえてきた。
「田嶋さん、優しいよね」
「課長、飲み会にいちども来たことないんだから誘う必要ないのにね。律儀だよねぇ、ホント」
エレベータが来たので、見つからないうちに急いで乗り込み、一階のボタンを押す。エレベータが動き出し、ホッとした。オフィスが入るビルを出て、駅に向かって足を早める。あの子はいるだろうか。乗り込んだ満員電車の中、目を瞑る。背中にのしかかる誰かの圧力を感じながら、私は頬が緩みそうになるのをなんとかこらえる。
最寄駅で降り、夕方と夜が混じる空を見上げる。駅前のコンビニで缶ビールとフライドチキンを買い、家の方向に向かって歩いていく。しばらくすると、公園が右側に見え始める。私は躊躇うことなく、その公園に足を踏み入れた。
こじんまりとしたグラウンドの隣には、遊具がひしめきあっている。滑り台に砂場。シーソーにブランコ。そして三つのスプリング遊具。私はグラウンドの隅にひっそりと設置されているベンチに腰掛けた。ビジネスバッグを隣に置き、コンビニのビニル袋から缶ビールを取り出してプルタブを開く。カシュッという音が誰もいない公園に響く。私は勢いよくそれを煽った。独特の苦味が喉を瞬く間に駆け降りていく。途端、ふわりとした浮遊感が私を包み込んだ。間髪入れずに、脂が滴るフライドチキンを噛み切る。塩気に満ちた脂がねっとりと口内に広がっていく。それをまたビールで洗い流した。
こうやっていつも、私は『仕事に疲れて公園で酒を煽るサラリーマン』を装っている。ビールもフライドチキンも、それほど好きではない。ただそういうふうに見られたいだけだ。こうしているあいだにも、鼓動がどんどん早まっているのが自分でもよくわかる。アルコールだけのせいではない。腕時計を見ると、針は午後六時十三分をさしている。もうすぐだ。フェンス越しに、公園に沿ってのびている歩道に目をやる。犬を散歩する婦人と、肌がよく焼けた壮年の男性ランナーが通り過ぎたのが見えた。あの子は来るだろうか。小さくなったフライドチキンの包み紙にはべっとりと脂が滲んでいる。ぬるくなったビールを口に含もうとした、そのときだった。
歩道のわきに植えられた茂みの陰から、あの子は現れた。ヘアピンで綺麗に留められた前髪。肩下まで伸びるストレートの黒髪。パフスリーブからのぞく細い腕。小気味よく揺れるフリルスカート。黒のハイソックスに包まれたふくらはぎ。その華奢な背の上で跳ねる、ナチュラルブラウンのランドセル。そして、ランドセルのわきで揺れる、キャラクターもののキーホルダー。
そこであの子は、また別の茂みに隠れてしまった。もうこの公園のベンチからは、あの子の姿を確認できない。一瞬の出来事。私は大きく息を吐き出した。無意識に呼吸を止めてしまっていたらしい。手に残るフライドチキンを放り込み、ビールを飲み干す。脂と苦味が食道をざらりと撫でていく。
夜のグラデーションはよりいっそう濃さを増し、果てに昼を追いやろうとしていた。それとは反対に、私の頬はきっと紅潮しているに違いない。しずかに目を瞑る。この恋心を、少しでも長く味わっておくために。
◆◆◆
土曜日の朝、私はいつもより遅く目を覚ます。コーヒーで無理やり体を起こし、ジャケットを羽織って外に出た。休日はよほどのことがない限り外出するようにしている。そう決めておかないと、家から一歩も出ることなく週末を終えてしまうからだ。財布とスマートフォンだけをポケットに入れ、電車に乗る。
電車のボックス席に座る。私が乗った次の駅で若い女性がふたり乗り込んできた。中学生くらいだろうか。甲高い声で笑いながらスマートフォンを見せ合って話しているかと思ったら、私の向かい側の席に座った。途端、喉を締め付けられたように緊張する。斜め前に座るショートカットの女性が、足を組んだ。ミニスカートからのぞく白い太ももに、窓から差し込む光が当たる。私はあわてて窓の外に視線を向けた。知らぬ間に荒くなっていく呼吸を、頬杖で隠しながらなんとかやり過ごす。ああ、めちゃくちゃに舐めまわしたい。太ももに頭を挟まれたまま、その白い滑らかな肌に舌を這わせたい。そんな欲望が腹の奥に湧き上がってくるが、自分自身の下半身に目をやっても、反応はない。私は彼女たちの笑い声に耳を傾けながら、窓の外をぼうっと見続けた。
電車を降り、駅前のゲームセンターに行く。こんな四十のおじさんが、という目で見られるかもしれないと危惧しながらも、私はゲームセンターの店内に足を踏み入れる。頭に直接響くような騒音のなか、人混みをかき分けながら奥へと進む。客層は様々だった。学生グループ、カップル、独りの老人、子供連れの家族。それらに目もくれず、目的のUFOキャッチャーに辿り着く。昨日、遠目で彼女のランドセルからぶらさがっているのを見たキャラクターのキーホルダーが、これでもかと山積みにされている。私は硬貨を入れ、筐体の丸く青いボタンを押す。
なかなか難しく、キャッチャーの爪が思うようにキーホルダーのリングに引っかからない。もう三千円も使ってしまった。気分転換でもしようと、フロアの隅にある休憩コーナーに座る。割高の自販機でブラックコーヒーを買ってひとくち飲むと、安いコーヒーの香りが鼻に抜けた。
あの子に出会ったのは……。いや、まだ出会ってすらいない。私が初めてあの子を見かけたのは三ヶ月前、まだ冷たい風が吹きすさぶ冬の夕方のことだった。珍しく仕事が早く終わって帰宅する途中、あの子が私のすぐそばを通り過ぎていった。私はその瞬間、目を奪われた。何がそうさせたのかは今でもわからない。友人に笑いかけたその口元からは八重歯がのぞいていた。声は柔らかく辺りに響き、私を包み込む。あの子はすぐさま友人と歩いて角を曲がっていってしまったが、私は心臓が掴まれたようだった。あの子に一目惚れしたのだと気づくのは、それから一か月ほど後のことだった。
小児愛者で、インポテンツ。それは誰にも知られていない、本当の私だった。精神的にも身体的にも社会的にも、誰にも求められることのない自分。これで性欲がないのなら苦労しない。塾帰りの彼女たちを車に引き込めば。彼女たちを羽交締めにして、暗闇に連れ込めば。何千回とそんな考えが頭をよぎるが、私には行動に移す意味さえもない。自分の欲を発散することすらできない、欠陥品なのだから。
そんな私が、金曜日の夕方、一瞬だけ姿を現すあの子に夢中になっている。昨日、あの子がつけていたキーホルダーをわざわざUFOキャッチャーで獲りにくるくらいには。
コーヒーを飲み干し、私は目当ての筐体の前に戻った。崩してきた小銭を放り込み、キャッチャーを動かす。手に汗が滲み、唇が乾く。手に入ったからといって、鞄につけるわけにはいかない。ただ、彼女が持っているものを、私も所有したい。そのくらいの願いは叶ったっていいじゃないか。なかばヤケクソになりながら、私はアクリルの中でにっこりと笑っているキャラクターを凝視し続けた。
そのときだった。爪が他のキャラクターにひっかかったかと思いきや、軌道が逸れてリングにすっぽりと収まった。そのままキャッチャーに引き寄せられ、キーホルダーはぽとりと真四角の穴に落ちた。私は我に返り、筐体の横に手を突っ込む。布地の感触を確かめながら、握った手の中を見る。そこには、間違いなく彼女のランドセルについていたキーホルダーと同じものがあった。手が震える。はは、と思わず息が漏れた。
「よっぽどそれが欲しかったんだね、おじさん」
声のほうを見やると、そこには中学生くらいの見知らぬ男子がいた。「え?」と返すと、彼は笑う。
「だっておじさん、泣いてるんだもん」
次やらせて、と、彼は私を押しのけて小銭を入れてキャッチャーを動かし始めてしまった。私は慌てて自分の顔を拭い、筐体の前から退く。もうこの場所に用はない。人混みの中を、鼻をすすりながら出口に向かう。ああ、ああ。手の中にあの子がいる。キーホルダーのポリエステルの布地は、そんなはずはないのに、どこか温かく感じた。
◆◆◆
日曜日は瞬く間に過ぎ去り、また平日がやってくる。いつものように満員電車の中で、両側から潰されながら出勤する。不快感は拭えないが、でも大丈夫だ。ポケットにはあの子と同じキーホルダーがある。身動きがとれない中で、体をよじってポケットの上からキーホルダーの感触を確かめる。満たされる。私はあの子とともに在る。
仕事はいい。自分が普通の人となんら変わりないのではないかと思うことができる。上司に頭を下げ、同僚に貸しをつくり、部下に指導する。そうしていれば、ここでは評価される。たとえ本当の私がどんなものであっても。
「このあいだはありがとうございました」
フロアの休憩所に行くと、先に休んでいた田嶋が話しかけてきた。私の隣に立ち、手にしている紙コップのカフェオレを一口含む。
「今度こそ、課長もぜひ行きましょうね」
みんなも課長と飲みたい、って言ってましたよ、と田嶋は世辞を言う。「機会があれば」と応えた。
「あ、このあいだ部長に多くお金もらっちゃったんで、奢りますよ」
田嶋が財布から小銭を出そうとする。「いえ、自分で買います」と私は焦って財布をスラックスのポケットから取り出した。ぽとり、と音がする。
「課長。何か落ちましたよ」
床に横たわっていたのはあのキーホルダーだった。私は思わず息を呑む。
しまった。拾い上げ、急いでポケットにしまう。
「あ、め、姪が」
落ち着け。どくんどくんと鳴り響く鼓動がうるさい。慌てるな。自分に言い聞かせながら頭を何とか回転させる。
「姪が、週末遊びに来てまして。いたずらでスラックスに入れられてしまったのかもしれません」
田嶋は表情が変わらなかった。何か言ってくれ、と心の中で願う。財布を握りしめたまま、自分の足先に視線を落としていた。田嶋からハハ、と笑い声が漏れた。
「それ、人気なキャラクターっすよね。姪っ子ちゃん、好きなんすね」
私がうつむいているあいだに、ガタン、と自販機から缶コーヒーが吐き出された。田嶋はそれを私に差し出した。
「俺の彼女も好きなんすよ、それ。可愛いっすよね」
微笑みながら、田嶋はカフェオレを口に含む。そこで私はようやく安堵した。よかった、嘘を信じてくれたようだ。私は田嶋に礼を言ってから、よく冷えた缶コーヒーのプルタブを開けた。
◆◆◆
それからというものの、私の日常は光り輝いていた。それは多分、あの子のキーホルダーが鞄の中にあるからだ。ポケットにしまっておきたかったのだが、どこかで落としてしまうとも限らない。泣く泣く、小さなジップ付きのビニル袋に入れて持ち歩くことにした。たったそれだけで仕事に集中できたし、自宅で休んでいるときには安心感があった。あの子と同じものが、私のそばにある。決して交われない私とあの子の、唯一のつながり。疲れて眠るときは、手のひらで優しくキーホルダーを包み込んで寝るようになった。幸せって、こういうことなのだろうか。あの子の横顔を思い浮かべながら目を瞑ると、よく眠れた。
金曜日の夕方は、キーホルダーとともにあの子に会いに行った。あの子が友人と小走りで通り過ぎたり、一人で歩いていたり、笑顔だったり。ランドセルにはキーホルダーがいつも揺れていた。あの子が去ったあと、手の中のキーホルダーを撫でてから公園を後にするのが日課になっていた。
◆◆◆
初夏にしては暑い金曜日のことだった。私はいつも通り定時にオフィスを後にする。珍しく、田嶋とエレベーターが一緒になった。
「今日は早いですね」
自分から田嶋に声をかけていた。人に話しかけるなど滅多にしないのに、一週間ぶりにあの子に会えるから浮き足立っているのかもしれない。
「今日は彼女とデートで」
照れくさそうに田嶋がはにかむ。ああ、眩しい。私も年相応の女性を愛せたなら。欲を思うがままに吐き出せる体だったのなら。彼のように愛する人を思いながらはにかむこともあったのかもしれない。
「楽しんでくださいね」
私はそう伝えて先にエレベーターを降りた。田嶋は「お疲れ様です」とトイレに消えていった。早く、早くあの子に会いたい。私は駅に向かって無意識のうちに走っていた。
いつものようにビールを片手に、公園のベンチに座る。先週よりも気温が高くなったような気がする。ビールは瞬く間にぬるまってしまった。私は汗を拭いながら、缶ビールを少しずつ傾ける。何度も腕時計の盤面を見つめる。恋人と待ち合わせしている気分ってこんな感じなのだろうか。ふわふわとした、どこにでも行けそうな、空だって飛べるんじゃないかとさえ思うような気持ち。
茂みの向こうから、柔らかな笑い声が聞こえてきた。この声は。私は茂みの隙間に目をこらす。どんどん声が近づいてくるにつれ、心が沸き立つ。
茂みの陰からあの子が姿を現した。いつもと同じようにランドセルにつけられたキーホルダーが上下に踊っている。友人と歩いているあの子はとても楽しそうに笑っていて、八重歯がのぞいていた。そこで、あの子は別の茂みに消えていった。辺りはすでに薄暗くなっている。
私は残りのビールを飲み干し、公園を出て、さきほどまであの子がいた道に立つ。あの子は道の先で友人と手を振りあって別れ、路地に曲がったところだった。心が満たされる。自分の家へ帰ろうと振り返ったとき、私は革靴にツンと何か当たったのを感じた。
それはあのキャラクターのキーホルダーだった。私はそれを拾い上げ、自分のものと見比べる。同じものだ。もしかして、あの子が落としたんじゃ。考える前に、私はあの子の後を追いかけていた。風を切って走る。足がもつれそうになる。耳に自分の呼吸の音が響く。きっとあの子の大切なものに違いない。届けなければ。私とあの子の、唯一のつながりを。
路地を曲がる。暗く電灯も少ない路地に目をこらすが、あの子の後ろ姿はない。それほど時間が空いて追いかけたわけではないのに。そのまま歩きながら、周囲を見渡す。住宅が並ぶなか、時折カフェなどの店が現れるが、開いている店は少なかった。あの子はもう家に帰ってしまったのだろうか。手の中でキーホルダーがうなだれている。私は踵を返し、仕方なく交番にキーホルダーを届けようとした、そのときだった。
がん。
どこからか、小さな物音が聞こえた。何か金属でできたものが倒れる音。どうやら少し先の路地から聞こえたようだった。なぜか胸騒ぎがする。私は音のした路地を覗きこんだ。
「や……!」
か細い叫び声が、路地の暗闇に消えていく。私は全身がかたまった。なんだ、なにが起こっている? 暗闇に目をこらす。白い太ももが、地面に投げ出されているのが見えた。私は驚き、目を見開いた。
あの子は地面に押し倒され、上に大きい黒い塊が覆い被さっていた。それが大人の男だと気づくまで数秒かかった。男の背越しに、口を手で覆われたあの子の頬に涙が流れているのを見た。
瞬間、私は男の肩を掴んで引き剥がしていた。地面に倒れた男は、私よりも体が大きい。黒いパーカーのフードをかぶってマスクをしており、暗い中では顔が見えない。一心不乱で馬乗りになり、男の左頬を殴った。拳に鈍い痛みが走る。かまわず殴り続けた。男は若そうに見えたが、自分の顔を両手で覆って耐えるだけで、反撃はしてこない。頭の奥がぎゅっと締めつけられたように痛い。
「やめて」
男が叫んだ。ふりかぶった拳を無意識に止めた。その声に、聞き覚えがあったからだ。
「やめてください」
路地の向こう側を車が通り過ぎ、ヘッドライトで地面が照らされた。男の両腕の隙間から、顔が一瞬見える。
「田嶋……?」
つい一時間半ほど前にエレベーター前で別れた部下の表情は怯えきっていた。口端が切れて血を流しながら、田嶋は「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と呟き続けていた。後ろを振り返ると、髪が乱れたあの子がいた。それが、あの子と初めて視線を交わした瞬間だった。
騒ぎに気づいた通行人が警察を呼んでいたのか、私たちは別々のパトカーに乗せられた。うなだれた田嶋とは一度も目が合わなかった。
私は参考人として警察署に連れて行かれ、しばらく事情を聞かれた。帰宅途中、部下の田嶋が歩いていることに気づき声をかけようとすると、少女を路地に連れ込んだので慌てて助けた、夢中になってどれだけ殴ったか覚えていない、と嘘の説明を繰り返した。自分が被害に遭ったわけではないので田嶋を殴ったことを注意されたが、勇敢な行動でしたと賞賛もされた。田嶋はどうやら、複数の少女を「彼女」と呼び、常習的につきまとっていたらしい。他県で前科もあったようだ。もうオフィスで田嶋と会うことはないだろう。事情聴取が終わったのはもう深夜だった。さすがに私も疲れて、なかば体を引きずるようにして警察署を出ようとしたときだった。
「あの!」
知らない壮年女性が私に近づいてきた。彼女の影には、あの子がいた。壮年女性が私の腫れた手を掴む。
「娘を助けてくださって本当にありがとうございました……! 本当に本当にありがとうございました」
母親は、あの子とは似ても似つかないふくよかな体をこれでもかと丸めて頭を下げていた。あの子は母親の後ろで目を伏せてじっとしている。あんなに怖い目にあったのだ、今は男性を見るのも嫌だろう。ただ、あの子とこれほどまでに近い距離にいれることが嬉しかった。
「あ。そういえば」
自分のポケットをまさぐり取り出したのは、あのキャラクターのキーホルダーだった。拾ったあと、ポケットに入れたままになっていたのを思い出した。ちゃり、と鳴った金属音に、あの子の視線があがる。泣き腫らした赤い目が、キーホルダーをとらえる。
「あなたのではないですか? 道に落ちてたんです」
私は声が震えないよう努めた。初めて話しかけた。あの子が、私の声に耳を傾けてくれた。ふわふわとした信じられない心地だった。
あの子はゆっくりと頷き、手をさしだしてきた。私はゆっくりと、その小さな薄い手のひらの上にキーホルダーを置いた。途端、ぎゅっとキーホルダーが握りしめられる。
「ありがとう、ございました」
鈴の音のような小さな声が私の耳に響いた。この言葉は、私のために紡がれたものなのか。緊張した全身の力が抜けていくような気がした。母親は「今日はもう遅いので御礼はまた後日改めてさせてください」ともう一度大きく頭を下げ、あの子を伴って警察署を出ていった。私はあの子の後ろ姿を、ずっと見つめていたいと思った。
◆◆◆
泥のように疲れきった体で帰宅した後、シャワーを浴びようとスラックスを脱いだ。そのポケットから、キーホルダーが滑り落ちる。
……あれ?
拾ったそれを確かめると、見慣れない汚れがあった。今朝までは、こんな汚れはなかったはずだ。よく見ると、今朝まで持っていたものよりも幾分かくたびれているようにも思える。これは、もしかして、あの子の。あの子が落としたキーホルダーが、今は私の手にある。そしてあの子に渡したのは、私が今朝まで持っていたものだ。私はよろめいた。あの子のキーホルダーが、私の手に、手の中にある。脱衣所で、私は壁にもたれながらズルズルと腰を下ろした。こんな、こんなことが。
「ありがとう、ございます」
あの子の言葉を思い出す。私だけに紡がれた言葉。途端、下半身の奥が痛んだ。今までに感じたことのない熱が渦巻き、みるみるうちにじんじんと強い刺激を生み出していく。股間に目をやると、ボクサーパンツの布地が中から押し返されている。私は戸惑った。なぜ、なぜ今。もう何十年も反応がなかったのに……。
思考に対して、私はボクサーパンツの中に右手を突っ込み、弱々しく昂る熱を必死にしごいた。あの子のキーホルダーの匂いを嗅ぎ、舌で舐め回すと、ポリエステルの布地は瞬く間に湿っていく。それにつれ、下半身の熱も耐え難いものになっていく。ああ、ああ。あの子のことが。あの子のことが。あの子とのことが。
「ああっ」
思わず声が漏れ出た瞬間、床に白濁が吐き出された。目の前がチカチカと瞬き、荒く呼吸を繰り返す。座っていられず、そのまま床に倒れ込んだ。体が脱力しきっている。まるでこのまま宙に浮いて、どこか遠いところへ飛んでいってしまいそうだ。ああ、どうせなら、あの子のそばまで飛んで行きたい。
私は床に横になったまま目を瞑る。白濁で汚れたキーホルダーを、そっと胸に抱き締めながら。
了
同情 高村 芳 @yo4_taka6ra
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