第9話 癒しの力

「……予想通り、問題なさそうですね」

「はい……」


 聖女の両手で優しく包み込まれている左手が、じんわりとあたたかい。その熱と呪いが発動しなかった安堵感から、デューキの体から一気に力が抜けた。

 自分で思っていた以上に、緊張していたらしい。呼吸も浅くなっていたのか、ゆっくりと息を吐いたあとに。ようやく、普段通りの呼吸ができるようになった気がする。


「念のため、触れる面積を増やしてみたいのですが、よろしいですか?」

「どうすればよいのでしょう?」

「右手も出していただいて、両手で触れても平気なのかを確かめさせていただきたいのです」

「両手、ですね」


 言われた通り、デューキが素直に右手を差し出すと。聖女はその手をゆっくりと握って、そして目を閉じた。

 きっと今、なにかを確かめているのだろう。それは分かるのだが。


(冷静に、この状況を考えると……)


 自分の屋敷の一室で、若い女性と二人。いくら部屋の中に二人きりではないとはいえ、両手を繋いだ状態で。

 事情を知らない人物に見られたら、どう誤解されるか分からない構図ではある。

 しかも聖女の服装は、謁見の間で会った時と同じ。飾り気の少ない白のドレスは、腕や肩の部分の肌が透けて見えるほど薄い生地なので。若干、目のやり場に困るのだ。

 夜会では、もっと刺激的な服装の女性も多く見かけるが、それはそれ。今とは状況が違いすぎるのだから。


(そもそも、近すぎる)


 成人したばかりの女性が、未婚の男にここまで近い距離で接するなど。聖女である彼女は慣れているのかもしれないが、本来はあり得ないことだ。

 誤解されないよう気をつけなければと、思えば思うほど。変な緊張をしてしまうのは、致し方のないことだろう。


「なるほど」


 目を閉じていた聖女が、そっとまぶたを持ち上げると。その下から、淡いアメシスト色の瞳が、再び姿を現した。

 だが、まだ手は離さないまま。デューキの顔を、見上げるように見つめてきて。


「どうやら、かなり奥深くまで呪いが到達してしまっているようです」

「……つまり?」

「申し訳ないのですが、今日この場ですぐに解呪というのは、なかなかに難しそうです」


 聖女は言葉通り、本当に申し訳なさそうな顔でそう口にするから。思わずデューキは、小さく首を振って。


「謝らないでください。長年、女性に触れることすらできなかったのですから。少しでも改善するのであれば、時間など気にしません」


 柔らかい笑顔すら浮かべながら、そう伝えた。

 実際、それが本心だった。なぜか女性に対してだけ発動する魔女の呪いは、今では自らの半生に近い時間に、ずっと影響を及ぼしていたのだから。

 病気も長い間放置すると、完治するのに時間がかかるというし。それと似たようなものなのだろう。

 デューキはそう結論づけて、長期戦になることを受け入れた。


「ありがとうございます。わたくしも全力で治療にあたらせていただきますので、一日でも早く解呪できるよう、一緒に頑張りましょう」

「えぇ」


 それはまるで、患者と医者のような。もしくは、戦友同士のような。不思議な絆が芽生えた瞬間だった。

 と同時に、同じ目標を持って、同じ方向へと向かっていくという、小さな誓いでもある。

 きっと誰かから見れば、ちっぽけな誓いなのかもしれないが。デューキが今まで、どれだけ呪いに苦しめられてきたのかを知っている人物であれば、誰一人笑いはしなかっただろう。

 ようやく、新たな一歩を踏み出せるようになった瞬間だと。むしろ貴族相手であれば、共感すら得られたかもしれない。


「では、次に進んでみましょうか」

「はい」


 ただし。その気持ちが、長く続くとは限らない。

 そしてなにより、呪いを解くには時間と根気と気力が必要なのだと、これからデューキは知っていくのだ。


「聖なる力を、完全に断った状態にしてみますので。異変があれば、すぐに教えてください」

「分かりました」


 それがとても、長い道のりなのだということも。


「いきます」

「はい」


 両手を繋いだまま、聖女がそっと目を伏せた瞬間。


「あぁッ……!」


 左胸が、刺すような痛みを訴えてくる。

 『黒薔薇の呪い』が発動して、トゲのある枝が、体をっていこうとする、感覚。

 そう多くは経験していないはずなのに、嫌な感覚というものを覚えるのは数の問題ではないのだと、デューキは身をもって知っていた。

 しかし。


「【癒しギェリゾン】」


 今日、目の前にいるのは。紛れもない、本物の聖女。

 素早く聖なる力を纏った彼女は、そのまま癒しの呪文を唱えて。デューキの体をむしばもうとしていた呪いを、一瞬で沈めてしまう。

 ここから本格的に苦しみ始めていた今までとは、全く違って。


「ハァッ……ありがとう、ございます」

「いいえ。わたくしのほうこそ、おつらい思いをさせてしまい、申し訳ありません」


 まだ繋いでいる両手から、熱とは別のあたたかさが、体の奥まで浸透していくようで。これが聖女の癒しの力なのだと、デューキは初めて知った。

 同時に、呪いを解くことの難しさも知ってしまったが。

 あと何度、この苦しみを味わうことになるのだろうという恐怖が、一瞬思考を染め上げようとしてくる。

 だが、その前に。


「ですがこれで、呪いの発動条件のほとんどが解明できました。なのでもう一つだけ、呪いが発動しない条件であることを、確かめさせていただきたいのです」


 どうやら今日はもう、そんな思いをしなくてよさそうだと。そう思わせるような言葉が、聖女から発せられて。


「どなたでも構わないのですが、こちらで働いていらっしゃる女性の使用人の方に、ご協力いただきたいのですが。可能でしょうか?」

「女性の、ですか?」


 癒しの力のおかげで、完全に回復したデューキは。続けて聞こえてきた言葉に、思わず反応してしまった。

 どうしても、女性に対する苦手意識ではないが、遠ざけようとする長年の習慣が抜けてくれなくて。

 呪いが解けたとしても、まだ当分は苦労しそうだと考えてしまったデューキに。


「はい。女性に対してだけ発動する呪いだと、事前に聞いておりましたから。わたくし以外の女性にご協力いただいて、ブッセアー公爵様に近づくことができる距離を、把握しておきたいのです」


 聖女が新たにした提案は、これまた彼に緊張感を与えるものだった。






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