第12話 淫魔と黒鬼

(……甘い香りがする)

瀬廉はポーカーフェイスを保ちつつ───心の中では思い切り顰めていたが───廊下を歩いていた。

(この調子だと、やっぱり祓うのは難しいな)

辺りに漂う甘い香りは、一連の事件の犯人が垂れ流す妖気の香りだ。

普通なら吸うだけで幻影に呑まれる。

斯くいう瀬廉も、集中を乱せば囚われてしまうだろう。

「……早くを連れ戻さないと」

完全に生気を吸い尽くされたら、手遅れになってしまう。

瀬廉がガラリと戸を開くと、授業を受けていた生徒達は一斉に瀬廉の方を見た。

ガラス玉のようなガランとした目達に見つめられ、瀬廉は微笑した。

「愛沢麻鈴様はいらっしゃいますか」

「……いますが……貴女はどちら様で?」

困惑したように聞くのは、先程華里奈が言っていた男教師───瀬廉には普通の女教師にしか見えない───だ。

瀬廉は笑みを崩さず言った。

「私は愛沢家次女・愛沢瀬廉と申します。囚われの人魚姫を取り返しに参りました」

そう言って麻鈴に視線を投げたが、麻鈴はぼんやりとしたまま瀬廉を見ていた。

教師はキョトンとして言う。

「何の話か分からないわ」

瀬廉は歌うように言葉を紡ぐ。

「淫魔。西洋風に言えばインキュバス。夢魔の中でも、人の欲に沿った幸せな夢を見せる者の総称……」

怒りの滲んだ瞳で、瀬廉は薄く笑う。

「……とはいえ、普通は気に入った相手一人に憑くのが限界のはず。お前は、相当強力な悪妖と呼べるでしょう。目的は何?」

瀬廉が教師の前に立つと、教師はニンマリ笑った。


「おぉ!なんと素晴らしい!!︎ この瑞奢ずいしゃ様の認識阻害を見破るとはお見事だ‼︎」


高らかな声と共に、女教師の姿にノイズが走った、ように見えた。

瞬きの間に、女教師は姿を消し、背の高い人物へと変わる。

「……」

引きずる程に長い銀髪と、爛々と輝く緋色の眼。スラリとしているが、引き締まった身体つきから男性だと分かる。

「瑞奢、ね」

一度復唱して、瀬廉はさっさと逃げることを決めた。

(……対面してよく分かった。私は此奴には勝てない)

せめて香論か憐呑のサポートが欲しい。

瀬廉はパッと身を翻して麻鈴の側に舞い降りた。

「え、ちょっ、あなた、何をするの?」

「五月蝿いので黙ってください。もう私が誰かも認識出来ない程堕ちているのでしょう?」

瀬廉は無理矢理麻鈴を椅子から引き摺り落として抱きかかえた。

軽い動きで机に飛び乗り、勢いのまま飛び上がって教室から逃げ出した。

蹴った勢いで机が倒れた音がしたが、細かいことは気にしない。

「ちょっと!誰か知らないけど離しなさい‼︎」

「……」

瀬廉は麻鈴のうなじをトンッと突いて、無理矢理意識を落とした。

(……香論にこの洗脳は解ける?……いや、手間はかかるけれどラミの所まで連れて行くか)

本当に、世話のかかる姉である。

とはいえ、取り戻してしまえばこちらのもの。

だと、思ったが───


「さあ、可憐な女生徒達よ‼︎気高き少女を捕えなさい‼︎」


朗々とした声が学校中に響き───


「……冗談じゃない‼︎」


───各教室から、生徒達が一斉に飛び出してきた。

瀬廉の行手を阻み、二人に手を伸ばそうとしてくる。

「……嗚呼、鬱陶しい‼︎」

瀬廉一人ならどうとでもなるが、麻鈴を抱えてとなると話が違う。

生徒を氷漬けにするわけにはいかないし、壁を破壊して脱出するのも修理が面倒だ。

壁を走り、天井を走り、生徒達の手を躱し……

瀬廉はついに、屋上までたどり着いた。

どうせ玄関には鍵が掛かっているから、屋上から飛び降りようという算段だ。


鍵が掛かっていなかったのは偶然か、それとも罠か。


瀬廉がギィギィと軋んだ音を立てるドアをこじ開けると、広い屋上の真ん中に、長い銀髪の男が立っていた。

「……まあ、いるよね」

瑞奢は笑う。


「ここまで無事にたどり着くとは、やはり君は素晴らしい!」


「……それはどうも。ご褒美に洗脳を解いてもらっても?」

瑞奢は笑いながら瀬廉に近づく。

「実に面白い冗談だ。そこの麗しき人魚姫は、この瑞奢様が貰い受ける」

瀬廉は舌打ちして飛び退る。

「……お前、爛影とかいう黒鬼の仲間か?」

爛影。彩鬼の里を襲っていた悪妖だ。

瑞奢は、爛影と同格の悪妖と言って差し支えないだろう。

瀬廉に睨みつけられて、瑞奢は大仰に驚いた。

「おや、爛影君。君は、彼女に何も説明をしていないのかい?」

「……は?」

クスッと笑い声が聞こえて、瀬廉は凍りついた。

振り返った瞬間───


「さあ、君も幸せに溺れると良い♡」



「おっと……危ねー」

ガタンと膝から崩れ落ちた瀬廉を、爛影は軽々と受け止めた。

意識を失っても麻鈴のことはしっかり抱きしめているところは、流石と言ったところか。

「……此奴は俺の獲物だって言ったのに」

爛影にジト目で見られ、瑞奢は肩を竦めた。

気高き雪女瀬廉は確かに強敵だが、枷になるものが多すぎる。執念深き黒鬼爛影が出る幕ではないよ」

爛影は顔を引き攣らせた。

「いっつも思うんだけどさー、執念深いって褒め言葉じゃないよな」

「まさか!君には敬意を払っているつもりだよ、執念深き黒鬼」

「……もう良い。お前と会話しようとした俺が悪かった」

爛影は瀬廉から麻鈴を引き離して瑞奢に押し付けた。

「じゃ、其奴はお前にやるから。此奴は貰うよ」

爛影は瀬廉の髪をそっと撫でながら続けた。


「愛沢家で最も強い愛沢瀬廉は俺が黒塗する。治癒能力持ちの愛沢麻鈴はお前の洗脳下。他の奴等も、俺等の敵じゃない。……主様の望みを阻む者は誰もいなくなる」


爛影はどこか寂しげだった。

「それじゃあ、俺は瀬廉此奴を黒塗するのにしばらくの間妖気と時間を使うから、それ終わったら洗脳解けよ?」

「任せたまえ、執念深き黒鬼」

爛影はニィと笑って、パチンと指を鳴らした。

空間の一部がグニャリと歪み、妖界へと繋がる穴が広がる。

このような時空の歪みひずみは全世界どこにでもあるが、高位の妖ともなれば、無理矢理時空を歪ませて人間界と妖界を繋げることができるのだ。

「じゃ、また会おうぜ、瑞奢」

爛影が飛び込もうとしたその時───


「そら聞き捨てならへんわ」


怒気の滲んだ声が響いて、爛影は慌てて振り返った。

「ヤバっ⁈」

爛影の耳スレスレを、ナイフが通過する。

一息つく間もなく、更にナイフが飛んでくる。

思い切り身体を反らして辛うじて避けた爛影は、カラカラと笑って殺し屋を見据えた。

「あっぶな‼︎怖えーな、お前」

くすんだ赤髪と橙色の瞳の持ち主───憐呑───は、手に持ったナイフをクルクル回した。

「チッ……外したか」

爛影はカクンと首を傾げた。

「お前、此奴の知り合い?」

「……俺はその子の協力者兼奴隷やわ。分かったら早うその子を解放しろ」

早口でそう言う憐呑に、爛影はペロリと舌を出す。

「残念だけど、此奴は瑞奢が洗脳した。瑞奢の能力は、人の望みを読み取って幸せな夢を魅せるっつー悪趣味な能力なんでね」

「……瑞奢……って、そっちの銀髪の奴?」

聞くや否や、憐呑は瑞奢に飛びかかった。

「っ⁈」

ナイフを避けきれなかった瑞奢の銀髪が、数房床に散らばる。

バランスを崩した瑞奢は、そのまま抱えていた麻鈴を落としてしまった。

その時───


「凍りつけ‼︎」


───瀬廉の声と共に、倒れた麻鈴は氷塊の中に閉じ込められた。

「悪いね、麻鈴姉さん。たぶん紫暗が回収に来るから、それまで大人しく寝ていてください」

目を開いた瀬廉は早口でそう言う。

「ちょっ、御前こそ大人しくしろ、ってか何で起きてんだよ⁉︎」

爛影に強く抱え込まれ、瀬廉は舌打ちした。

「───『桜吹雪』」

勢いよく雪片が吹き荒れる。

視界が白に染まる。

「憐呑、此奴等を妖界に引き摺り込め!」

「了解、瀬廉嬢」

そこで。

そこで、フッと全てが消え去った。

京泉高校屋上に残ったのは、氷塊に包まれた麻鈴だけだった。



瀬廉達が降り立ったのは、妖界のとある草原だった。

「……来てくれて助かった。ありがとう、憐呑」

無事に爛影の手から抜け出した瀬廉は、憐呑の元に舞い降りた。

憐呑はフワリと笑う。

「いやー、驚いたわぁ。急に呼び出されるなんて久々やし」

そう言って首元のチョーカーを引っ張った。氷を模したチャームが、鈍い光を放っている。

「ちゃんと紫暗くんには連絡しといたさかい、麻鈴嬢のことは心配せんでいいで」

「流石私達の『協力者』。この調子で、此奴等二人を仕留めようか」

瀬廉は氷剣を二振り構えた。

見据える先にいるのは、善妖を黒く染める黒鬼と、人を幸せに溺れさせる淫魔。

「爛影は私が殺る。お前は瑞奢を殺れ」

「へいよ」

憐呑もナイフを数本取り出してクルクルと回し始めた。

「……いやいやいやいや。嘘だろ。俺も何度か見たけど、瑞奢の洗脳を解いた奴なんかいなかった。どんな高位の妖だろうと、人間だろうと」

「……あぁ、さっきのはただの掛かった演技だよ。別に気を張っていれば、あんな子供騙しの術には引っかからない。……まあ、背後への注意を怠ったのは反省するけれど」

バツが悪そうに呟いた瀬廉は、爛影に斬りかかった。

爛影は身軽に避ける。

「おっと、怖えー。……が、そうこなくちゃ面白くねーよなぁ⁈」

爛影は恍惚とした表情で黒炎を繰り出す。

「さあさあ!もっと一緒に遊ぼうぜ‼︎」

瀬廉は氷刃を浮かべて舞わせる。が、全て爛影に届く前に蒸発してしまう。

どんな攻撃も、彼には届かない。

(……熱い)

瀬廉は暑さにも寒さにも耐性がある雪女だが、許容量キャパシティを超えそうだ。

そして、瀬廉の許容量を超えた妖は今まで刹邪一人だけ。

(……早く決着をつけないと……。もう、妖力が……)

瀬廉の妖力が尽きれば、あっさり殺されてしまうだろう。

まあ、相手にその気はなさそうだが。

「……」

爛影はニィと口角を上げる。

「もう終わりか?」

黒炎を身に纏い、愉しげに笑う姿は、とても禍々しく、悍ましく、美しい。

(……最悪。そもそも麻鈴姉さんがさっさと逃げていたらこんなことにはならなかったのに)

負の感情が滲み出てきて、瀬廉は小さくかぶりを振った。

今は、恨み言も怨嗟の思いも邪魔なだけだ。

なのに、それを読んだかのように爛影は笑みを深める。

「……可哀想に」

そう、嘲笑う。


「もう少し、自由に生きれば良いのにな」


その途端。

周りの温度が、目に見えて下がった。

「待て、落ち着け瀬廉嬢!ここら一帯壊す気か‼︎」

瑞奢に刃を向けていた憐呑は、慌てて叫ぶ。

だが、瀬廉には聞こえていない。

こういう時、彼女に声を届けさせることが出来る人物は、ここにはいない。

「……『氷華絢爛』。咲き乱れろ」

それは一瞬だった。

瀬廉を中心として、周りに氷が張っていく。

氷の花が咲き乱れる。

氷原と化した一帯は、酷く静かで不気味だった。

その静かな中に、飄々とした声が響く。

「っはは。やっぱり、御前強いな。……本当に本気を出せば、この世界、全部壊せそうだ」

霜が張った指先を、興味深そうに眺めた後、爛影はグルリと周囲を見回した。

氷の中に閉じ込められた瑞奢と憐呑、呆然と立ち尽くしている瀬廉。


「仕方ねーな。一時休戦だ」


爛影がパチンと指を鳴らすと、たちまち周囲の氷が溶けて消える。

気を失った瑞奢を担ぎ、爛影はニィと笑った。

「さあ、瀬廉。気が向いたら、いつでも俺等の仲間になれよ。……ずっと、待ってるから」

そう言って、爛影は姿を消した。



瀬廉はゆっくりと倒れた憐呑に近付いた。

「……あ……ぁ。……ごめん……なさい……」

ゆっくり、憐呑の側にしゃがみ込む。

「……生きてる」

思わずホッとしたのも束の間、瀬廉は蹲った。

「……相手の挑発に乗って暴走した。味方を殺しかけた。挙げ句の果て敵を逃した。しかも二度目。あんな禍々しい悪妖を二体も野放しにした。私が弱い所為で……私が最適解を選び損ねた所為で……私が、私の……私の所為で……」

瀬廉はしばらくぼんやりとしていたが、ややあってフラリと立ち上がった。

一筋零れた涙が黒かったことは、誰も知らない。



一方その頃。

「……?」

麻鈴は、ゆっくりと瞼を開いた。赤い空が視界に入る。

「目は覚めたか、姉貴?」

近くで、弟の声がする。

「……紫暗?」

身体を起こすと、そこは高校の屋上だった。

何故か、周りには氷片が散らばっている。

「……そ、うだわ。学校に悪妖が……」

「姉貴が元に戻ったっつーことは、無事に祓い終えたんだろ」

麻鈴は数度瞬きをした。

「……麻鈴は、瀬廉に連絡できずに眠りに引きずり込まれたのね」

「そうなるな。相変わらず、姉貴は耐性が無さすぎる」

紫暗は淡々と言った。姉を敬う気はないらしい。

妖界あっち側の決着がついたなら、瀬廉も家に戻るはずだ。俺らも帰るぞ」

「……分かったわ」

麻鈴は冷え切った身体でゆっくりと立ち上がった。

紫暗の纏う豪奢なローブは暖かそうで羨ましいが、たとえ弟と言えど男の服を借りるのは癪なので黙っておく。

「……そうだ、美玲達は」

「後でラミに記憶改変を頼んでおけ」

「……そうね」

そうして、二人は帰路についた。

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