第10話 人魚と撫子
ゴールデンウィーク明け。
愛沢家では、久々に兄弟6人が揃って朝食を食べていた。
とはいえ、皆食べているものは様々で、食卓には統一感がまるでない。
そして、会話というのも滅多にしない。
のだが。
「……相変わらず、亜乱はよくそんなに食べるわね」
今日は、珍しく麻鈴が口を開いた。
亜乱がガツガツ食べているのは、レトルトのカレーである。ちなみに、亜乱はかなりの辛党だ。
「お前の食が細いんだろ」
麻鈴の朝食は、大抵ヨーグルトかフルーツだけである。今日の場合はストロベリーヨーグルト。
とても、亜乱の腹を満たすには物足りない。
「そういう問題じゃないわよ。朝からそんな辛そうなものを食べたら、麻鈴ならお腹を壊してしまうわ」
「そうか?」
首を傾げつつもあっという間に平らげてしまった亜乱をチラ見して、瀬廉はボソッと呟いた。
「……亜乱兄さんの味覚は馬鹿だからね」
「おい」
「事実でしょう?少なくとも、私には唐辛子を丸齧りするような度胸はない」
「……」
言葉に詰まった亜乱にニヤッと笑った瀬廉は、トーストを口に運んだ。
蜂蜜掛けのトーストに牛乳という、一番模範的な洋風朝食を摂っているのが瀬廉である。
「……ですが、確かに麻鈴姉さんはもう少しちゃんとした食事を摂るべきかと。万が一でも倒れられたら困るので」
麻鈴の腰は、瀬廉が抱きついたとしたら容易く折れてしまうだろう。
その代わり、胸は豊かなのだが。
「……ところで紫暗。今日は映画のオーディションがあるって分かってる?」
瀬廉はそう言って、横に座る───というか突っ伏して寝ている───紫暗の身体を軽く揺すった。
「……眠みぃ。……起きたくない」
「……全く」
瀬廉は手付かずの皿に手を伸ばして、トーストを取った。ちぎって紫暗の口元に運ぶ。
「ちょっとくらい食べて」
「……ん」
紫暗は小さく口を開けてトーストを食べる。
まるで雛と雛に餌を与える母鳥のようだ。
それを見て香論が毒を吐く。
「……ほんっと瀬廉と紫暗兄ちゃんって気持ち悪いよね」
「何を今更」
瀬廉はサラッと返して、またトーストの一片を紫暗の口に運んだ。
香論はドン引きしてその様子を見ている。
菓子パンを食べる手付きも止まったままだ。
「と……ところでさ、瀬廉と紫暗兄ちゃんは、もう終わったんだよね?」
「一応ね」
何がというと、華里奈の花嫁修行である。
「後は麻鈴姉さんと香論と理炎……だけど、良い感じの仕事は見つかった?」
麻鈴と香論は首を横に振った。
注目を浴びた理炎は、ヒェ……と情けない声を出す。
「ぼ、ボクは……え、と、もうすぐ『風切祭』があるから、その準備を……手伝ってもらおうと思って」
理炎はオドオドしながらそう言った。
焦茶色の癖っ毛の髪と、クリックリの瞳を持つ理炎は、美少年というよりかは可愛らしいと言えるだろう。
相当な怖がりと甘えん坊であると同時に、自然が好きで動物からも好かれやすい。
『風切祭』というのは、下級の妖───その中でも限りなく動物に近い存在───達の宴だ。
立春・立夏・立秋の、年3回行われる。
瀬廉は納得したように頷く。
「……もう少しで立夏の宴か。
『玉閃』という名前を聞いた途端、理炎はパァッと明るい顔になった。
「玉閃お兄ちゃん、嬉しそうだった?」
「そうだね、楽しみだと言っていた」
理炎は嬉しそうにニコニコ笑う。
「そっかぁ。ボクも楽しみ」
「思い切り遊んでおいで」
「うん‼︎」
紫暗の餌付けを終えた瀬廉は、ニコリと微笑んで席を立った。
「……さ、食器の類は私が片付けるから、理炎も早く食べて」
「はーい」
理炎はニコニコしたまま、お茶漬けを口に運んだ。
愛沢兄弟は、それぞれ頭の良さが全く違うため、通う学校も別々だ。
亜乱が通うのは一ノ倉高等学校。
麻鈴が通うのは京泉女子高等学校。
香論と理炎は岩城山小学校に通っている。
ちなみに、瀬廉と紫暗は高天原高等学校という超エリート高校の推薦を蹴った。
自宅から一番遠くにあるのが京泉女子高等学校なので、愛沢家の中では麻鈴が一番早くに家を出ていく。
「いってくるわね」
「いってらっしゃい、麻鈴姉さん。何かあったらすぐに連絡してください」
麻鈴はフワッと微笑んで家を出ていく。
(……今日は久しぶりに美玲に逢えるのね。嬉しいわ)
麻鈴は学校が好きだ。
学校にいる間は、麻鈴がずーっと美玲を独占できるから。
電車に乗っている時間がどうしようもなく焦れったい。
学校への道のりが耐え難く遠く感じる。
でも。
だからこそ。
いつも通り、玄関前で、自分だけのお姫様を見つける。
この瞬間の喜びは、何物にも勝る。
「美玲、ご機嫌よう」
京泉高校伝統の方式で、麻鈴は優雅に礼をする。
振り返った歌川美玲は、上品な微笑を浮かべた。
「あら、麻鈴ちゃん。ご機嫌よう」
美玲は典型的な大和撫子だ。
知的で、清楚で、美しい。
高く結い上げられた艶のある黒髪と白い肌、そして琥珀色の瞳が特徴的な美少女、それが美玲だ。
それだけ聞くと瀬廉と似たようなタイプに思えるだろうが、実際は真逆の雰囲気を纏っている。
鋭利な刃のような、冷たい氷のような瀬廉とは違い、美玲は優しくて、おおらかで、陽だまりのような人だ。
そして───
「……麻鈴ちゃんってば、また隈濃くなってない?ちゃんと寝てる?」
「……もちろん」
───その優しさに、麻鈴は依存している。
美玲はかすかに眉間に皺を刻んだ。
「……本当に?ベッドに入るだけで眠れてはいないんじゃない?何かストレスがあるなら言って。私が力になるから」
「もう、美玲ったら大袈裟なんだから。大丈夫よ。……ありがとね」
「……心配だな」
ポツリと呟いた美玲に、麻鈴はふにゃりと笑った。
「本当に大丈夫よ」
(……嘘は言ってないわ)
そう、別に嘘は言っていない。
睡眠は、ちゃんと2時間摂っているし、ストレスがあるわけでもない。
瀬廉からは「もう少し寝てください」と言われているが、瀬廉だってどうせ大して寝ていないのだ。
あの子の言うことなんて知ったことか。
「……ほら、早く教室に行きましょ、美玲。今日は数学の確認テストがあるわよね。勉強しなくちゃ」
「……またそうやって話逸らす」
美玲は目を伏せてぼやいたが、柔らかく微笑んだ。
「……そうだね、行こう」
京泉女子高等学校は、いわくつきの学校だ。
頻繁に霊障が起き、悪妖に目を付けられる。
麻鈴が京泉に進学した理由の一つには、この学校を一時的にでも護る為である。
まあ、9割9分9厘の目的は、美玲と出来るだけ傍にいる為であるが。
「……はあ。また、悪妖が入り込んだのね」
麻鈴はそう呟いて、トンッとシャーペンを机に置いた。
数字に溢れた解答用紙は、ほとんど埋まった。
麻鈴はグルリと周囲を見回す。
生徒も、数学教師も、全員が、深い眠りに落ちていた。幸せそうに微笑みながら。
一体、どんな夢を見させられているのだろう。
(これは……淫魔の類かしら)
幸せな夢を見せて、幸福を喰らう。
そうして力をつけて強大化する。
女子校というものには、得てしてそういうものが入り込みやすい。
「早く、瀬廉に連絡しましょう」
生憎、麻鈴は妖を祓う能力が皆無に等しい。
スマホに手を掛けた時───
「⁈」
「おやすみなさい」
───長くしなやかな指に目を覆われ、麻鈴は意識を失った。
「…………麻鈴ちゃん、起きて」
鈴を転がすような声が聞こえて、麻鈴はハッと目を覚ました。
「……み、れい?」
美玲はクスッと笑った。
「まだ寝ぼけてるの?」
麻鈴は目を擦って時計を見上げた。
16時
「え、四時⁈」
2時間目の数学以降の記憶がない。
「麻鈴……一体いつから寝て……」
美玲は冷ややかに吐き捨てた。
「……そんなこと、どうでも良いよ」
「美玲……⁇」
美玲は妖艶に微笑む。
「麻鈴ちゃん、遊びに行こう」
「どこに……?」
「麻鈴ちゃんの行きたい場所。どこでも良いよ!私と一緒に、どこまでだって行っちゃおう‼︎」
「……どこまでも?」
「そう。麻鈴ちゃんは、どこに行きたい?」
「ま、麻鈴は……美玲がいるなら……‼︎」
美玲が麻鈴に手を差し伸べる。
スラリとした、真っ白な手が麻鈴を誘う。
「さあ、幸せに溺れてしまえ♡」
「ただいま」
「……おかえりなさい、麻鈴姉さん」
瀬廉は、ちょっと吃りながら麻鈴に返した。
麻鈴は気にも留めず、上機嫌に鼻歌を歌っている。
(……はあ)
瀬廉は心の中で深くため息を吐いた。
「麻鈴姉さん、何か良いことでもありましたか?」
「いいえ?何もないわよ。どうして?」
「いえ、何となく」
「あら、そう?」
麻鈴は上機嫌に鼻歌を歌い続ける。
(……面倒なことになった)
愛沢麻鈴が持つのは人魚の能力。
人を癒し、魅了し、自分に溺れさせる。
麻鈴の歌は、たとえ鼻歌だろうとあらゆる人を惹きつける。
それは相手が瀬廉であろうと例外ではないのだ。
(……気付けでもしておくか)
瀬廉は氷の薔薇を生み出して、思い切り握りしめた。鋭い棘が、瀬廉の白い肌を血に染める。
「瀬廉⁈」
目を剥いた麻鈴は、瀬廉に足早に駆け寄った。
「瀬廉、何かあったのかしら?まさか……オーディションに落ちた?だからって自暴自棄になってはいけないわ」
悪意なく瀬廉のプライドを傷付けるようなことを言う。
「…………あのですね、麻鈴姉さん。この私が、演技で他人に遅れを取るとでも?私も、紫暗も、無事に受かりましたよ。私は主人公の親友兼護衛役、紫暗も護衛役だそうです」
ノンブレスで言い切った瀬廉に、麻鈴は顔を引き攣らせた。
「な、……なかなか物騒な映画なのね」
「らしいです」
瀬廉はニィと口角を上げた。
「……とはいえ、私達が生きている世界の方が物騒ですからね。皆が知らない、忘れているだけで、人だって多く死んでいる」
「……」
麻鈴は、発言の意図が読めないとでも言いたげに眉を顰めた。
「……何が言いたいのかしら?」
「別に今の麻鈴姉さんに言うことはありません。私は今、機嫌が悪いんです」
瀬廉はいけしゃあしゃあと言って、麻鈴を振り解いた。
瀬廉は家を出て、坂口家へと向かう。
インターホンを押すと、華里奈はすぐに出てくれた。
「瀬廉ちゃん?どうしたの?」
「すみません、華里奈さん。どうしても、華里奈さんにしか頼めないことがありまして」
そう言うと、華里奈は目を丸くした。
「私にしか、頼めないこと⁇」
華里奈は瀬廉をまじまじと見つめて、丸くした目を更に丸くした。
「えっと……瀬廉ちゃん、その血だらけの手は……?」
「……忘れていました。すみません、気持ち悪かったですよね」
瀬廉は指を鳴らして、血だらけの左腕を氷の膜で覆った。
反射光で血は見えなくなったが、そういう問題じゃないと言いたげな顔をされた。
「……話を戻しまして、華里奈さん、『花嫁修行・第三試練』と洒落込みましょう。……麻鈴姉さんを助けてください」
華里奈は数回瞬きした。
「麻鈴ちゃんを、助ける……?」
「麻鈴姉さんが、悪妖に洗脳されてしまったようでして。悪妖を見つけ出してください」
あっけらかんと言う瀬廉に、華里奈はポカンと口を開ける。
「え……え⁈無理無理無理無理っ‼︎千里眼使って見つけろってことでしょ?私全然使えるようになってないし‼︎大体麻鈴ちゃんで駄目なら私だって洗脳されちゃうんじゃ……」
激しく首を振る華里奈を、瀬廉はバッサリ切る。
「いえ、それは大丈夫かと」
瀬廉はニコリと微笑む。
「千里眼には洗脳は効かないと実験済みです」
(……香論の記憶改竄が効かないなんて余程だし)
「寧ろ、私の方が洗脳に弱いまであります」
「えぇ……嘘でしょ……?」
「本当です。物に依りますが」
瀬廉は淡々と言葉を紡ぐ。
「今回、麻鈴姉さんに手を出したのは淫魔の一種だと思われるので、私も洗脳される危険はあります」
華里奈は顔を青くした後に赤くした。
「大丈夫です、華里奈さんの貞操が危うくなることはないので」
華里奈は更に顔を赤くした。
「洗脳の痕跡を視る限り、『幸せな夢を見せて生気を吸い取り、操る』力のようなので、肉体をどうこうされる心配は無いでしょう」
「そ、そうなの……」
華里奈は首を傾げた。
「そんなのに、瀬廉ちゃんは掛かってしまうかもしれないの?」
「そうですね」
「……なんか、意外。瀬廉ちゃん、なんか幸せがどうとか気にしなさそう」
「どういう意味ですか」
瀬廉は目を伏せた。
(もし……もしも、知念兄様と葉音姉様が生きている夢だったら、私はきっと抗わない。それが夢だと分かっていたとしても)
もしも夢で二人が殺してくれるなら、それ以上の幸せはないだろう。
「……瀬廉ちゃん?」
華里奈に顔を覗き込まれ、瀬廉はハッとした。
「……では、華里奈さん。麻鈴姉さんを助けてくださるということで?」
「え……まあ、ハイ、ガンバリマス」
(……後は勢いで押し切るか)
瀬廉はパッと顔を明るくした。
「有り難うございます!でしたら、明日は一ノ倉高校を休んで京泉高校に行ってください。ちゃんと認識阻害の術は掛けておきます」
「え、え⁇」
「大丈夫です、亜乱兄さんには言っておきます」
「え、え⁇」
「あ、別に授業は受けなくても良いです。たとえ華里奈さんが何をしようと、少なくとも霊感のない人間は気に留めません。麻鈴姉さんもそういう術には弱いのでご心配なく」
「え、ちょ」
「では、お願いします。見つけ次第、私に連絡してくださいね」
瀬廉は薄く笑って華里奈の前から立ち去った。
(ふふ、私って性格が悪い)
華里奈の意思など関係なく、死なない程度の危険に晒す。
亜乱に嫌われるだろうか、華里奈に恐れられるだろうか。
麻鈴には軽蔑されるだろうか、香論には呆れられるだろうか。
別にそれで構わない。過程がどうあれ、華里奈が花嫁修行を乗り越えて亜乱と契ってくれれば良いのだから。
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