新宿地下道の少女

 多少視力が悪くても裸眼で生活している人間は案外多いものだ。

 しかし、普段自分が生活する範囲だったら、そのくらいでも充分困らない。

そう、困りはしなかった。しかし、だからこそ、出会ってしまったのだ。



 多少視力が悪くても裸眼で生活している人間は案外多いものだ。俺もその口で、両目とも視力0.1あるか無いかくらい。

 しかし、普段自分が生活する範囲だったら、そのくらいでも充分困らない。だから俺は運転をする時だけ眼鏡をしていて、あとは殆ど持ち歩きもしないくらいである、

 ただし、眼鏡が必要な場合もある。知らない駅に降りる時だ。一度やらかして、改札を抜けたらそれはもう何も見えなかった。

 人が居るのは分かるし、別に視界が真っ白って訳でないのだが、兎に角案内板の類が殆ど読めない。随分近づいて目を細め、やっと南口がどちらか分かるような具合で、これを一度当時工事の真っ只中だった渋谷駅でやらかして、もうどうしょうも無くなり、待ち合わせをしていた友人に迎えに来て貰うことになってしまった。

俺の視力はその程度。しかし、必要に応じて眼鏡を忘れなければ、日常で困る事は無かった。


 今日は新宿でアポがあり、俺は眼鏡をかけて電車を降りた。たまにかけると、普段どれだけぼやけた世界で生きているのかよく分かる。

 鮮やかな視界で、目的の出口を探す。外は寒いし、なるべく地下を通って行きたい。

 進んでいくと、目的の出口の階段の下で、10代であろう女の子が、しゃがみこんで、随分型の古いiPhoneを弄っている。

 懐かしい、俺も使っていたなと思ってついジロジロ見てしまった。

 グレーのシルエットの細いコートに、清楚な黒髪で、多分待ち合わせなのか、画面を見て控えめに微笑むのが見える。派手では無いが、幼さの残る顔立ちの可愛い子だった。

 

 打ち合わせを終えたのは4時頃で、何とか帰宅ラッシュの前に帰れるかという感じだ。

帰るだけなので眼鏡は外した。地下鉄の入口は分かるし、道も複雑では無かった。地下に降りて真っ直ぐ都営新宿線を目指せばなんとかなるだろう。

 駅へ向かう地下道の階段を降りようとすると、あの子はまだそこに居た。昼過ぎから居るとなると、3時間は待ちぼうけを食っているのでは無いだろうか。

 とは言えここは新宿だ。

 日本有数の歓楽街を有するこの街であれば、そんな子は珍しく無いだろう。客かホストにすっぽかされたのだろうか。気の毒だが仕方ないし、本人のトラブルに首を突っ込む気も無い。

 しかし目に付いてしまう。

 階段を降りてゆくと、彼女は酷く落ち込んだ様子で、iPhoneを見ながら不貞腐れたように俯いていた。

 可愛い子なのになあ。

 友達か、恋人か、もっと商売が絡む色恋かは分からないが、大事にしてやれば良いのになと思う。

 つい凝視してしまって居たのだろう。彼女の横を通り過ぎる一瞬、ふと顔を上げた彼女と目が合った。彼女は、寂しそうに微笑んで、俺はどうしていいか分からず、気付かぬ振りをして目を逸らす。

 それが、合図だったかの様に、彼女は立ち上がり軽く服をはたき、地上に向かう階段を登って行った。

 振り返らず、しかしどこか思い足取りだった。

 彼女が視界から消えるその時、俺は気が付いた。

 なんで見えていたんだろう?

 人通りはあるし、俺の横をすり抜けていく中年の男性の顔はぼやけてわからない。

 また、少し離れた所から歩いてくる人も、輪郭すらも曖昧だ。

 混乱するも、彼女が何者だったのか、最早確認する術はない。

 俺はなんだか嫌な汗をかきながら、家路を急いだ。


 そう打ち明けられた親友は、ちょっと引き攣った笑いを浮かべている。まあ、信じてくれなくても良いのだ。これは俺と彼女の関係の話であり、周囲に理解されるとは思っていない。

「んで、今日も行ってきたと?」

「いつも同じ所に居るし、眼鏡かけなくても見えるし、幽霊なのは間違いないと思うんだ。一度上まで追いかけてみようか迷ってるんだが……」

「もういい。もう分かったから、お前一度お祓い行ってこい。近所の神社で良いから」

 思ってもない事を言われて、俺は慌てて親友の顔色を伺った。

「だって彼女はそこに居るだけで、別に俺にどうこうしようってんじゃ無いんだぞ?俺に着いてきた事も無いし……」

 親友は呆れ果てた顔で、俺に窓の外を指さした。駅ビルの1階にあるコーヒーショップの窓の外は、無数の人が絶え間なく行き交っている。

「お前あの中ではっきり見える奴が一人でもいるか?」

 その全てはぼやけていた。曖昧な輪郭こそが現実であり、彼女は確かに異質だった。

「なんでその女だけはっきり見えてんだよ。しかも何回も通って見に行くとか異常だよ」

 だって彼女は見上げるのだ、俺を。縋る様に。ほんの少し寂しそうに微笑んで。

「最初から取り憑かれてんだよ、お前」



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