りんりんりんと世界が泣いている

yaasan

第1話 りんりんりんと世界が泣いている

 りんりんりんと世界が泣いていると彼女は言う。

 りんりんりんと世界が泣いていたと彼女が言う。


 彼女が言うりんりんりんと泣く世界に僕たち二人の居場所はどこにもなかった。

 十五歳になった僕たちには世界のどこにも居場所がないように思えた。





 僕は血で赤く染まっている包丁の柄を右手で強く握り締めた。包丁だけではない。包丁を握りしめる僕の右腕も肘まで赤く染まっていた。


 彼女が僕に薄い黒色の瞳を向けた。

 綺麗な瞳だ。僕の大好きな瞳だった。

 僕に向けられたその瞳を黙って僕は見つめる。


 彼女は少しだけ悲しそうな微笑を浮かべた。


「やっぱり巻き込んじゃったね」


 僕は首を左右に振る。


「大丈夫。僕が望んだことだから」


「嘘……」


 彼女がそう言って僕の言葉を否定した。それでも僕は言葉を続けた。


「大丈夫だよ。あいつは死んだんだ。これで君とあいつの関係を知っているのは、僕と君だけだよ。僕たちが黙っていれば、誰にも知られることはない」


「うん……」


 彼女は俯いて僕から視線を外す。


「これからどうなるのかな?」


 少しの沈黙があった後、彼女が呟くように言った。


「君は大丈夫だよ」


 少しでも安心をさせてあげたくて、先程から彼女に大丈夫という言葉を何度使っているのだろうか。僕はそう思いながら言葉を続ける。


「僕は……どうなるのかな。君の父親を殺して、更に君を人質にして僕は立てこもっているのだからね」


 自嘲するつもりはどこにもなかったのだけれど、僕の顔には少しだけそれが浮かんでしまったようだった。


 彼女が俯いていた顔を持ち上げて、悲しそうな顔で僕を見る。彼女のこんな顔を見たくはなかった。だから僕はこうして血塗れの包丁を握っているというのに。それなのに彼女はさっきから何度も悲しそうな顔で僕を見る。


 やはり世界はままならないようだった。望んだところで結局は叶えられることはないのだ。


 いつもそうだった。僕がろくでもない母親に捨てられて、ろくでもない施設で育っている時も。彼女が実の父親から聞くに耐えないおぞましい程の性的な虐待を受けていた時も。


 僕たちがいくら願っても、そう望んでいても何かが叶えられることはなかった。


 何を望んでもこの世界では僕たちの願いが叶えられることはない。彼女が言うりんりんりんと泣く世界はままならないのだ。


 とても、とっても悲しいことなのだけれども、そう願ったところできっと僕たちの思いが叶うことなんてない。僕たちは今までの経験値でそれを十分に知っていた。


 ならば僕たち自身が願うこと。

 それを願うのならば、願っているだけではなくて少しだけでもその方向に行けるように、それをこの手で行わなければいけないのだ。そうしたところで願いの全てが叶うわけではないと分かってはいても。


 僕は少しだけ溜息をついて立ち上がった。

 彼女が今にも泣き出しそうな顔で僕を見上げる。


「外には警官がいっぱいいるんだよ。逃げられないよ」


「大丈夫。逃げるつもりなんてないからね。捕まっても君と父親とのことは言わない。君と父親とのこと……僕は誰にも言わないよ」


 そう言って、僕はもう動くことがない肉の塊になってしまった彼女の父親に視線を向ける。人を殺したという事実は十分すぎる位に理解しているのだけれど、その事実が僕の中で何かを生み出すことはないようだった。


 その事実を前にしても僕の中には後悔も悲しみも恐怖も何もなかった。そのことに関してだけを言えば、僕の心は平穏で凪のように穏やかだった。それが僕には少しだけ不思議だった。


「うん……分かってる。あなたが何も言わないことは知っているんだよ」


「もう少し上手くやれたのならよかったのだけれど……」


 僕は彼女に言うわけでもなくて、呟くようにしてそう言った。

そう。やっぱり世界はままならないのだ。


 悲鳴を上げて逃げ惑う彼女の父親に向かって包丁を持って追いかけている時に、宅配業者が丁度やって来てしまった。父親の悲鳴を聞いたのだろう。何事かと家に入って来た宅配業者が目にしたのは血塗れの包丁を持っている僕だった。


 そこから展開は早かった。宅配業者からの通報で警官が集まって、僕は彼女を人質にして家に立てこもる格好になってしまった。


 もっとも立てこもったといっても、警官が来てから二時間ぐらいしか経ってはいないのだけれども。


「じゃあ、僕は行くよ。あまり長く立てこもっていると、警官が突入してくるかもしれないからね。君の目の前で押さえつけられたりして捕まるのは、何だか格好が悪いような気がして僕は嫌なんだ」


「うん……」


 彼女が頷く。そして、薄い黒色の瞳を僕に向けた。


「何て言えばいいのか分からない。でも、きっと……ありがとう……そして、ごめんなさい」


 そうして向けられた彼女の瞳を見ながら僕は少しだけ頷いて家を出た。

 彼女に感謝の言葉を言われたかったのだろうか。謝罪の言葉を言われたかったのだろうかと僕は自問する。そしてそれらをすぐに否定した。


 僕は僕たちの居場所を作りたかったのだ。彼女が言うりんりんりんと泣く世界の中で、僕と彼女が普通にいられる場所をきっと作りたかっただけなのだ。


 どうやら僕の居場所は作ることができなかったみたいだけれど、彼女が普通でいられる場所は作れたのかもしれない。確証なんてどこにもなかったけれど、僕には少しだけそう思うことができた。





 外に出た僕の視界には僕を取り囲む警官隊の姿があった。二、三十人はいるのだろうか。皆、透明の大きな盾を持って、防護面がついた黒色のヘルメットを被っている。血塗れの包丁を持っているとはいえ、十五歳を相手にしていささか大げさな対応だなと僕は思う。


 機動隊と言われている人たちなのだろうか。それとも、交番にいるような普通の警官なのだろうか。僕はそんなどうでもいい疑問を頭の片隅で思い浮かべていた。


「包丁を置きなさい」


 拡声器を通して割れたような少しだけ不明瞭な声が聞こえてくる。


 僕はその声に対して包丁を振り上げると大きく息を吸い込んだ。僕の口から出たのは怒声だった。何を言っているのか分からない。言葉になってはいないような怒声が僕の口から次々と溢れ出て来る。


 この怒りはどこから来たのだろうか。りんりんりんと泣く世界に僕の居場所がないからなのだろうか。


 走れ! 

 どこまでも走れ!

 背後で誰かがそう言った気がした。


 そうか。走ればいいのかと僕は思う。


 怒声と共に包丁を振り上げたままで、僕はその声に押されるようにして駆け出す。僕を取り囲む警官たちに向かって僕は駆け出す。


 今だったらどこまでも僕は走れる気がしていた。だけれども三歩も進まないところで腹部に衝撃があった。


 何だろう? お腹が熱い。


 腹部の衝撃とその部分が熱い理由も分からないままで、僕の体は横倒しになって地面に投げ出されてしまう。


 すぐに立ちあがろうとしたけれど、下半身に力が入らない。右手に包丁を握ったままで辛うじて上半身を起こすと、地面に投げ出された僕に向かって透明の盾を持った警官隊が殺到してくるのが見えた。


 りんりんりんと世界が泣いている。

 

 そう言ったのは誰だったか?

 そう。彼女だった。

 彼女は悲しそうな顔でりんりんりんと世界が泣いていると言っていた。


 そう。今なら分かる。

 確かにりんりんりんと世界は泣いていた。


 僕の脳裏に彼女の顔が浮かび上がってくる。印象的な彼女の薄い黒色の瞳。僕はその瞳が好きだった。

 

 僕は彼女が大好きだった。


 彼女が言うりんりんりんと泣く世界でも彼女の居場所を作ってあげたかった。

そして彼女の顔から悲しみを取り除いてあげたかった。

きっとただそれだけだった。


 今も彼女を包む世界はりんりんりんと泣いているのだろうか?

 もうそうではないことを僕は心の底から願った。


 横倒しになっている体の上からかかる圧力が凄まじかった。体の上に幾重にも警官隊が乗っているようだ。まるで僕をこの場で圧死させるかのように。


 僕が辛うじて持ち上げた頭。その側頭部に衝撃があった。その衝撃と共に脳裏に浮かんでいた彼女の顔も、浮かんでいた疑問も消えてしまう。彼女の顔が消えてしまう瞬間、脳裏の奥でぷつんという音を僕は聞いた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

りんりんりんと世界が泣いている yaasan @yaasan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ