第3話 彼女の不在

 ここはレーナの滞在先であるツイーズミュア家邸宅の客間。俺――ティエル・レ・アズノールはレーナとは別の滞在先にいたため、彼女の顔を一目見ようとこの屋敷へ訪れていた。


「今、何と言った?」


 今しがた告げられた言葉の内容に俺は戦慄した。


 唇が震え、体中の血の気が引いていく。俺の問いに、目の前に立つマリエッタ・ツイーズミュア公爵令嬢が白いハンカチで目元を拭った。そして、言いにくそうな様子で口を開く。


「聖女であらせられたレーナ・コーエン様は、この世界から離れ、元の世界にお戻りになられました」


「……っ」


 あまりの衝撃に目の前が真っ暗になる。


 金槌ハンマーで思いっきり頭を殴られたように、視界がぐらついた。俺は立っていられなくてその場に膝をつく。するとマリエッタ嬢が俺の肩にそっと手を添えた。


「なんてお可哀そうな勇者様……。聖女様がご帰還なさる寸前、たまたま私も居合わせたのですが止められず……。お力になれなくて本当に申し訳ございませんでした」


「…………」


 跪いたまま呆然とする俺に、マリエッタ嬢が言葉を続けた。


「もうすぐで凱旋だったというのに、本当に残念ですわ。……なぜ苦楽を共にした勇者様がたに一言も告げず帰られたのでしょうね? まるで見捨てたのも同然です」


 マリエッタ嬢が低く耳元で囁く。その耳元から毒が回っていくように、囁かれた言葉が俺の心を真っ黒に染めていった。


 俺は旅でレーナと過ごした日々を思い出す。


 俺は、この国アズノールの第三王子として生まれた。

 だがこの赤い瞳を持ったせいで実の母にまで疎まれ、産まれてすぐに廃塔へと幽閉されてしまう。


 幸い剣の才能があったため、ここまで生きてこれた。『王家の刃となれ』と洗脳され、王家の戦闘人形として、ただひたすらに剣の腕を磨いた。……感情は不要だった。魔王を倒しに死地へ向かえと言われた時も、二つ返事で了承した。


 しかし俺はレーナと出会う。


 俺の不愛想な態度にも関わらず、レーナはくじけず話しかけてきた。こんな人は初めてで。しかし不思議と心地よかったのを良く覚えている。


 この赤い呪われた瞳も、レーナだけは美しいと微笑んでくれた。嘘偽りないまっすぐな眼差しで。


 ――かつて魔王討伐の旅で嵐に襲われ、ひどい熱を出したときがあった。

 濡れた体をそのままにしていたことがいけなかったのだろう。


 逃げ込んだ洞窟の中で俺は静かに死を覚悟した。なぜなら、俺は幼い頃からずっと、病にかかるたび死にかけてきたからだ。


 誰も居ない、棄てられた塔にひとりきり。吹きさらしの窓からは冷たい風が吹き、その度に震えあがったものだ。


 しかし、熱で額から噴き出る汗を拭いてくれる優しい者など、誰一人として居なかった。


 皆が言うに俺は『呪われた子』だったから。触れたら呪われると。


 そんな環境であれば、たとえただの風邪であっても死を想像してしまうもの。実際に何度も風邪をこじらせて死にかけている。


 だがあの洞窟で、熱にうなされる俺の額に手を当てる者が居た。


「大丈夫?」


 優しい、声だった。

 

 レーナは夜通し看病してくれた。何の見返りもないのに、ただ『旅の仲間でしょう』と笑って。煮えたぎった熱い額に冷たい手が当てられ、その時、俺は初めて『人恋しさ』というものを知るのだった。


 心に飼っている、幼くみすぼらしい少年おれが叫んだ。


 ――このひとが欲しい。


 そう思った瞬間、自らを縛っていた見えない呪縛がすべて消え去った。

 この人の優しさにもっと触れたい、王家の刃として生きるのではなく、この優しい人のためだけに人生を捧げたい、と。

 

 ――そしてレーナは、戦うしか能のない空っぽの俺にとっての全てとなった。


「嘘だ」


 俺はゆっくりとその場に立ち上がる。まるでその様が幽鬼のようだったのだろう、マリエッタ嬢の表情に脅えが滲む。そうだ、皆俺をそのような目で見る、呪われし者だと。――ただレーナ以外は。


 客間を飛び出て、ツイーズミュア家邸宅の広大な屋敷を駆けていく。あの、艶やかな美しい黒髪を追い求めて。必死の形相で走り回る俺を見て、公爵家の使用人たちがぎょっとしては立ち止まる。だが今はかまってなどいられなかった。


 しかし探せども探せどもレーナの姿は見つからない。とうとう屋敷の外へ出た。心臓の音が耳元で鳴っているかのように、鼓動が早い。汗がだらだらと噴き出し流れて目に入る。


「居ない居ない居ない居ない、どこにも、居ない」


 もしかして本当にレーナは、この世界のどこにも居ない? その考えが一瞬よぎると、まるで体に氷の矢を打ち込まれたように全身が冷えていった。


「なぜだ、レーナ。なぜ何も告げずに去ってしまったんだ」


 頭を抱えると、耳元で女の声が聞こえた。


『――まるで見捨てられたのも同然です』


「っ!?」


 驚きハッと顔を上げ周囲を見渡すがそこには誰も居ない。見えるのはただ、芝生の敷かれた広い庭のみ。


「違う、きっと何かあったんだ。もしかしたら誘拐されたのかもしれない、早く助けなければ」


 ぶつぶつと考えがそのまま口から垂れ流しになる。


 しかしもう一人の自分が心で呟いた。誘拐? この堅牢な守りに固められたツイーズミュア公爵家で? もしそんな騒動があれば誰かがすぐに気づくはずだ。それにマリエッタ嬢の言葉を完全に信じ切るわけではないが、レーナが帰る瞬間は確かに目撃されている。


「しかし誘拐の可能性が無いとは言えない。急ぎ捜索隊を編成しなければ」


 だがもし、この世界のすみずみを探しても、彼女が見つからなかったら? 


「旅の間、元の世界へ帰りたがっている素振りは一度も見せなかったが……。もし、彼女が自ら望んで元の世界へ帰ったのだとしたら……」

 

 俺が彼女に甘えていたせいだ。俺がもっと彼女に寄り添っていればこんな事には……。

 マリエッタ嬢が言っていたことが事実なら、俺とレーナはもう二度と会えないことになる。……そんなのは絶対に嫌だ。頭を抱えて悩み唸っていると、ふとある考えが頭に浮かんだ。


 ――たとえレーナが望んで元の世界へ帰っていたとしても、無理やり連れ戻せばいいだけじゃないか?


 その考えを一度思い浮かべてしまったが最後、甘い誘惑がすさまじい勢いで俺の心を占領していった。


 ――ああレーナ。君を失うには、愛おしすぎる。


「は、はは……レーナ。君が世界の果てに居ようとも……いや、たとえ住む世界が違えども、必ず探し出して見せるよ」


 すると突然空が陰りだし、むっとした湿気のにおいがした。パラパラと雨が降り出し髪や頬を濡らしていく。俺は目を閉じて空を仰ぎ、あえて雨を受け入れた。


 名声も、権力も、富も平和も、全てがどうでもいい。欲しいのはたったひとりだけ。彼女を手に入れるために一生を捧げる覚悟ならとうの昔にできている。


「俺から逃げられると思わないで……?」


 笑った傍、庭園の垣根で、蜘蛛の糸にからまった蝶が動きを止めた。

 それを横目で眺めながら俺は踵を返す。――きっと今から、ひどい嵐になる。

 

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