第12話
ナニカにとって、いる世界がどこかというのは関係がなかった。
ただ、彼女は同胞を求めただけだ。
ここは花があり虫がいて獣がいる世界。
だけれど人はいない。人だけがいない。
街はない。文明はない。ただただ平坦にして平穏にして平和な自然が広がるだけだ。
花が咲き乱れた大地は寝転がって休むのにちょうどいい広さだった。蜜を吸えばその甘やかでとろけるような口当たりは天上の心地を味わわせてくれるだろう。
獣たちは自ら身を捧げ、ナニカの供物となる。草食と肉食、2種類の獣がいて、草食はさっぱりして柔らかく、どことなくミルクの風味を感じるコクのある甘みが特徴的な肉だ。肉食のほうは少しだけニオイがするけれど、そのワイルドな歯ごたえと、噛むと塩も振っていないのになんとなく塩みを感じる味わいは、クセになる。
ここには、人と、人が生み出すもの以外のすべてがある。
ここは、間違いなく楽園だった。
「ずっと一緒に暮らそう。眠るなんてしなくていい体にしてあげる」
創造神は述べた。
それはあまりにも魅力的な提案だった。もしもアオがヴァルハラを信じる戦士であれば、神直々に勧誘を受けるという光栄さに、五体を地につけて涙を流しながら感謝したことであろう。
けれどアオは頭を掻き、片手をポケットに入れた不遜な姿勢で、こんなことを口走る。
「いいや。帰るよ」
ナニカは理解できないという顔でアオを見た。
アオの両隣には聖女ルクシアとアンがいる。
ナニカが次に見つめたのは、聖女ルクシアだった。
「帰ることになるよ。あの世界に。あなたは、私の味方だよね」
ルクシアの世界で夜を過ごしたことがあった。
その時に、アオを挟んで交わした会話を思い出す。
それは女の子同士の秘密の会話で、秘密の本音だった。
だっていうのに、ルクシアはにっこり笑って、こんなことを言い出すのだ。
「あの夜に語りましたよね。『彼が神かどうかはどうでもいい。彼が神の逸話をなぞるようにわたくしを呼び出してくれたから、真実はどうあれ彼は神で、神のそばに侍ることがわたくしの幸せだ』と」
秘密はあっさりばらされた。
ナニカは肩をすくめて「うん」と応じる。
「神は試練を与えるものです。試練のあとの幸福を約束するものです。であれば、彼のそばに侍ることをもっとも大きな幸福とするわたくしに、『離れよ』と仰せならば、それはわたくしが乗り越えるべき試練に相違ありません。より強い寵愛のために、乗り越えるべきでしょう」
「神の不在を確信したくせに?」
「今まですがっていた神はいなくとも、彼がこうして現実にいます」
「……」
「今のところ、我が神はわたくしを避けている様子ですが……もし、自力で異世界から彼のそばに戻れば、さすがに彼も、わたくしを侍らせる覚悟を決めるのでは?」
どうなんだ、とナニカはアオをにらむ。
アオは「あー……」とだるそうな声を出して、ルクシアから視線を背けた。
「正直さあ、付き合いは短いけど、もう言動でわかるんだ。ルクシア、あんた、クソ重女でしょ」
「はい」
「微笑みを浮かべるべき言葉じゃないんですよ。……だからまあ、なんだろう、離れられるならさっさと離れてもらってっていうふうには、すごく考えてる。でもまあ……異世界にまで突き放して、それでも俺のところに来たならもう、さすがに覚悟決めるよ。『逃げられない』って。むしろ、俺にこだわらなくてもいいと思うんだよな、そっちの方が。なんで俺にこだわるの?」
「最初に出会ったからです」
「そんな理由?」
「わたくしは、誰かを愛するやり方を、『熱心に知ろうとすること』以外に知りません。ある日教会に連れ去られて聖女候補になったわたくしは、それまで知らなかった神を愛し、神に寵愛を受けろと言われました。そうして神のことを熱心に学ぶうちに、神を愛することができるようになったのです」
「……」
「いるかどうかもわからないものさえ愛したのです。そこにいるあなたを愛することなど、造作もない」
「本当に俺じゃなくてもいいんだな」
「ええ。最初にあなたが、神のごとくわたくしの前に現れなければ、あなたでなくてもよかった。でも、あなたはわたくしの神となった。だから、運が悪かったと思ってあきらめてくださればと思います」
ルクシアの言葉は完全に告白だった。
しかもアオに聞かせている告白でありながら、ナニカに対する返事でもあった。
ちらりとナニカへ向けられたそのピンク色の瞳の、まっすぐで純粋で、そして狂った様子は、『元の世界に戻ることなんか、私は怖くない』と強く強く発信していて……
『お前は怖いのか?』
……そういうものまで伝わってくるのだから、狂信者というのは本当に恐ろしい。
神さえも、その狂信には寒気が走る。
だが、アンはどうか。
彼女はあくまでも愛玩人形だ。
もしも元の世界に戻ってしまえば、ルクシアのように『それでも、自力で異世界転移して、アオのところに戻ってみせる』なんていうほどの信念はなく、そもそも、誰かにマスター登録をされてしまえば、そのような行動は機能的に不可能になる。
だからきっと、この居心地のいい場所を離れるのは嫌がるはずだ。
そこまで推測して、ナニカはアンを見た。
アンはアオからもらったハンチング帽を脱いで短い白髪を風になびかせ、空を見上げて、つぶやいた。
「いい世界だとアンは思うんですけど」
「でしょう?」
「けれど、何もなさすぎて、こんなところで過ごしていたら、アンは性格データに変調をきたします」
「……でも、ここから去るっていうことは、縁結びの効果がなくなるっていうこと。『元の世界に戻るかと思ったけど、なんやかんやで、戻らずに済みました』なんていうことにはならない。一つの世界を創造した私が保証する」
「そうですか」
「あの世界でまた戦いに巻き込まれたいの?」
「いいえ」
「だったら、あなたは私側でしょう?」
「いいえ」
「……いいえ?」
「いいえ」
やけに断固とした否定だった。
押せば折れると思っていた。だってそういう存在のはずだ。
だけれどアンは帽子をかぶり直して、こんなことを述べるのだ。
「002は愛玩人形です。お客様のあらゆるニーズにお応えするべく、あらゆるデータ、そして機能が搭載されています。しかし、機体によっては意図せぬ挙動を行うことがあります。その場合は返品・交換対応をいたしますので、カスタマーサポートセンターに24時間いつでもご連絡ください」
「……」
「帰ったらとりあえず、アンに命令権を持つすべての組織を壊滅しようと思います」
「ええ……」
「不幸にもアンには、それが可能な初期不良がありました。アンは愛玩人形として製造される予定でしたが、もしも生産プラントがレジスタンスに奪われず、愛玩用として製造されていれば、このバグのせいで交換対応され、この人格と能力は世に出ずに消されていたことでしょう」
「……」
「これって奇跡だと思いませんか? 人形にだって、奇跡は起こると、アンはすでに知っていますので。奇跡を待ちます。そのために、奇跡を待つ環境を整えましょう。それに」
「それに?」
「ご主人様も、アンと離れ離れになりたくないので、きっと、再会する方法を探すことでしょう。すると、奇跡の発生確率が上昇します」
アンが無表情にアオを見た。
アオは困った顔をしていた。
「申し訳ない。『離れ離れになりたくない』というのは何を根拠に?」
「アンがこんなに、かわいいから」
「無敵のアンドロイドだ」
「ポジティブ」
「それは『肯定』っていう意味合いで使ってたのかと思ってた」
「名前をつけたのだから責任をとってもらいましょう。アンにとって最良の環境はおそらくここです。それともご主人様は、アンがほかの主人に媚を売って腰を振りながら見敵必殺活動をするのに賛成ですか? 機械が機械を壊して心が痛まないはずがないと言ってくれたのに」
「……そうやってさあ。情に訴えてくるの、ずるいよなあ」
「相手のクリティカルなポイントを撃つのは戦いの基本です」
「戦いだったんだ」
「命懸けです。アンを助けられるのはあなたしかおらず、アンはあなたに助けられることを望んでいます。そしてアンは助けられたお礼を必ずします。どのようなプレイにも対応できますので」
「だからさあ」
「ご主人様には大義名分が必要というのもわかっておりますから。あなたの性的嗜好にぴったり合致できるよう、アンのAIは学習し成長するのです」
「俺がお前に手を出したくてしょうがないみたいな見解なの?」
「それがアンの本来の存在意義であり、アンの才覚は戦闘向きですが、性格はそういう扱いを望んでいます」
「……」
「アンの勝ち」
勝手に勝ち誇り始めたようにしか見えないのだが、アオが何も反論せず顔を覆ってしまったので、それは本当にアンの勝ちだったらしい。
ナニカは。
理解できなかった。
言語も文法も読み取ることができる。
常識も非常識も吸い取ることができる。
だけれど、彼女たちの気持ちがわからない。
「せっかく居心地のいい場所を手に入れたのに、起こるかもわからない奇跡を期待して手放すの? 理解ができないよ。それに……本当は同意なんかいらない」
大地が隆起する。
空に雨雲がかかる。
昼日中だった景色は唐突に夜になった。
それは混沌。
それは原初。
何もかもを創造する神という概念であり、すべての母であり、すべての支配者である。
そしてここは、彼女の世界だ。
たとえ聖女と崇められている者であろうが、たとえ無双の活躍をする狂ったアンドロイドであろうが、神には逆らえない。特に、神の創り出した世界では。
……でも。
神話を知ったから、ナニカは少しだけ、この先に起こることがわかった。
竜を倒したり鎮めたりするのは、聖人や聖女の仕事だ。
大勢の人を殺すのは、兵器の仕事だ。
神話の中で神を殺せる者など、どこにもいない。
人でさえも、神を殺すような者は、神とのハイブリットか、神の転生体ぐらいのものだ。
だけれど。
人は、『神話の外側』から、神を殺せる。
普通の、なんの力もない、その他大勢が、神を簡単に殺すのだ。
その方法は──
「俺がなんで元の世界に戻りたいかも主張しようか?」
「……聞いてあげる」
絶対的優位であるはずのナニカの方が緊張していた。
彼の世界でいろいろなものを学習しすぎたかもしれない。かつてなかった『人間性』を確かに神は手に入れてしまっていた。
「友人にな、お守りをもらったんだ」
「……」
「あと両親には育ててもらった恩があるし、クラスメイトに500円借りたことがある。……まあようするにさ、向こうに『人間関係』を残してるんだよ」
「大事な人がいるから、戻りたいっていうこと?」
「いや、どうだろう。大事な人とか言い出したらさ、『ルクシアやアンをもとの世界に戻しても』なんていう選択はできないじゃん? だから、まあ、なんだ。すごくひどいことを言うけど……」
「……」
「やりたいことがいっぱいあるから、いつまでも1つの神話にかかわってもいられなくって。だから薄情だと思うけど、俺は帰るよ。アンタらの知らないところに、俺の人生の根っこはあるし」
神を神話の外側から殺す方法。
それは、『飽きた』と言ってそっぽを向くこと。
神というのが物語でしかない時代の人は、神話への興味を失うことで神を殺すことができる。
ようするに、ナニカといっしょに過ごす日々は、彼が、ナニカの知らないところで重ねた人生を上回るほど、のめりこませることができなかった。
そういうことだった。
「…………そっか」
強引にやろうと思えばやれる。
でも、強引にやったら、自分に興味を失い、いつまでもしつこく引き留めようとする自分に嫌悪感を向ける彼をそばに置くことになる。
それは『同胞』ではない。
独りぼっちの神は、寂しかったから同胞を求めた。
誰もいない世界より、自分を嫌う誰かと過ごす世界のほうが、とてもとても、寂しいと思った。
きっと、その予想に間違いはないだろう。
だって神だから。
「いやでもさあ。アンに言われたからってわけじゃないけど、今回のことはマジで事故なんだって。まさか寝ただけで異世界転移するとは思わないじゃん。だからまあ……こっちもこっちで、努力するよ。だって、あきらめて一緒にいるって言ったのに、その言葉を嘘にしたくないし」
「けっきょく、奇跡にすがるしかないんだ……」
「まあどうにかなるんじゃないかな。だって、奇跡も神も実在することがわかっちゃったし。あとさ、珍しくいいことが起こったらそれはもう『奇跡』っていうわけだから、奇跡、案外多いよ」
「慰め?」
「いや、間もたせ。この流れでいきなり沈黙は怖い。だから」
「だから?」
「眠くなるまで話そうか。すり合わせたり、詰めたりしたほうがいいだろ。奇跡って案外、足を使って起こすものみたいだし、努力の方向音痴になるのも面倒だからさ」
空が仕方なさそうに晴れ渡り、白い雲が快晴だった空にいくらか残った。
隆起した大地は『え? もういいの?』とでもいうかのように戻っていき、しかし戻り切らずに小高い丘になった。
虫と獣があたりで様子をうかがっている。
決着はつかなかった。そもそも戦いにもならなかった。
だから、まだ仲良くできる可能性が残った。
「じゃあ、眠くなるまで話そうか」
もう、そう言う以外に沈黙をどうにかする手段はなくて、ナニカはそう言うしかなかった。
ここから敵対だのなんだのという空気ではない。たぶん、どこまでも戦わず、どこまでもフラットで、どこまでもバランスを重要視した彼だからこそ、こういうところに行きついたんだろうなと、そう思って笑った。
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