第7話 赤い裂け目
ユリアの地頭は悪くない。
ただ、これまで勉強をしてこなかったから要領が分からないだけだ。
朝から夕方まで何度か休憩を挟みつつ、とにかく知識を詰め込むところから始めた。
ユリアは黙々と勉強に励んだ。
大丈夫。これだけ努力していけばそのうちもっとレベルの高い勉強もできるようになる。
公爵家は王国のあちこちに飛び地を持っている。
その経営に役立つような知識を身につけられれば、父上も、ユリアのことを見直すはず。
焦っているのには理由があった。
ユリアの聖女の力が分かった翌日、偶然、父上が執事と話しているのを聞いてしまったのだ。
『よりにもよって浄化の力とは……嘆かわしいですなあ』
『期待外れもいいところだ。クソ。他の聖女は治癒魔法に火魔法だぞ。浄化なんて役に立たない。とんだ貧乏くじだ!』
『あの娘をどうされるおつもりですか?』
『聖女として役に立たないのなら、女として使うまでだ』
『結婚、でございますか?』
『そうだ。適当な相手はいるか?』
『でしたら、レスポア男爵はいかがでしょう』
『聞き覚えのない家名だな』
『銀行家の貴族です。皇室の事業への多額の出資が評価され、男爵の位を手に入れたんです』
『ハッ、成り上がりか』
『ですが資産家ですし、新興貴族の顔役でもございます。うまくいけば、貴族議会でこちらの味方を増やせるかと』
『……ふむ。何歳だ?』
『四十八歳です。二度の離婚を経験していますが、そんなことはどうでもよろしいのでは? お嬢様は旦那様にとても感謝しておりますし、旦那様からの勧めであれば断ることはないでしょう』
『よし、すぐに先方に話を通せ。タダメシ喰らいをいつまでも囲うのはもったいない』
力が役に立たないと知るや、まるで売り飛ばすかのように他家へ嫁がせるなんて。
(いくら父上でも許せない! ユリアは商品じゃないんだ!)
だから早くユリアには勉強を身につけさせなきゃいけない。
(誰かの妻になんて絶対にさせない!)
「あ、あのカイン君」
「なんだっ」
つい父上のことを考えたせいで、返事が乱暴になってしまった。
ユリアは怯えた顔をして、目を伏せてしまう。
こういう時、クライスならもっとうまく立ち回れるはずなのに、自分の不器用さが恨めしい。
「……な、なんだ」
口調を気を付けながら言い直した。
「ここの小問がよく分からなくて」
「ここはこの公式を使えばいいんだ」
「! 本当! すごいですね、ヨハネ君は。教会の子どもたちとそう年齢が変わらないのに、こんな難しい問題が分かるなんて」
ドクン! ユリアのみせる不意打ちの笑顔に心臓がドキドキする。
「……これくらい普通だ。無駄口を叩いてないで早くペンを動かせ」
「あ、はいっ」
ユリアは黙々と問題を解き始めた。
※
突然はじまった特訓と言ったほうがいい勉強。
どうして突然勉強なんだろうと思っていたけど、これまでほとんど接したことがなかったヨハネ君と一緒の時間を過ごすのは、新鮮だった。
私を嫌っているはずのヨハネ君がどうしていきなり勉強を教えてくれる気になったのかは分からなかったけど、一緒の時間を過ごせるのは嬉しかった。
私が聖女に選ばれたのには意味があるのと同じように、私が公爵家に引き取ってもらってヨハネ君と出会えたのも何かの意味がきっとあるはずだから。
(ヨハネ君がわざわざ時間を割いてくれてるんだから、がんばらなきゃ!)
気合いをレ手勉強に励んでいると、廊下のほうが騒がしくなった。
どうしたんだろう。
「様子を見てきます」
アリシアさんが部屋を出ていくと、しばらくして慌てて戻ってきた。
「お坊ちゃまが旦那様と口論をされて……お屋敷を飛び出して行かれたそうです!」
「え!?」
「私たちも執事様のご命令で探しに行くことになったので……」
「私もっ!」
ヨハネ君がどこに行くかなんて予想もつかないけど、探し用はある。
王都のあちこちで教会で育った人たちが働いているのだ。
私は顔見知りに話を聞いて回った。
身なりのいい子どもが馬車にも乗らず街中を歩き回る姿は目立つはず、という予想は当たった。
ヨハネ君は王都を出て、西へ向かったみたいだった。
そろそろ日が暮れる。
夜になると、このあたりでも時々狼が出没するから早く見つけないと。
歩き回った結果、私は丘陵で背中を丸める小さな影を見つけた。
「ヨハネ君!」
振り返ったヨハネ君が、びっくりした顔をする。
「な、なんで……」
「いきなり家を飛び出したって聞いて探してたの……って、ひどい。その晴れ、どうしたの?」
ヨハネ君の左頬が腫れ上がっていた。
「ただ転んだから、気にするな」
(転んだんじゃない。これは誰かに殴られた痕。でもヨハネ君を殴れる人なんて…………まさか、公爵様!?)
以前の訓練場でのことが頭を過ぎった。公爵様は子ども相手だからと手心を加えるような人ではなかった。
(いくら跡取り教育のために、殴り付けるなんて)
公爵様への怒りがこみあげる。
でも今は、そんなことより、ヨハネ君を連れて帰るのが先だ。
「みんな、心配してるわ。帰りましょ?」
私は右手を差し出す。
ヨハネ君が顔をくしゃっと歪めた。
「……ごめん……僕、なにもできなくて……」
ヨハネ君の目尻に滲んだ涙にはっとする。
言っていることの意味はよく分からないけど、どれだけ大人びていると言ってもまだ小友だ。心細くなったのかもしれない。
「大丈夫」
私は教会の子どもたちにするように、ヨハネ君を抱きしめた。
「だ、大丈夫じゃない。このままじゃ、お前が……」
「私が……?」
その時、私はヨハネ君の肩ごしに空が赤黒く光っているのを見た。
それはまるで目には見えない刃物で、切れ込みを入れたような。
(あれは、ジャスミンさんが言った……!)
ぞくりとした震えが体を走り抜ける。
「な、なんだよあれ……」
私の視線を追いかけたヨハネ君も、異変に気付く。
(逃げなきゃっ!)
私はヨハネ君を抱きかかえたまま駆け出す。
赤黒い裂け目はどんどん広がり、木々や動物、岩を吸いこみ始める。
必死に逃げるけど、吸い上げる力に足がすくわれてしまう。
足が空を蹴る。
(ヨハネ君だけでも……!)
夢中でヨハネ君を丘陵の陰に向かって突き飛ばす。
「――――っ!」
ヨハネ君が何かを言っていたけど、私の体を巻き上げる風のうなりのせいで聞こえなかった。
激しい風に髪留めが外れ、髪が広がっってしまうがそんなことを気にする余裕なんてない。
夜空に穿たれた赤黒い裂け目に、私は吸いこまれた。
※
う、嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!
「ユリアああああああああああああああ……!!」
いつも通りの静寂を取り戻した夜の野原で、叫びが虚しく響きわたる。
あの赤い裂け目に呑み込まれ、ユリアの姿はどこにもなかった。
ユリアはあの赤い裂け目と共に、消え去った……。
力なくその場にひざまずく。
(僕のせいだ……僕が屋敷を飛び出したりなんかしたから……)
その時、近くに何かが落ちているのに気がつき、拾い上げる。
(これ……)
ユリアがよくつけていた髪留め。
手作りだとすぐに分かったし、大切に使っているのだろう、細かな修繕の痕がところどころで見て取れた。
僕は髪留めを包み込む。
肩を震わせ、涙が溢れる。
(僕のせいだ……僕が、家を飛び出したりなんかしたから……っ)
地面に突っ伏し、漏れ出る嗚咽はとめられなかった。
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