魔道士と遡言者

景山八十八

魔道士と遡言者

 夜更けの酒場に、ひどく馴染まぬ男がいる。明らかによそ者であり、一人で強烈な蒸留酒を嘗めている。外套マントを着こみ、腰には長剣、傍らには荷袋。旅人、異邦人、何と呼ぶにせよ、今の時代には珍しい人種である。

 よそ者への洗礼は終わっていた。村一番の荒くれ、ゴドンが酒の勢いを借りて喧嘩を吹っかけにゆき、異邦人の壮絶なひと睨みで退散してからというもの、村人たちはこの男に近寄ろうとはしない。明日から、ゴドンの立場は悪化するだろう。

 酒場の扉が、勢いよく開かれた。

「だれか、助けてください!」

 少年の悲痛な声が、静まり返った酒場に響いた。乾杯の機を逸した大工たちの木製のジョッキから、ぬるい麦酒ビールの泡が零れ落ちる。

 尋常でないありさまだった。傷だらけで泥にまみれ、左手に巻いたシャツの切れ端には血が滲んでいる。

 酔客たちの視線は、自然と一箇所に集まった。涙と鼻水を桶一杯分流した少年が助けを請うのに相応しいのは、彼をおいて他にいまい。

 くだんの異邦人である。

「助けてください……!」

 その視線に導かれるように、少年は異邦人のもとに歩み寄った。

 蒸留酒を呷り、異邦人は少年を見た。鋭い視線が彼を射すくめる。少年は、己の危機もいっとき忘れ、異邦人のいで立ちをまじまじと見た。

 固い皺を刻んだ浅黒い肌に、白髪の混じった短髪、宇宙の深淵のように黒い瞳。大柄な体躯にまとうのは、かつては星空の濃紺だったことを偲ばせる、夜明け前のように色褪せた外套マント。腰にくのは、未知の様式の緩く反った片刃剣。鞘は何らかの革だろうか。あまりに厳格なその居住まいは、いっそ非人間的なほどだった。

「座るがよい」異邦人が口を開いた。「店主殿、彼に温かい飲み物を。湯と清潔な布も」

 低く、威厳のある声だ。少年は小さく頷いて異邦人の対面に座り、店主は湯を沸かしに出た。

「お願いです、助けてください……」少年は、押し殺した声で言った。左手にさらに血が滲むのも構わず、拳を握りしめる。「お金でも何でも、何をしても用意しますから」

「わたしは殺し屋ではない」異邦人はにべもなく返した。

「え――」

「傭兵でもない。金では動かぬ」

「そんな――」落胆のあまり、少年は消えてなくなりそうだった。

 そのとき、酒場の村人たちは信じがたいものを見た。

 隕石のごとくいかめしい異邦人の顔に、誤解を与えた者に特有の、ある種の申し訳なさと居心地の悪さが現れたのだ。だれもが、口にはせずとも思ったことだろう――この異邦人、本当に人間だったのか。

「報酬で判断はせぬ。それだけのことだ。まずは話すがよい」

 希望が、少年の顔にさす。

「隣の村を、助けてほしいんです」

 村人たちがざわめく。隣の村――水源みなもとの村に、変事か。

「何が起きた」異邦人が聞いた。

「それは――」少年は言葉に詰まった。「わかりません」

 異邦人は腕を組む。

「でも、本当なんです! 本当に、ひどいことがあったんです。ぼくは弱虫だから、何もできなくて、一人だけ隠れて、逃げて……」

 異邦人はしばし黙考した。そして、問いかけた。

「おぬし、名前は」

「はい、ぼくは――」少年は、答えられなかった。「ぼくは、誰なんでしょう……わかりません」

 絶望に見開かれた目から、涙があふれだす。

 空気が張り詰めた。異邦人の、刃のように鋭い殺気だ。

「なるほど――」

 異邦人が言った。彼は荷袋から手のひらほどの盃を取り出し、そこに蒸留酒を注いだ。銀とも白金ともつかない色合いで、繊細な装飾が施されている。

「おぬしの血が要る。左手のそれを寄こせ」

 少年は涙をぬぐい、血糊で固まったシャツの切れ端をはがした。左手の甲に刻まれた傷があらわになる。それは、二本のぎざぎざとした平行線だった。自然につくものとは思えない。

「その傷は?」

「何でしょう、わかりません」 少年はまた涙を流した。「でも――すごく熱い」

 異邦人は頷いた。

「これでわかる」

 異邦人は切れ端を盃につけた。こびりついた血が酒に溶け出す。村人の中には、露骨に顔をしかめるものもあった。異邦人のまじない。なんと不吉な。

「血に記された、おぬしの記憶を読む。推測するに――」

 赤く染まった蒸留酒を、異邦人は一気に飲み干した。

「〈遡言者そげんしや〉に、過去を操られた可能性がある」

 酔漢たちがどよめく。その声が、暗転する視界とともに遠ざかる。

 血は最も強くおぼえている。忘れ去ったはずの記憶も、なかったことにされた過去も。

 魂を書き換えられたとしても。

 

***


 怒号と悲鳴、困惑した銃声。粗末な家の、石積みの壁の外から恐ろしい音が近づいている。少年は部屋の隅にうずくまり、戸棚の陰でただ震えていた。

 戸口に立つ両親も、また震えていた。

 しかし、父の手には曽祖父の代から受け継がれるメヂヤ騎士の小銃ライフル。母の手には鋼鉄のくわ

「くそっ、〈遡言者〉め――おれたちの村を!」

 戦意があるのだ。それに引き換え――と少年は自責した。両親の背に隠れ、目を背けるばかり。

「いい、ユリウス! 絶対そこから出てくるんじゃないよ!」

 ――そう言われたら仕方がないじゃないか。ぼくみたいな弱虫が出てって何になる。

「やあやあ、元気でやっとるかい!」

 突然、扉が開かれた。鍵はかけていたはずだ。いや、。来訪者は、親しみやすい好々爺の声だ。彼は、少年たちの家に上がった。

「来るな! 撃ち殺すぞ!」

 父の威嚇に、来訪者はただ苦笑した。

「物騒な冗談じゃあないか。。だいいち、君たちは

 両親の手から、銃が、くわが消えた。見ずともわかる。存在が書き換わるいやな感触が背筋を這い上る。この感じがするたびに、何かが壊れ、忘れてゆくのだ。そして、忘れたことすら忘れてしまう。

 流浪のメヂヤ騎士を看取った曽祖父が託された、由緒ある銃! 何度も聞いたいわれを、ユリウスは必死につなぎとめ――しかし、むなしくかすんでいった。目覚めてすぐに忘れられる夢のように。

 両親はそれきり沈黙した。ユリウスは口を塞いで悲鳴をこらえながら、玄関を覗き込んだ。

 老人が、そこにいた。

 彼は、昔から村の面倒をよく見てくれる、頼れる爺さんだ(奴は昨日この村にやって来た)。

 彼はいい人だ(奴は邪悪なまじない師で、あったことをなかったことにする。なかったことをあったことにする)。

「おまえは、何だ」父が唸る。「この村をどうするつもりだ」 

「わたしは神だよ」老人はこともなげに言う。「心地よい場所を作るのだ。神の力で」

「あいにく神さまは間に合ってんだよ!」母が吠える。「うちの村にはとびきりのをまつってんだ!」

 老人はいたく気を悪くしたようで、不快感もあらわに眉根を寄せた。だがすぐに、酷薄な笑みに変わる。

「ところで」老人は言った。

 邪悪な言葉を封じるべく、父が殴り掛かった。

「君たちは、。わたしの記憶違いかね」

 老人の顔面に届く寸前に、父は拳を止めた。そしてその殺意は、母に向けられた。母はすでに食卓からナイフを取っている。

 ユリウスは目を背けた。

 獣の争うような壮絶な様相は、耳を塞いでも聞こえた。そして、そのさまをあざ笑う老人の高笑い。

「そら、殺せ殺せ! わたしに歯向かうからだ!」

 ユリウスはうずくまり、耐えた。この恐ろしい時間が過ぎ去るのをひたすらに待った。食器が飛び交う。頭上の壁で砕け、破片が周囲に散らばる。

 致命的なうめき声と、かすれた長い一息。それですべてが終わった。

「もう終わりか、つまらん」

 老人は吐き捨て、足音が遠ざかる。通りに出るのだろう。

 「ああ、そういえば」老人が振り返る。

「こいつらに

 高笑いを一つ、老人は出て行った。

 少年は部屋の隅にうずくまり、戸棚の陰でただ震えていた。

 しばらくするうちに、手足の感覚が薄らいできた。極度の緊張で痺れたか。

 ――違う!

 指先とつま先がほどけるようにかすんでいる。幻が消えてゆくように。

 自分が、なかったことにされている。言葉では言い表せぬ恐怖が、腹の底からこみ上げた。

 ――そんなのはいやだ! 

 かすむ手で、少年は散らばった皿の破片を拾い上げた。昔、同じように陶器を割ってしまったことがある。破片で手を切り、大泣きしていると、だれかが駆け寄って手当てをしてくれた。やさしく抱きしめてくれた。だが、その顔も名前も、ほどけるようにかすんでわからない。

 少年は息をつめ、破片を左手の甲に突き立てた。燃えるような痛み。それこそが、まだ存在している証だ。

 浅い息をつき、歯を食いしばると、少年は刺さった破片で手の甲を切った。皮膚を裂いて、紋様を描く。

 ――忘れたくない。忘れられたくない。

 苦痛の線を刻むたび、手足のかすみは引いてゆく。それは、更なる痛みをもたらした。それでも、手は止めなかった。

 刻んだ血みどろの紋様は、ぎざぎざと波打つ二本の平行線。水源みなもとの村に伝わる、黄道より降り立った旧き蕃神ばんしん、〈みずがめ様〉の表意文字ルーンだ。

「村に何かあったときには、決して忘れるな。おれたちのしるしを」

 確かに、そう教えてくれただれかがいたのだ。

 その記憶すらも零れ落ちてゆく。

 ――あれ?

 なぜ自分で手を切ったのだろう。どうしてそんな、ばかなことをしたんだろう。

 脈打つ痛みとともに、嫌悪感がこみ上げる。まるで、別のだれかに体を操られていたようだ。あれほど必死に刻んだ紋様が、奇妙で恐ろしいものに思われた。

「逃げなきゃ――」少年は呟いた。

 もう、たくさんだった。何かとてつもなくひどいことが起きたという実感だけが、かすんだ記憶の底にある。

 左手から血が滴る。少年はシャツの袖を破り、包帯替わりに巻き付けた。

 玄関で、見知らぬ人が死んでいる。恐ろしさ以上に、なぜか深い悲しみを感じた。左手の傷が熱い。

 少年は見知らぬ家を出た。

 昼下がりの通り。知っているはずの人々が行き交い、よそ者に向けられるべき怪訝な目を少年に向ける。空虚な懐かしさと重い疎外感がのしかかり、息も忘れるほどだった。傷が痛む。

「なあ、ぼく」

 立ちつくす少年を見かねたか、青年が声をかけた。かすむ記憶の中では、彼は気さくな隣人で、挨拶代わりに軽口を言う仲だった。決して、真剣な顔で初対面のように話しかける人ではなかった。

 ――ぼくを、知ってる?

 少年は、喉まで出かかった問いを飲み込んだ。自分はいなかったはずの人間なのだと、認めることになってしまう。

 少年は背を向け、走り出した。

 三軒隣の家の裏、藪の中には森を貫く獣道がある。隣村への近道だ。

 藪の入り口で、少年は振り返った。森に囲まれた、小さな村。

 何もかもが、壊れてしまった。どう壊れたのかわからないのが怖かった。すべてから目を背け、少年は藪の中に飛び込んだ。

 それから、どれだけ走っただろうか。転んだだろうか。気づけば辺りは、木々が星々すら覆い隠す完全な夜闇。森の中は昼間でも暗い、などと思ったのがばかばかしくなるほどだ。光といえば、恐ろしい獣脚類のとげとげしい双眸ばかり。残虐極まりないキマイラさえいたかもしれない。

 少年は、闇の中でもがいた。

 そして、不意に開けた視界の先に、酒場の灯りを見出したのだ。


***


 居合わせた全員が、異邦人を見守っている。少年は、店主が淹れた温かい茶を落ち着きなくすする。一通りの手当てを受け、幾分ましな姿だ。

 普段ならば、突然突っ伏した異邦人がいつ目を覚ますかの賭けが始まっていよう。しかし、不吉な予感が酔客たちから活力を奪っている。

 〈遡言者〉。遡言そげんを語ることで、過去を変える異能者。おとぎ話の中の存在が、隣の村にいるかもしれないのだ。中には、少年に険悪な目を向ける者もいた――厄介ごとを持ち込みやがって。

 やがて、異邦人が顔を上げた。

「〈遡言者〉だ。それも、かなり強力な」

 村人たちがどよめく。

「驚くには値せぬ。このこぼたれた世界には何でもいる」異邦人は言う。「少年。まず、おぬしの名はユリウスだ」

「ぼくの、名前――」

水源みなもとの村は〈遡言者〉の手に落ちた。おぬしは限定的ながら遡言の影響を避けた、おそらくはただ一人だ」

 ユリウスと呼ばれた少年はうつむいた。その手は震えている。

「ぼくは臆病で、弱虫で……ぼくだけ逃げ出したから……」

「顔を上げるがいい、ユリウス」異邦人は、鋭い眼光を真っすぐ少年に向けた。

「おぬしは両親を殺されながら、自らに守護神の表意文字ルーンを刻んだ。そうして存在と意思をつなぎ留め、ここにたどり着いたのだ。それは紛れもなく機知と勇気のなせる業であり、怯懦とは程遠いもの」

 少年は拳を握った。

「誇れ。おぬしは闇に背を向けて逃げたのではない。光に向かって走ったのだ」

 ユリウスは静かに涙した。

「そ……それで、どうすんだ?」村人の一人が、異邦人に尋ねた。

「討つ。典型的な、力に溺れた〈遡言者〉だ。捨て置けば、大規模な因果の破れを引き起こしかねん。ほつれた世界線が閉じた時空を形成する可能性すらありえる」

 その言葉を、村人たちが理解できたとは思えない。たが、異邦人は構わず続けた。

「ユリウス、共に来い。おぬしの力が必要だ」

 少年は目を見開いた。そしてうつむいた。

「ぼくは、弱虫なんです」かぼそい声は、震えている。そのさまには、ユリウスに険悪な目を向けていた村人でさえ憐憫の情を抱いた――年端もいかぬ少年に、この上〈遡言者〉に立ち向かえとは。

「怖いのも、痛いのも、大嫌いです」

 ユリウスは顔を上げ、左手を掲げた。

「でも、だからこそわかるんです。そんなぼくが、自分でこの傷をつけた。こんなに痛い思いをしてでも、忘れたくなかったし、忘れられたくなかったんだ。だから、行きます。もう思い出せないけれど、ぼく自身の意志のために!」

 異邦人は立ち上がった。

「よくぞ言った。おぬしは真の勇気を示した」かれはユリウスの手を取った。「魔道士グステルが、わが〈星〉の表意文字ルーンにかけて言う。〈遡言者〉を必ず殺し、水源みなもとの村に正しき因果を取り戻す」


***


 西から昇った太陽が怠惰な高度に北中する頃、魔道士グステルと、少年ユリウスは水源みなもとの村へと通じる道を歩んでいた。

「〈薄い〉な」魔道士が言った。

「何がですか?」ユリウスが訊く。

「存在の確かさ、世界の厚み、現実の重さ……そうしたものだ」魔道士は立ち止まり、大柄な体躯をかがめてユリウスに目線を合わせた。「〈薄い〉場所では〈遡言者〉の力が強まる。覚悟しておきたまえ。想像を超えたつらいものを目の当たりにするやもしれぬ。それでも、奴を討たねばならぬということを」

 ユリウスは生唾を飲み込み、頷いた。

 やがて二人は、村に着いた。森に囲まれた、つつましい営み。

「もし、ご夫人」魔道士は軒先で安楽椅子に腰かける老婆に声をかけた。露骨に怪しむ目が向けられる。当然だろう、とユリウスは思った。水源みなもとの村に旅人など来ない。年に一度、砂漠の彼方から交易にやってくる〈渡り屋〉の他には。

「この村に宿はございますかな。一泊お借りしたく」

「ないよ、そんなもん」

「では、村の長はおられますかな。〈忘れじの河〉の向こうより参った旅人として、しばし商売の許しをいただきたい」

 水源みなもとの村の住人が知りうる限りの遠い地の名に、老婆は興味を抱いたようだ。

「子連れでかい?」

 ユリウスは唇を噛んだ。この老婆も、彼を覚えていない。

「苦労してるんだろうね。ほれ、持っておいき」

 老婆はユリウスに飴玉を差し出した。

「ありがとう……ございます」

 それは、昔からよくもらっていたものだった。他人行儀と、変わらぬ優しさ。胸が苦しい。

「村長なら、向こうの広場の先の一番立派な屋敷さね」

 魔道士たちは礼を言って辞した。

 村は平和そのものだった。つい昨日、恐るべき混乱があったとは思えないほどに。

 〈遡言者〉を討つことで、この平和が壊れるのではないか。それは正しいことなのだろうか。ユリウスは迷いを抱かずにはいられなかった。

「かりそめの平穏を破壊してでも、奴は討たねばならん」そうした葛藤を見透かすように、魔道士が言った。「見ろ」

 彼が指さした先は、納屋の影だった。

 そこに、人が浮いていた。

 人ではない。死体だ。胸元に銃弾が突き刺さり、血しぶきを散らしながらくずおれる瞬間を、緩慢に引き伸ばされた時間のなかで半永久的に演じている。苦悶に満ちた顔と目が合い、ユリウスは息を呑んだ。鍛冶屋の親父だ。彼の仕事を見物するのが好きだった。

「〈薄い〉場所で遡言を繰り返した結果だ。因果の〈揺らぎ〉が表象化しつつある」

 二人は村の中を進んだ。平穏な営みの影のそこかしこに、ほつれた因果の〈揺らぎ〉が吹き溜まっていた。

 そして彼らは、村の中心の広場に着いた。商いをするもの、立ち話をするもの、ただ暇そうにうろつくもの。村人たちの視線が、異邦人とに向けられる。

「これは珍しい、〈渡り屋〉でもない旅人さんとは」

 異邦人たちに声をかけたものがあった。

 快活な壮年の男と、慎ましやかな婦人。

 その姿と声に、ユリウスは激しい既視感を覚えた。〈みずがめ様〉の表意文字ルーンの燃え上がるような熱と共に、失われたはずの記憶の欠片が湧き出した。

「父さん、母さん……」

 押し殺した呟きを、グステルは聞き逃さなかった。

 魔道士は夫婦と言葉を交わしたが、ユリウスはほとんど聞いていなかった。

「坊や、まだ小さいのに偉いのねえ」

 母だった人にそう言われても、曖昧に頷くことしかできなかった。

「では失礼」魔道士は辞した。

「ええ、どうも。坊主、お師匠さんのことをよく聞いて、くじけるんじゃあないぞ!」

「ありがとうございます――さようなら」 

 ユリウスは辛うじて返事をした。

 二人は一度広場を離れて人目を避けた。

「大丈夫か、ユリウス」

 少年はほとんど過呼吸だった。涙が零れ落ちる。

「父さんと母さんが、殺されたはずなのに……」

「人の生死さえ、奴の思うがままとは。予想以上だ」

「ぼく、このままでいいです。〈遡言者〉はやめましょう。ぼくだけが忘れられてるのは我慢しますから」

「ユリウスよ――」

「父さんも、母さんも、生きてるから、ぼく、それでいいです」

「ユリウス!」魔道士の一喝に、少年は震え上がった。

「覚悟がいる、と言ったのはこういうことだ。生者が無限に死に続け、死者が偽りの命を得る。その全てが因果を狂わせた結果であり、世界を壊す原因となる。おぬしの両親が生きていること、それ自体が〈遡言者〉を討たねばならぬ理由なのだ」

 ユリウスは押し黙り、グステルは彼の言葉を待った。

「わかってます。わかってるんです」少年は涙を拭った。「お別れを、言えました。十分です」

「――強い子だ」グステルは言った。「では、手はずの通りに」


***


 魔道士は、屋敷の戸を蹴破った。その勢いのままに、〈揺らぎ〉の最も強い方へ――応接室へ突入した。

 〈遡言者〉が、村じゅうからかき集めた財宝に溺れるようにして安楽椅子に座っている。突然の闖入者に、葡萄酒がなみなみと注がれた酒杯を取り落とした。

 それが地面に落ちるより早く、魔道士は腰の長剣を抜き放った。

 緩やかに反った片刃には波打つ紋様が浮かび、その色は銀より暗く、鉄より明るい。

 〈遡言者〉が叫ぶ。

 グステルの剣は突如生じた壁を薄紙のように切り裂いた。その残骸を蹴倒し、魔道士は改めて〈遡言者〉に向き合った。

「初太刀をかわすか。誉めてやろう」

「なんだ、おまえは!」

「貴様を狩る。抵抗せねば、痛みなく葬ってくれよう」

「狩るだと、わたしを、この地に目覚めた神を?」 〈遡言者〉は財宝に囲まれながら残忍にわらう。「思い上がりも甚だしいわ!」

「いかに過去を変えようと、未来は一つ。貴様はここで死ぬ」

「わたしは!」

 〈遡言者〉は虚空から現れた拳銃を腰だめに連射した。その腕は確かに達人のそれであり、弾丸はすべて魔道士の急所に向けて殺到した。

 剣がひらめく。銀より暗く、鉄より明るい刃は虚空に弧を描き、弾丸をすべて弾き逸らした。

 煙を上げる銃口を魔道士に向けたまま、〈遡言者〉は目を見開いた。

「自己改変か」グステルは言った。「代償は高くつくぞ」

「神の力に代償などあるものか!」

「試してみるがいい」

 魔道士は財宝を踏みしだき、再び斬りかかった。

!」

 遡言による因果の波動が魔道士に触れる。すると四芒星の表意文字ルーンが現れ、遡言をかき消した。異邦の剣は消失しなかった。星の光のように鋭い刃は振り上げられ、振り下ろされるという因果律のままに〈遡言者〉の胸を切り裂く。致命傷だ。

 〈遡言者〉が血を吐きながら叫ぶ。瞬きの間に傷が塞がった。いや、。そのはずだ。にもかかわらず、その両目からは血が流れ落ちている。

「遡言とは世界を蝕む業。己に向ければ、当然己を壊す」

「貴様……!」

 そのとき、世界が揺らいだ。書き換えられた存在が、そのわずかに遺した痕跡をたのみに揺り戻らんとする張力だ。遡言によって作り出された財宝が農具や日用品、あるいはささやかだが代えがたい思い出を秘めた素朴な装飾品へと還ってゆく。

「何をした!」〈遡言者〉は後ずさる。

 魔道士と〈遡言者〉の脳裏に、ぎざぎざとした二本の平行線の表意文字ルーンが焼き付いた。それはこの場に、〈みずがめ様〉の力が作用した証だ。

「――神か」〈遡言者〉は唸った。「この村に、神がいるのだな!」

「いかにも。貴様のごときまがい物ではない、天より来たる本物の蕃神だ」

 グステルは剣を構えた。最後の一太刀だ。

「神はわたしだ! この力に目覚めたわたしだけが、神の名にふさわしいのだ!」

 〈遡言者〉の絶叫とともに、世界がねじれた。因果の撚糸よりいとがほどけ、整合性が失われてゆく。天井が床に、椅子が扉に、壁が草地となって歪み果てた空間を、〈遡言者〉が転げ落ちてゆく。その体は部位ごとに異なる時間の流れに身を置いたかのごとく、少年から老人までが無秩序に入り混じっていた。

「いかん……!」

 グステルは飛び交う家具や瓦礫を足掛かりに、歪んだ空間を飛びわたって〈遡言者〉を追う。

 突如空間の歪みが消え去ると、そこは村はずれ、森の中の泉だった。その泉こそは、水源みなもとの村の由来である枯れぬ湧き水であり、黄道より降り立った旧き蕃神〈みずがめ様〉が坐す神所である。

 そのほとりで、少年ユリウスが祈りを捧げている。〈みずがめ様〉の表意文字ルーンをもつ者の祈り。それこそが幾重にも重ねられた遡言を打ち破る切り札であった。

「おまえか――おまえかァ――!」

 〈遡言者〉はもはや人間の形を留めていなかった。腕だったものを伸ばしてユリウスに掴みかかる。少年は恐怖に目を見開き、遡言に抗する圧力が減退した。

「祈り続けろ!」グステルが叫ぶ。そして跳躍した。

「――昇れ、紅炎」

 ごく短い詠唱と共に、紅い炎が――〈星の炎〉が、異邦の剣を覆う。

 グステルは〈遡言者〉とユリウスの間に割り込むようにして斬りかかった。真紅に燃える刃が、腕だったものを切り裂く。〈遡言者〉はたちまち火だるまとなり、しかし敵意は衰えない。乱れ狂った因果に翻弄された雑多な物が辺りを飛び交う。

「神に! 手向かうか!」

 〈遡言者〉は空間を歪めながら無数の触腕を形成し、一斉にユリウスに向かって伸ばした。グステルは星の炎を宿した刃でこれを斬り落としてゆく。捌ききれぬ一本が、刃を逃れる。

 魔道士はそれを、己の腹部で受け止めた。

「グステルさま!」ユリウスが耐えきれずに叫ぶ。

「祈り……続けろ……!」魔道士は声を絞り出した。その腹には血が滲む。

 そうするうちにも、狂乱する〈遡言者〉は因果のほつれを投げかけんとしている。遡言によって存在を消された物、実在を捏造された物、ありとあらゆる物が、〈揺らぎ〉の中で嵐のように乱れ飛ぶ。

 ユリウスはその中に、既視感のあるものを見出した。小銃ライフルである。

 ――曽祖父の代から受け継がれる、メヂヤ騎士の銃!

 〈みずがめ様〉の表意文字ルーンが、壊れた記憶を呼び覚ました。ユリウスは咄嗟に祈った。武器を、この手に!

 木と鋼の重み。ユリウスは、銃を握っていた。弾は込められている。

 震える手で、少年は銃を構えた。照星の先に、燃え盛る怪物となり果てた〈遡言者〉。

 〈揺らぎ〉を消し飛ばすかのような、鮮烈な銃声。少年の勇気と共に放たれた弾丸は、歪んだ因果を越えて〈遡言者〉を貫いた。

「神が……わたしこそが……」

 〈遡言者〉は、奇妙な静謐さをもって崩れ去った。あとには自己相似的な微細構造を持つ塵だけが残された。それすらも、森の微風が吹き散らしていった。

「――よくぞ、やった、ユリウスよ」

 魔道士は血を流し、しかし剣を杖替わりに立っていた。

 

***


 二人は村へと戻った。

 荒廃が、全てを覆っていた。

 生きている者は、ない。

 これが、繰り返される遡言によって何重にも上塗りされた水源みなもとの村の、残された姿だった。

 ユリウスは、この光景に涙した。しかし、目を逸らすことはなかった。

「――共に、来るか」

 魔道士の言葉に、少年は頷いた。

 

 


 

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