七月一日

鳥尾巻

七月一日

 七月一日。僕はいつものように、最寄り駅への道を歩く。四月に入学した高校の制服はネクタイが窮屈で、GWを過ぎてもクラスに馴染めない僕の息苦しさを増長させる小道具のような気さえする。

 朝陽に照らされた閑静な住宅街を、通勤や通学をする人たちに紛れてとぼとぼ歩いていると、T字路の角に建つ家からたどたどしいピアノの音が聞こえてくる。何度もつっかえて、最初から弾き直す。幼子が懸命にピアノと向き合って弾く様子が想像できて少し微笑ましい。そうだ、がんばれ。心の中だけで呟いて、僕は学校への道を急ぐ。

 とはいえ、遅刻をしたところで何も変わりはしない。休んでしまっても別に構わない。たどたどしい音階はずっとたどたどしいままで、僕はいつまで経ってもクラスには馴染めない。それでも僕は代り映えのしないこの道を通って駅に向かう。何度も繰り返される七月一日が、僕を学校に運んでいく。


 日付が進んでいないことに気付いたのは、もう忘れるくらい前だ。母親の弁当はふりかけの種類まで同じだし、隣の席の吉田はいつも同じ場所に寝癖をつけているし、担任の先生は近づく夏休みの注意事項を一言一句違えず繰り返す。夏休みなんて永遠に来ないのに。

 最初の頃はパニくって手当たり次第に色んなことを試してみた。でも一日が終わるとまた七月一日がやってくる。僕と同じように戸惑っている人がいないか探し回ったりもした。自棄になって暴れてみた。馬鹿みたいにはしゃいでみた。皆は今まで大人しかった僕の変化に戸惑いはしたものの、次の日には元通りだ。

 学校を休んだり、部屋に閉じこもったり、やけになって死のうとしたこともあるけど、一日が終わればリセットされてしまう。いや、実際死んだら強制リセットだ。死ぬ時の気分の悪さは二度と味わいたくないので、他の方法を探そうと心に誓った。ネットや図書館で調べたり、学校を休んで著名な科学者に会いに行ったこともある。一日のうちに海外に行くのは無理だったので、それは断念した。

 閉じた時間の輪の中で、僕はありとあらゆる方法を試したけれど、最近は疲れてしまって諦めモードだ。このまま老いもせず、死ぬことも狂うことも出来ず、同じ時間の中でくるくる回り続けるしかないのだろうか。

 僕は投げ遣りな気分で担任の言葉を聞き流し、四角に切り取られた窓の外に目を向けた。この世界では校庭に生えたポプラの葉の数さえ変わることがない。


 そうして、気が遠くなるほど繰り返した何度目かの七月一日の朝。いつものように家を出て、最寄りの駅へと向かう。日差しがきつくなる前の朝の光に照らされた住宅街を歩いていると、T字路の角に建つ家からピアノの音が聞こえて来た。

 何度もつっかえて、たどたどしい……。いや、ちょっと待て。なんだか上手くなってる気がする。同じところで止まって弾き直していたはずの音が途切れずに続いている。それは変化を待ち望み過ぎた僕の幻聴かもしれない。

 僕は立ち止まって耳を澄ます。後ろからやってきたサラリーマンが肩にぶつかって舌打ちする。優しい調べはそんな雑音を潜り抜けて僕の鼓膜を震わせる。

 今まで気にも留めていなかったけど、もしかしたら、このピアノの演奏者も異変に気付いているのかもしれない。

 僕は居ても立っても居られず、その家の玄関まで走って行って、チャイムを押した。表札には『佐藤』と書いてある。

 気のせいかもしれないが、どうせ不審者扱いされたところで、明日にはリセットされてしまうのだから、確かめるのにそれほど迷いはなかった。

「はい」

 ドアを開けたのは、顔色の悪い痩せた中年の男だった。白いシャツを着て、首に何かの切れ端を巻いている。最初は変わったネクタイだと思ったけど、よく見ればそれはちぎれたロープだ。

 男は無精ひげを生やして、精気のない目を僕に向けている。おまけにひどい猫背だ。しかしそんなことに構っていられない僕は、息を整える暇も惜しんで彼に尋ねた。

「あの、突然すみません。ピアノ、誰が弾いてるんですか?」

「俺」

「えっ」

 てっきり小さな子供が弾いているのかと思った。絶句した僕を、男は訝しそうに見る。彼が異変に気付いているのなら、このことはイレギュラーな出来事のはずだ。僕は男の顔色を伺いながら、言葉を選んで恐る恐る尋ねた。

「上手くなってますよね?」

「ああ、毎日弾いてるからな」

 たとえそうだとしても、この時間の法則に縛られているなら、上達するなんてありえない。僕は興奮を抑えきれず、男の手を掴んだ。

「あなたもそうなんですね?」

「そう、とは?」

「とぼけないでください! 時間が繰り返してること、気づいてるんでしょう?」

「ああ」

 男は迷惑そうに僕の手を振り払い、家の中に戻って行く。なんで? ここから抜け出す糸口が掴めるかもしれないんだよ? なんであんなに嫌そうなんだ?

 僕は許可も得ず中に入り、男の後を追った。家の中は雑然として埃がうっすらと積もっており、男の他に人の気配はない。再び始まった演奏を頼りに進んでいくと、突き当りの部屋で男がアップライトのピアノを弾いていた。僕には音楽はよく分からないが、何度も聞いたことのある有名な曲だった。今まで下手過ぎて分からなかったが、繋がって演奏されて初めてそれがその曲だということが分かる。

 男のいる部屋はパステルグリーンの可愛らしい壁紙が貼られ、子供用の小さな勉強机が置いてある。白いベッドの脇には倒れた椅子と照明とロープの残骸が落ちていた。よく見ると石膏ボードの細かい破片も床に散乱している。見上げた天井には、大きな穴が空いていた。

 僕が勝手に入ったことを咎めもせず、男は淡々と鍵盤を叩き続けている。大丈夫だろうか、この人。

「あの、すみません。ちょっと!」

「なんだよ、うるせえな」

 少し大きな声を出すと、男はやっと手を止めて億劫そうに僕の方へ顔を向けた。窪んだ眼の奥に怒りがこもっていて、僕は少し怯みそうになる。けれど男はすぐに諦めたような表情を浮かべ、猫背の背をますます丸めてだらりと手を下げた。

「何してたんですか?」

「ピアノ弾いてただけだよ」

「散らかってますね」

「悪いか」

「いえ、別に」

 僕はこの人が何をしようとしていたか、なんとなく察した。僕にも覚えがある。男は僕に出て行けとも言わず、目の前の楽譜をじっと見つめている。

「ピアノお好きなんですか?」

「別に……娘が習ってたから」

「そうなんですか。娘さんは? 学校?」

「ずいぶん前……、いや、二年前? に妻と出て行った」

「時間進んでませんけどね」

 認識していない人たちからしたら昨日の出来事だったとしても、僕らにとってはずいぶん前としか言いようがない。でもこの家にうっすら積もった埃が、昨日今日出て行った訳ではないと物語っている。

「昨日……、まあ、ややこしいから昨日でいいや。何もかも上手く行かなくなって妻子にも愛想尽かされて、仕事も首になって、昨日首吊りしてみたんだけどな。失敗して気絶して目が覚めるところから毎日始める訳よ」

「はあ」

「明日は娘の誕生日なんだよ。まあ、明日は来ねえんだけど」

 唐突に語り始めた男に曖昧な相槌を打つ。淡々と語る口調が逆にその男の虚無を物語っている気がして怖い。

「そうなんですか」

「目の前にピアノあったからなんとなく弾いてみたけど、楽譜なんか読めないから、下手くそもいいとこで」

「そうですね。毎日通るたびに思ってました」

「……失礼な奴だな。まあ、いいや。耳で覚えたやつとか動画見て、最近やっと主旋律は弾けるようになってきた」

「教室通ってみたら?」

「一日経ったらリセットなのに、そんなの意味ないだろ」

「あ、そうか」

 知識や経験は蓄積されるのに、時間は全て振り出しに戻るのだ。確かに何度も教室の申し込みをするのは面倒だ。

「どうせ暇だしな」

 男は自嘲しながら白い鍵盤に人差し指を乗せる。そのポーンという柔らかい音が、僕の心の中に静かに余韻を響かせる。

 宇宙の始まりは音だったと言われている。暇に飽かせて読んだ本の中には、インドの宇宙始まりの音というものあったが、僕が興味を惹かれたのは宇宙関連の方だ。初期の宇宙を満たしていたのが光と物質の流体で、そこに音波 (疎密波)が伝わっていたのだとか。人間の耳には聞こえない音だし、難しい理論はよく分からない。

 でも、ここでだけ変化し続ける音はこの世界の何かを変えるかもしれない、という馬鹿げた夢想が頭に浮かぶ。

「僕も一緒に弾いていいですか? 少しなら楽譜読めるし」

「物好きだな」

 男は呆れたように笑ったが、良いとも悪いとも言わなかった。

 

 僕はそれから毎日彼の家に通うようになった。最初はぎこちなかった演奏が、二人で協力し合うことによって、少しずつ形になってくる。

こんなことをしても意味がないかもしれない。音が世界を変えるだって? こんな状況に似つかわしくない前向きなキャッチコピーみたいで、笑えてくる。

 ただ、共に体験を重ねていける相手がいることが僕にとっては救いになった。首にロープを巻き付けたままの投げ遣りな彼にとってもそうであったらいい。

 今日も僕は朝陽に照らされた住宅街を走って行く。眠そうなサラリーマンも、幼稚園児を乗せて自転車を漕ぐ母親も追い越して、一目散に。T字路の角に建つ家からは、流れるようなピアノの音色が聞こえてくる。

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