2─3:序章
「ただい……」
はやる気持ちを抑え、玄関をいつもより静かに開けると見覚えのない女物の靴が目に飛び込む。
──何……これ……。
一瞬彼のご家族が訪問されているのかとも思うが、彼は一人っ子で妹も姉もいない。
お母様には会ったことがあるが、履きつぶしたスニーカーを履いていらっしゃって、一緒に買い物に出かけた時に「ヒールの高い靴は足が痛くなるから履けないの」と仰っていたことを覚えている。
──それなら、このヒールの高い靴は……。
心臓の音が大きくなっていく。
背筋を冷や汗が伝っていく。
「……っ」
「……、……!」
奥の寝室から声がすることに気づき、声を押し殺し、足音を立てないよう歩みを進める。
仕事で帰ってこないと信用されているのかされていないのか、不用心に半開きになっている扉から中の様子を伺う。
「……っ!?」
──私たちは九年間
「ねーえ?いつになったら彼女さんと別れるのー?愛してるのは
──一緒に過ごした仲なのだ
「俺が愛してるのは美由紀だけだよ。あいつ、俺の財布に丁度いいんだよ。金くれって言ったらすぐ出してくれるし、美由紀とのデート費用もあいつが出してくれてるんだぜ?金を渡さなくなったら捨てるつもりだから、もうちょっとの辛抱な?」
──それくらいのことで今更喧嘩なんて
「きゃっ酷い男―。でも付き合い長いって言ってたよねー?それだけ長く一緒にいるって、彼女さんはまだ
──おこるわけがない
「俺のパンツ畳んでる姿なんて見てみろよ?やってることがお母さん過ぎて女として見れないし、お母さんが俺に恋してるなんて気持ち悪いだろ?」
──おこるわけがない?
「慎吾君の下着は脱がす専門だもんねー」
──本当に?
「ははっだろー?美由紀は可愛いなあ」
──理性の げ ん か い と っ ぱ !!
次の瞬間、私は寝室の扉をありったけの力で蹴り飛ばしていた。
「!?」
「キャッ!!」
身を揺るがすような衝撃音に、寝室のベッドに横たわる二人の体が飛び上がる。
何事かと視線を泳がせる彼と寝室の扉の前に仁王立ちする私の視線が重なり、余程驚いたのか餌を求める金魚のように口をパクパクする彼。
「みゆき」などと呼ばれていた彼女は、修羅場に慣れているのか即座に服をかき集める始末。
「真緒……っ、今日は仕事だって……!?」
同棲生活で散々見てきた彼の裸も、今日にいたっては怒りを助長するスパイスに過ぎない。
未だかつて出したことのない、地獄の底から湧き上がるどすの聞いた声で一言告げる。
「……出ていけ」
私の焦点は定まっているのだろうか、彼の体がぶるりと震え上がったように見えた。
「待てよ!これは誤解だ!こいつは……ただの友達なんだよ!話し合おうっ、な!?」
「誤解って何ですかー?ベッドの中で数えきれないくらいみゆきのこと愛してるって言ったのは嘘だったんですかー?酷い!彼女さんっ、みゆきも被害者です!」
「お前っ」
手のひらを返す浮気相手の発言に、じゃれ合う茶番が目の前で始まりだす。
──どいつもこいつも人の気なんてお構いなしに、仲良しさんですね?
──ああ、お母さんに見せつけているんですね、私達「お友達」は仲良しですと。
彼が言い訳に使った「お友達」の意味をタガが外れた頭で反芻する。
「慎吾君の嘘つきー!」
「もうお前黙ってろ!真緒…っ!」
不意に呼ばれた名前の響きに寒気を覚え、もうここまでなんだとやけに冷静になる。
──ああ……なんか、もう、彼を見ても情とかそういうの何も感じなくなってきたわ……。
「俺を信じろ!真緒!」
「彼女さん!同じ被害者同士、騙されちゃ駄目!」
──だけど……ねえ?
──この裏切り行為を許せるかと言われれば……。
「許せるわけがねえだろーーーーーー!!!!二人とも出ていけーーーーーー!!!!二度とその面見せるんじゃねえーーーーーー!!!!」
***
「……ふーん、そんな経緯で別れたんだ?あのヒモ男と」
「仰る通りです……」
「でも、お姉ちゃんに寄生してた奴と、よく本当の意味で別れられたね?」
「知っての通り連絡先を変えて、見ての通りすぐに入居できる部屋に引っ越したから…それまでの間も家の前で待ち伏せされたりしたけど……」
「ふーーーん」
九年間お母さんをやり続けた彼と別れ、縁を切るために諸々を済ました後、平和を取り戻した私。
遅かれ早かれ気づかれると思い、新居に訪ねてきた妹に事の経緯を話していた。妹と母には彼とのお付き合いを認知されており、婚期を
「ん!」
おもむろに手のひらを差し出す妹に疑問を示す。
「これは……?」
「口止め料!お姉ちゃん、三十歳なんだよ?最後の婚期失ったこと、お母さんに知られても良いの?」
「はい……」
意味を理解し、情けない気持ちを抱えながら財布を取りに行こうとすると、不意に足首を捕まれ転びそうになる。
「それ……それだよ、お姉ちゃんの悪いところ!何でもお金で解決できると思っちゃうところ!やだあ、汚い大人!ヒモ男で学んだんじゃなかったのー?」
「……おっしゃる通りです」
ぐうの音も出ない。
「お金は冗談だけど……あ!じゃあ、口止め料、他の事お願いしたいんだけど!」
そんなに大きなカバン、何が入っているんだと思っていた妹のトートバッグの中から次々とイラストの描かれたケースやグッズが出てくる。
妹は、私が実家にいた頃からイラストの描かれたケースやグッズを収集しては持て余した感情を私に語りだす、所謂オタクだった。お小遣いの範囲内、ひいてはそのためにバイトをするようになり、社交的になった妹の姿を見ている私としては良い趣味だと思っている。
「……あった!」
今普及しているゲーム機とイラストの描かれたケースを机の上に並べ、「これ」とケースの方を見るように促される。
「このゲーム、乙女ゲームなんだけど、攻略対象の声優さん目当てで買ったの!だけど、攻略制限がかかってて萎えてて……ねっ第一王子のクラウスルート以外、全部攻略してくれたらお母さんには黙っててあげる!」
「乙女ゲーム……」
パッケージには大きく【親愛なる終末の君へ】と書いてあり、見目麗しい男性たちに囲まれる一人の女の子の姿が描かれている。いくらオタク文化に疎い私でも見ただけで分かる、これは恋愛シミュレーションを基盤とした女の子が複数の男性に迫られるゲームであると。
「良いけど……間違えないよう、その……第一王子が誰か教えておいてね。操作方法は……」
「今から教えるから覚えて!あ!そうそう…このゲーム、三か月後にイベントあるから、余裕持って一か月以内に終わらせてね!」
「い、一か月!?そんな期間で終わるものなの!?」
「口止め料」
「はい……カシコマリマシタ……」
かくして、婚期は逃したものの、画面の中のイケメン達と恋をするミッションを課された三十歳喪女。
お母さんとして過ごした九年間の間で恋愛経験値は塵となって消え去ってしまったが、果たして一か月後、私はイケメン達に愛を囁かれ過ぎてメス豚になってはいないだろうかと、要らぬ心配をするのであった。
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