No.7 『全知全能のパラノイア』
全知全能のパラノイア
命を懸けて紡ぎし後のソフィアよ。叶わないでいて、忘却のさよならは孤独でも。その言葉の意味を知る頃にはもう、わたしの命の潮は満ちるのをやめた。全能の風は凪いで、素晴らしき明日の午後に最後の花を咲かせたのだ。それは輪廻の狭間に万華鏡の映し出す、曙光に似通った神聖な映像としての花だった。
過去のある話をしよう。君の話だ。他でもない、全知少女の君のこと。君は全てを知っていて、唯一忘れたのは忘れることくらいだった。全ての夢も、全てのパラノイアも、全ての未来も、全ての過去も、全ての無限たる今でさえ君は知っていたのだ。君はバベルの図書館にある全ての書物の全ての文字列さえも刻々と覚えていた。ある時、病室で君に一番好きな本を尋ねたことがあった。全知ではないわたしだったが、その時の君の言葉は今でも鮮明に覚えている。一番好きなのは、作者不明の散文詩『ナウティ・マリエッタ』だよ、と言った。曰く、世界で一番美しいもの、世界で一番神聖なもの、唯一真理を宿すもの。
君は神も仏も信じなかった。なぜなら君は本当の意味での真理( 科学の言う真理ではなく、究極の思索の末に得られる類の真理) を全てのソフィアを通して既に知っていて、それらの宗教的な表現の限界も悟っていたからである。だが、君は神という言葉を汎神論的に使うことは否定しなかった。むしろ、君は生命を語るのに、喜んで神という言葉を使っていた。君の中の神も仏も、信じる必要はなかったのだ。そうであることを知っていたから。人は知っていることを信じたりはしないだろう。不確実なことを人は信じるのだ。
わたしには君は君の記憶だけを信じているように見えた。担当医も、看護師も、処方されていた薬も、シーツを交換するとき以外ずっと一緒だったベッドも、窓の外の景色も、牢獄のように何もない部屋も、決しておいしいとは言えなかった食事の味も、耳に入る全ての音も、君自身さえも信じなかった。あらゆるものを疑い、あるいは知っていたからこそ、君は君の記憶の海に深く潜ることで、白昼夢に浸ることで、人生の幸福を求めた。君は辛いとき、いつも『ナウティ・マリエッタ』「蒙昧な詩」の一節を口ずさんでいた。『ああ、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、ついにわたしはその秘密を知る』と。
人生の謎とは何だったのか。なぜ君がそのフレーズを最も気に入ったのか。わたしは知らない。だが、最近になって一つ考えたことがある。もしかしたら、この詩の作者、または語り手は何一つわかっていないのではないかということだ。ただ、分かったかのように言いたかっただけ、人生に探し求めるに値する美しくも神妙なる謎が必ずあると信じたかっただけなのではないか。それ故に「蒙昧」なのではなかろうか。今のわたしにはそう思えてならない。
君の話に戻そう。君よ、君は何だったのか。わたしはヴァルナに己の主な罪の所在を求めた年老いた水夫のような謙遜で、君に問いたい。わたしは答えを求めているわけではなかった。きっと、死ぬまで君という意味を、美妙な人生の謎というものを探し続けたかったのだろう。
形而上学は科学という冷たい文脈のなかで否定された。一番真理に近いものを科学であると人は信じたいのだ。それは科学の方がまだ理解するのにましだったからなのだ。この考えにわたしを誘ったのは、やはり君が示した本だった。『ナウティ・マリエッタ』「智慧の詩」の一節。『人々は真理を目指しながら、その鏡像の虚空に映るものに満足し、己が真理から遠ざかっていることを知ることはない』と真実のように語っていた。果たして、科学が観察の対象とするものは実像なのか、はたまた欺瞞に満ちた鏡像なのか。
君はニコラ・テスラとアルベルト・アインシュタインの名をよく語っていた。アインシュタインを文字通り、一つの石ころのようにぞんざいに扱っていたのが印象的だった。君はテスラの言葉を気に入っていた。特にわたしの記憶によく残っていたものは二つあった。一つ目は『わたしの脳は受信機にすぎない。宇宙には中核となるものがあり、わたしたちはそこから知識や力、インスピレーションを得ている。わたしはこの中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在するということは知っている』という、狂人としてのテスラらしい言葉だが、わたしはテスラのこの言葉に『ナウティ・マリエッタ』「蒙昧な詩」のあの一節に似たものを感じずにはいられないのだ。君はテスラが夢見た秘密も知っていたのだろう。君の眼にその秘密が宇宙の摂理とともに啓かれた時、君は、いや、わたしは…… 。
夢に見た園。水辺に咲き誇る花。天上楽園の麗しい乙女。
テスラはこう語った。『時間を超越したみたいに、過去と未来と現在が同時に見える神秘的な体験をした』と。ああ、その通りだよ。君は未来のわたしなのだ。全ての過去も全ての未来も、君の全知の前にひれ伏して、千年後に立つ君は( 時間などもはや関係ないのだが) 雄弁とそう語っていた。全知と全能の同値性の証明を、君は病室の壁に書き尽くした。病室の窓辺に活けられた花をへし折って、君はその甘美な蜜を堪能した。ああ、これが人生の秘密なのだと、君の五感がわたしに語りかける。なんと幸福であったか! 全人類の幸福の総量さえ、わたしたちの全能に内包されるのだ!
水門を開ける。涙を流す。歓喜を歌う。
君はどうして泣いているのかい。笑いながら泣くのは、生まれてくるときに忘れてきたものを思い出したからなのだね。明日の晴れた冬の日の朝に、バベルの図書館に存在しない本を君は持っていたのだ。『エデンの書』。それは存在しないはずの書だ。零という確率の丘を越えた先にあるとされる、あるはずもない書。『エデンの書』はあの全能の日に、君の脳のクオリアとしてのみ存在を許されていた。
夢のように儚く、君のように脆く、明日のように切なく。
わたしは明日の午後に注射を打たれて、君という神性を失う。神殺しに会うのだ。過去も未来も、わたしには無縁だ。なぜなら時流などないのだから。それでも、やはりさよならは嫌だな。これから先、人生は満ちることはなく、奇跡も起こらない。君とわたしの全知全能は、平凡な少年の人生の記憶に帰す。それでもいい。せめて、君という花を僕の人生の花言葉にしよう。その花言葉は何だったか。ああ、そうだ。メモを取っていたのを思い出した。
本棚にある『車輪の下』(「下」が消されていて「上」になっていたが) を開いて、あるページの余白を見る。そこには読みにくい字でこう書かれてあった。
『君という花は、僕を救う明日の羽根である』
『エデンの書』「フリージア」より
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