【05】凶事の連鎖(2)
〇山市立病院12階病棟。
男はエレベーターを降りると、妻の病室へと歩き出した。
「ことをなすはきょう」
病院職員と入院患者が行き交う廊下を真っ直ぐに歩きながら、男は一言呟く。
妻の病室の前で一瞬入るのを逡巡した後、彼は意を決したように扉を潜った。
室内では、彼の妻が静かに眠り続けている。
彼の名前は
市内の金融機関に勤める会社員だった。
彼の目の前で眠っている妻のみゆきの喉には、気道チューブが挿入され、周辺部は赤黒く変色している。
彼女が、自立呼吸が出来ない状態に陥ってから、既に二か月以上が経過していた。
原因は交通事故だった。
事故による外傷は既に完治していたのだが、脳に受けた損傷によって、みゆきは二か月以上も昏睡状態のままだったのだ。
「ことをなすはきょう」
妻の寝顔を見下ろしながら、稲田は再度呟いた。
その時、みゆきの顔が微かに歪んだ。
――苦しいんだね?もう終わらせよう。
稲田は自分に踏ん切りをつけるように、もう一度呟く。
「ことをなすはきょう」
――きょうで構わない。それでみゆきが楽になるんだったら。
そして彼は、人工呼吸器の電源を抜いた。
途端にナースセンターのエマージェンシーコールが鳴り響く。
「稲田さん、一体何があったんですか!?」
病室に駆け付けた看護師の叫び声を尻目に、
そして彼は、満ち足りた笑顔を浮かべながら廊下を歩き、病院の外へ出ると、自動車が激しく行き交う国道に飛び出した。
妻と同じ死に方を選んだのだ。
そして彼の起こした事件は、他の事件との繋がりを誰にも知られぬまま、意識が戻らない妻に悲観した夫による無理心中として、ひっそりと終結したのだった。
***
その日の夜
最初は渋っていた国松だったが、天宮の「私が奢ります」の一言で折れたのだ。
県警近くにある焼き鳥屋に入った二人は、取り敢えず生ビールを注文する。
「鏡堂君のことだよね?」
あったかいおしぼりで手を拭いながら、国松は少し渋い表情で尋ねた。
「そうです。今日車の中で仰ってた、『あの事件』について教えて下さい」
途端に国松は顔を
「やっぱり。わざわざ呼び出すから、そうだろうとは思ったけど、拙ったなあ」
「何か拙いことがあるんですか?」
天宮は眼を据えて、国松を問い詰める。
「鏡堂君に直接訊くって訳にはいかないんだよね?」
「口を割ると思いますか?あの頑固者が」
「割らんわなあ。あの偏屈野郎は」
その時店員がビールを運んできたので、国松は一旦話を逸らすために、料理を注文した。
そしてビールを一口飲んで喉を潤すと、仕方がないという風に話し始めた。
「あの事件て言うのはね、漆原教授の部屋に貼ってあったポスターと関係あるのよ。
まあ背景を知っといた方が、分かりやすいと思うから、そこから話すね。
近々オープンする<フォーゲートスタジアム>ってあるじゃない?」
「Jリーグのチームを誘致するための競技場ですよね?」
「そうそう。あれの建設絡みで、反対運動が起きたのさ。
もう7年くらい前になるかな」
――7年前だと、大学3年の頃か。
天宮はその話に自分を重ね合わせる。
当時そのような話を聞いた覚えはあるが、既に忘れ去っていた。
「その反対運動の主張はね、建設予定地だった稲荷町の銀杏並木を守れということだったのよ。
あのポスターにも書いてあったでしょ?
天宮ちゃんは、こっちの出身だったっけ?」
「いえ、大学卒業するまでは〇宮町に住んでました」
「じゃあ、こっちのことは詳しくないか。
稲荷町の銀杏並木って、結構情緒があって人気スポットだったのよ。
観光客を呼べるほどではなかったかも知れないけど、地元では人気あったの。
だから銀杏を軒並み切り倒して、競技場建てる案が出た時から、反対が多かったのよね。
そもそもあの場所って交通の便がいい訳でもないし、他にもっと適当な場所もあったのよね。
だから、わざわざ地元で愛される観光スポット潰してまで、稲荷町に作る必要ないんじゃないのってなった訳よ」
「どうして稲荷町に決まったんですか?」
「朝田正義の利権絡みって噂だったね。
そこに地回りの<雄仁会>っていう反社が絡んで、さらに複雑になってたの」
――また朝田絡みか。
それを聞いた天宮はかなりうんざりした気分になった。
そして気持ちを切り替えるように、話を促した。
「それで事件というのは?」
「反対運動に熱心に参加していた大学生のカップルがいたの。
今日の話だと、そのどちらかが、漆原先生の教え子だったみたいだけど。
そのうちの女の子の方が殺害されて、男の子の方が容疑者として検挙されたのよ。
当時その捜査を担当していたのが、鏡堂君とバディだった
「上月刑事ですか」
そう言いながら天宮は記憶を探るが、該当する名前は県警捜査一課内には見当たらない。
「容疑者として検挙された子は、当初から否認してたの。
自分たちは二人して拉致されて、気が付いたら女の子の方が殺されていたんだって。
でも凶器のナイフからは、その子の指紋しか検出されなかったし、目撃者もいなかったの。
それで結局、容疑否認のまま送検する方向になったのよ。
それに疑問を挟んだのが、上月さんだったの。
彼女は被疑者の子が主張するように、二人が拉致されたという前提で捜査を進めていて、何かを掴んでたみたいなのよね。
でも当時の捜査一課長が、理由は分からないんだけど、割と強引に送検しようとしていて。
上月さんはそれに反発してたのよ」
「まるで鏡堂さんみたいですね。
その上月さんて方」
それを聞いた国松は、ビールを一口飲んで身を乗り出した。
「あなたの言う通りよ。
当時の綽名が『女鏡堂』だったもの」
それを聞いた天宮はビールを吹き出しそうになって、
その様子を嬉しそうに見た国松は、何故か突然表情を引き締める。
「上月さんという人はね、あの鏡堂達哉が持て余すくらい正義感が強くて、突っ走るタイプだったの。
それが仇になったのよ。
彼女殉職しちゃったの」
「殉職」
その言葉に天宮は息を呑む。
「雄仁会傘下の半ぐれ集団に所属してた、チンピラに刺されたの。
歩いていて方が触れたとかいう、詰まらない理由でね。
一人で何かを捜査している途中だったそうよ。
鏡堂君は一人で動くのは自重しろって、口を酸っぱくして言ってたみたいだけど」
そこまで話した国松は、一つ溜息をついた。
「その後はどうなったんでしょうか?」
「彼女を刺したチンピラは自首してきて、今刑務所に入ってるわ。
スタジアムの建設反対運動も、殺人事件が起きたせいで自然消滅みたいになった。
何だか虚しいよね」
「鏡堂さんは、今でもその上月さんという方について引き摺ってるんですね」
天宮は誰とはなしに呟く。
「引き摺ってるどころじゃないわね。
上月さんが殉職した時、出頭してきたチンピラを、殺すんじゃないかと思うくらいの勢いで締め上げてたもの。
そのことが問題になって、当時の一課長と怒鳴り合いになってたわ。
あの喧嘩は、今でも語り草になってるくらいよ。
周囲は鏡堂君の降格左遷は決定的だと思ってたんだけど、タイミングよく人事異動があって、当時の課長は公安部長に栄転、後任として今の高階さんが来たのよね。
それで彼の処分は有耶無耶になったみたい。
今でも鏡堂君と公安部長は、すれ違う時にお互い睨み合ってるみたいよ」
それを聞いた天宮は思わず頭を抱えてしまう。
「かあ。あの人って、何であんなに突っ張ってるんですかね」
「性格なんじゃないの?
でも天宮ちゃん。
鏡堂達哉が出世することは、金輪際ないと思うから、覚悟しといた方がいいよ」
「え?な、何で私が覚悟するんですか?」
そう言って狼狽える天宮を、国松は意地悪そうに笑って見ていた。
***
帰宅した天宮は入浴後の習慣で、茶虎猫のタツヤを膝に抱いて暖を取っていた。
そうしながら国松から聞いた話を振り返っている。
彼女によると、鏡堂は今でも時間を見つけては、上月刑事が刺殺された背景を調べているらしい。
肩が触れたなどという、見え透いた動機を彼は信じていないのだ。
「言ってくれれば、私だって手伝うのに。
タッちゃんもそう思うでしょ?」
話し掛けられたタツヤは、不思議そうに彼女を見上げた。
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