【02】凶事の連鎖(1)
その朝
中学三年生の彼女は、間近に迫った高校入試のため、昨晩も遅くまで勉強していたのだ。
とは言え、たまには気晴らしも必要ということで、日曜日の昨日は親友の
良美とは〇山中学に入学して以来の友達だった。
「裕子ちゃん、早く食べないと遅刻するわよ」
キッチンから母が声を掛けるのに生返事を返した彼女は、テレビのリモコンを取ってスウィッチをオンにする。
特に見たい番組がある訳でもないが、それが毎朝の習慣だったからだ。
テレビでは丁度、地元のニュース番組を放送していた。
昨日の午後、市内の
死人こそ出なかったが、かなり大勢の怪我人が出たようだ。
「怖いわねえ。誰がこんなことするのかしら」
いつの間にか後ろに立っていた母の声を聞いて、裕子は驚いて振り向く。
「もう、急に後ろから声掛けないでよ。びっくりするじゃない」
「何言ってるの。
あんたがぼうっとしてるからでしょ。
それより早く食べて学校行きなさい」
「うるさいなあ。分かってるわよ」
捨て台詞を残してダイニングを出て行く母に、裕子は小声でぶつぶつと文句を言った。
――それにしても、昨日の良美はテンション高かったな。
食後のお茶を飲みながら、裕子は昨日のカラオケボックスでの、槇原良美の様子を思い出していた。
良美はかなり大人しい性格の子だったので、昨日のようにノリノリの様子を見たのは初めてだったからだ。
その後も興奮の収まらない彼女は、「来年の受験を占ってもらう」と言って、近くにあった<占いの館>に行ってしまった。
さすがに裕子はそれに付き合うことはせず、一人で帰宅したのだった。
――良美もストレス溜まってるんだろうな。
槇原良美は非常に頭のいい子で、一年生の時から常に学年トップの成績を維持している。
裕子自身もかなり勉強が出来る方なのだが、今まで彼女にテストの成績で勝ったことは一度もなかったのだ。
――そんな良美でも受験ストレスあるんだから、私がストレス感じるのは当然だよね。
そんなことを考えながら食器を片付けた裕子は、部屋に戻って着替えを済ませる。
「行ってきます」
玄関を出ながら母に声を掛けると、背中から母の返事が返ってきた。
「爆弾騒ぎとかあったんだから、気を付けなさいよ」
それを聞きながら、裕子は心中で笑いを堪える。
――何にどう気をつけるのよ。
学校に着いて四階建ての校舎を見上げると、四階の窓から槇原良美がこちらを見ていた。
彼女に手を振った裕子は、急ぎ足で校舎に入った。
玄関で上履きに履き替えた裕子は、すれ違う同級生たちと挨拶を交わしながら、足早に階段を上って行く。
三年生の教室は四階にあるので、上り下りは結構きついのだ。
四階の踊り場から廊下を右に折れて、一番奥が彼女の教室だった。
裕子が廊下を教室に向かっていると、向こうから良美が近づいて来るのが見えた。
「良美」
そう言って親友に向かって手を振るが、相手の反応がいつもと違うのを感じて、裕子は少し戸惑いを覚えた。
良美は大人しいが、決して不愛想な子ではなかったからだ。
こちらに歩いて来る彼女の足取りは、何となくフラフラして頼りなく見えた。
顔色も少し青白く見える。
――体調でも悪いのかな?
そう思いながら彼女に近づいていくと、何やらブツブツと呟いている声が聞こえてきた。
「ことをなすはきょう。ことをなすはきょう。ことをなすはきょう…」
その言葉の意味が分からず、思わず裕子は立ち止まった。
その時彼女に向かって、良美が後ろ手に持ったものを振りかざしたのだ。
それは刃渡り10センチメートル程の、果物ナイフだった。
その状況が理解できずに、呆然と立ち尽くす裕子の腹部に衝撃が走った。
良美が手に持った果物ナイフで、彼女を刺したのだ。
その場で尻餅をついた彼女に向かって、良美はさらにナイフを振り下ろそうとする。
裕子にとって幸いだったのは、近くにいた男子が、良美に体当たりして止めてくれたことだった。
そうでなければ、裕子は殺されていたかも知れなかった。
そして廊下の壁にぶつかって倒れた良美は、手に持った血まみれのナイフをその場に取り落とした。
そして彼女を遠巻きにする同級生たちを、怯えた眼で見まわした。
「良美!これ何なのよ?」
裕子の声に、突然我に返ったように眼を見開いた良美は、彼女に泣きそうな顔向けた。
「裕子、ごめんなさい」
消え入りそうな声でそう言った後、良美は廊下の窓から外に身を投げ出したのだった。
***
幸い彼女は軽傷で済んだようで、念のために一日だけ入院することになったらしい。
一方で加害者の
そのことを聞いた鏡堂は、悲惨な話だなと思った。
長年刑事をしているが、未成年絡みの事件は、心の中で後を引くことが多いのだ。
病室を訪ねると、いかにも中学生らしい女の子がベッドに横になっていた。
顔色は悪くないようだ。
ベッドの傍らには、母親らしい女性が座っている。
鏡堂は自分たちの身分を名乗り、医師の許可は得ているので、出来れば事件の事情を聴かせて欲しい旨を丁寧に伝えた。
母親は最初きょとんとした表情をしていたが、彼の横に控えた天宮を見て安心したのか、娘さえよければと答える。
娘の裕子も、最初は長身の鏡堂に少し怯えた様子だったが、天宮が笑顔を向けると安心したように頷いた。
――俺一人だと、こうは行かなかっただろうな。
親子の反応を見て、鏡堂は苦笑せざるを得なかった。
「それ程時間は取らせませんから、心配しないで下さい。
もし途中で気分が悪くなったりしたら、言って下さい。
すぐに聴き取りは中止しますから」
鏡堂が極力穏やかな口調で言うと、裕子はコクリと頷いて彼を見上げた。
「まず、今日君に怪我をさせたのは、同級生の
彼の問いに頷いた裕子は、必死の表情を浮かべて訊き返す。
「良美は、槇原さんはどうなったんですか?」
それに答えようとする天宮を手で制して、鏡堂は答えた。
「彼女は病院に運ばれたんだけど、その後のことは分からないだよ」
答えを曖昧にしたのは、今の状態で事実を聞くことは、裕子にとってショックが大き過ぎるだろうという、彼なりの配慮だった。
頷いた彼女に向かって、鏡堂は質問を続けた。
「今日君が学校に着いて、教室に向かう途中で槇原さんに怪我を負わされたんだね?」
裕子は無言で肯いた。
「その時槇原さんの様子はどうだったかな?
普段と違っているところはなかった?」
すると裕子は、堰が切れたように話し始めた。
「良美は凄くおかしかったんです。
朝廊下で逢った時に、私が手を振っても反応がなくて。
いつもはそんな風じゃなかったのに。
昨日二人でカラオケにいった時も、すごいテンション高くて。
いつもより元気があったくらいなんです。
でも今朝は全然元気がない感じで。
私の方に近づいて来る時も、何かフラフラした感じで。
よく分からないことを、ブツブツ呟いてたんです」
「槇原さんは何か呟いてたの?
どんなことを呟いてたか、憶えてるかな?」
鏡堂の問いに、裕子は少し首傾げて考え込んだ後、自信なさげに答える。
「はっきり憶えてないんですけど、『ことは』とか『きょう』とか言ってたような気がします…」
それを聞いた天宮が、横から口を挟んだ。
「それはもしかして、『ことをなすはきょう』じゃなかった?」
すると裕子は勢いよく頷いた。
「そうです。そんなことを言ってました。
間違いないです」
その答えを聞いた鏡堂と天宮は顔を見合わせた。
関連性のない二つの事件が、その言葉で繋がったからだ。
上村親子は二人のその様子に、揃って怪訝な表情を浮かべる。
その時丁度看護師が、裕子の検温のために病室に顔を覗かせた。
それを機に鏡堂は聴き取りを終えることにして、上村親子に丁寧に礼を述べると、病室を後にする。
病院の長い廊下を歩きながら、鏡堂は深刻な表情を浮かべていた。
横を歩天宮も同様だった。
「鏡堂さん。西田伸之の事件と今回の事件との間に、何か関連があるんでしょうか?」
天宮は前をまっすぐ見て歩きながら、疑問を口にする。
「それはこれから調べてみないと分からんな。
犯人が同じ言葉を口にしていたというだけではな」
彼の答えは慎重だった。
「でも、『ことをなすはきょう』なんて言葉は、滅多に口にしませんよね。
それを違う事件の犯人が口にしていたということは、何らかの関連性があると思うのですが」
「それは否定しないが、今の段階では予断を持たない方がいい」
そう言って口をきつく結んだ鏡堂の胸中には、事態がこのままでは収まらないのではないかという、漠然とした予感が満ちていたのだ。
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