第2章:どんたく祭りデビュー

 5月3日、博多の街は熱気に包まれていた。博多どんたく港まつりの開催日、瑠璃と葵は早朝から準備に追われていた。


 博多どんたく港まつりの準備が始まった頃、葵は山笠の曳き手として参加したいという強い思いを抱いていた。しかし、伝統的に山笠の曳き手は男性に限られており、女性の参加は認められていなかった。


 葵はこの壁に直面し、一時は諦めかけた。しかし、瑠璃の励ましもあり、地元の山笠保存会に相談することにした。最初の反応は予想通り否定的なものだった。


「申し訳ないが、山笠は男衆の祭りなんだ。伝統を守らんといかん」と保存会の年配の役員は言った。


 梅雨の季節、湿気を含んだ空気が博多の街を包む中、葵は毎日のように山笠保存会を訪れていた。彼女の姿は、保存会の古い木造の建物の前で、雨に濡れながらも凛として立つ姿が目立っていた。


「お願いします。今日も私の思いを聞いていただけませんか」


 葵の声には、疲れの色は見えず、むしろ日に日に強さを増していた。


 保存会の年配の役員たちは、最初のうちは冷ややかな態度を崩さなかった。「何度も言うが、山笠は男衆の祭りだ。女性が参加するなど、前例がない」と、彼らは繰り返した。

 しかし、葵は諦めなかった。雨の日も、風の強い日も、彼女は保存会の前に立ち続けた。時には何時間も待たされることもあったが、葵の決意は揺るがなかった。


「私は博多の文化を心から尊重しています」葵は、機会があるたびに熱心に訴えた。「だからこそ、この伝統に触れたいんです。山笠の精神、その歴史、そして地域の絆。それらを肌で感じ、理解したいんです」


 葵の真摯な態度と熱意は、少しずつ保存会のメンバーの心を動かし始めた。ある日、年配の役員の一人が葵に尋ねた。


「なぜそこまでして山笠に参加したいのか」


 葵は真剣な眼差しで答えた。


「博多に来て、この街の魅力に惹かれました。山笠は博多の魂そのもの。私もその一部になりたいんです。性別に関係なく、この伝統を守り、次の世代に伝えていく。それが私の夢です」


 その言葉に、役員たちの表情が少し和らいだ。葵の熱意は、彼らの頑なな心を少しずつ溶かしていった。


 日々の訪問を重ねる中で、葵は山笠の歴史や意義についても深く学んでいった。彼女は保存会の資料を熱心に読み込み、質問を重ね、自分の理解を深めていった。その姿勢に、保存会のメンバーたちも次第に感心し始めた。


「あの娘さん、本当に真剣じゃのう」

「山笠のことを、私たち以上に勉強しているようじゃ」


 そんな声が、保存会の中でも聞かれるようになっていった。


 葵の熱意は、若い世代の保存会メンバーにも影響を与え始めた。彼らの中には、伝統を守りつつも新しい風を入れることの必要性を感じ始める者も現れた。


「私たちも、葵さんの思いをもっと聞いてみるべきではないでしょうか」


 若手の役員が会議で発言した。


「彼女の熱意は、山笠の精神そのものではないでしょうか」


 葵の粘り強い努力は、少しずつではあるが、確実に保存会の中に変化をもたらしていった。彼女の姿は、伝統と革新のはざまで、新たな可能性を模索する博多の姿そのものだったのかもしれない。


 葵の真摯な態度に、少しずつ保存会のメンバーの心も動き始めた。特に、若手の役員たちが葵の意見に耳を傾け始めた。


「確かに、時代の変化に合わせて伝統も少しずつ変わっていく必要があるかもしれん」と、一人の若手役員が発言した。


 議論は数週間に及んだ。その間、葵は山笠の歴史や意義について深く学び、自分の思いをより説得力のある形で伝えられるようになった。瑠璃も裏方として葵をサポートし、地域の女性たちの声を集めて保存会に届けた。


 転機となったのは、ある古老の発言だった。「かつて、戦時中に男手が足りなくなった時、という話を聞いたことがある。伝統とは守るだけでなく、時に新しい風を入れることも大切かもしれん」


 この言葉をきっかけに、保存会の中でも意見が分かれ始めた。激論の末、最終的に一つの妥協案が提示された。


「今年の山笠で、試験的に女性の参加を認めよう。ただし、あくまで特例として、葵さん一人に限る」


 この決定は、博多の伝統行事に小さいながらも大きな一歩をもたらした。葵は、この機会の重要性を深く認識し、男性以上に厳しい練習に励んだ。彼女の姿に感銘を受けた地域の人々も、少しずつ応援の声を上げ始めた。


 梅雨明け間近の蒸し暑い7月、博多の街は山笠への準備で活気に満ちていた。葵は毎晩、仕事帰りに山笠の練習場へと足を運んでいた。


 練習場に到着すると、すでに多くの男衆たちが集まっていた。葵は唯一の女性として少し気後れしながらも、背筋を伸ばして仲間たちの中に加わった。


「よし、今日も頑張るばい!」


 棟梁の掛け声とともに、練習が始まる。


 葵は必死に棒を握り、他の男衆たちと息を合わせて山笠を持ち上げる。その重さは想像以上で、最初の頃は数分と持たなかった。しかし、日々の練習を重ねるうちに、少しずつ持久力がついてきた。


「葵さん、腰を低く! そう、その調子!」


 先輩たちの指導を受けながら、葵は汗を滝のように流しつつ、必死に動きを習得していく。


 練習が終わる頃には、葵の手には豆ができ、体中が筋肉痛で悲鳴を上げていた。それでも、彼女の目は毎日少しずつ輝きを増していった。


 一方、瑠璃は地域の公民館で、他の女性たちと共に山笠の装飾用の衣装作りに励んでいた。細やかな刺繍を施す作業は根気のいる仕事だったが、瑠璃はその繊細な作業に没頭していた。


「瑠璃さん、あなたの刺繍はほんと綺麗ね」


 年配の女性が瑠璃の仕事ぶりを褒めた。


「ありがとうございます。でも、まだまだ皆さんには及びません」


 瑠璃は照れくさそうに答えた。


 瑠璃の手元では、金糸と赤い糸が織りなす華やかな模様が少しずつ形になっていく。時折、指に針が刺さることもあったが、それも厭わず作業を続けた。


 夜遅く、葵と瑠璃が自宅で再会する頃には、二人とも疲れきっていた。しかし、その表情には充実感が溢れていた。


「ねえ葵、今日はどうだった?」瑠璃が優しく尋ねる。


「うん、少しずつだけど上達してるよ。瑠璃の方は?」


「私も頑張ったわ。衣装がどんどん綺麗になっていくの、本当に嬉しいの」


 二人は互いの頑張りを讃え合い、明日への意欲を新たにしていった。博多の伝統に深く関わることで、二人の絆もまた、着実に深まっていったのだった。



 祭りが始まると、街は一気に活気づいた。山笠が動き出す瞬間、葵は緊張と興奮で体が震えるのを感じた。


「せーの!」掛け声と共に、葵は全身の力を振り絞って山笠を曳いた。


 沿道では、瑠璃が熱い声援を送っていた。「頑張って、葵!」


 山笠が通り過ぎた後、瑠璃は地元の人々と交流を深めていった。お年寄りから祭りの由来を聞いたり、子供たちと一緒に踊ったりしながら、博多の温かさを肌で感じていく。


 夜になり、疲れきった二人が帰宅した。汗と興奮で顔を赤らめた葵を見て、瑠璃は思わず微笑んだ。


「葵、今日は本当にかっこよかったわ」


 葵は照れくさそうに頭をかく。「ありがとう。瑠璃の声援のおかげだよ」


 二人は静かに見つめ合い、そっと唇を重ねた。優しいキスの後、葵が囁いた。


「瑠璃、この街で良かったね」


 瑠璃は頷いた。「うん、私たちの新しい家になりそう」


 この瞬間、二人は博多での生活に少しずつ馴染んでいく自分たちを実感した。窓の外では、祭りの余韻が街全体を包み込んでいた。

翌朝、二人は祭りの余韻に浸りながら、ゆっくりと目覚めた。瑠璃がキッチンでコーヒーを入れていると、葵が後ろから抱きしめてきた。


「おはよう、瑠璃」葵の声は甘く、昨日の疲れが癒えたことを感じさせた。


「おはよう、葵」瑠璃は葵の腕の中で身を翻し、優しく微笑んだ。


 朝食を取りながら、二人は昨日の祭りについて語り合った。葵は山笠を曳いた時の高揚感を、瑠璃は地元の人々との交流で感じた温かさを、互いに熱心に話した。


「ねえ葵、私たち、本当に博多に来て良かったわね」瑠璃が感慨深げに言った。


 葵は頷きながら、「うん、でも最初は不安だったよね」と答えた。


 その言葉に、二人は同時に目を見合わせた。博多に引っ越してきた当初の不安と期待が、まるで昨日のことのように蘇ってきた。


「覚えてる? 舞鶴公園で見た桜」瑠璃が懐かしそうに言った。


「もちろん」葵は優しく微笑んだ。「あの時、老夫婦に出会って、博多の歴史を教えてもらったんだよね」


 二人は当時の思い出に浸りながら、自分たちがいかに成長したかを実感した。最初は知らない土地での生活に戸惑いを感じていたが、今では博多の文化や人々の温かさに包まれ、この街を本当の意味で「家」と呼べるようになっていた。


「私たち、ここで本当に幸せになれそう」瑠璃がつぶやいた。


 葵は瑠璃の手を取り、「うん、一緒ならどこでも幸せだけど、ここは特別だね」と答えた。


 二人は静かに見つめ合い、そっと唇を重ねた。朝の柔らかな光の中で交わされたそのキスは、これまで以上に愛情に満ちていた。博多での新生活が、二人の絆をさらに深めていることを感じさせるものだった。


 窓の外では、祭りの後片付けをする人々の声が聞こえてきた。瑠璃と葵は、これからもこの街で多くの思い出を作っていくのだろうと、胸を躍らせた。


 そして、これからの日々への期待を胸に、二人は新たな一日を迎える準備を始めた。博多での生活は、まだ始まったばかり。これからどんな素晴らしい経験が待っているのか、二人は想像を膨らませながら、互いの手をしっかりと握り締めた。

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