第3章:水炊きの夕べ
梅雨の季節を迎えた博多。瑠璃と葵の新生活にも、少しずつ日常のリズムが生まれていた。ある日、瑠璃が近所の食堂で働く山田さんという女性から、博多の名物料理である水炊きの作り方を教わることになった。
「葵、一緒に挑戦してみない?」瑠璃が提案すると、葵は目を輝かせて頷いた。
二人で市場に出かけ、新鮮な鶏肉や野菜を吟味しながら買い込んだ。帰り道、瑠璃は葵の腕に寄り添いながら歩いた。
「ねえ、葵。私たち、こうして一緒に料理を作るのって初めてじゃない?」
葵は優しく微笑んだ。「そうだね。何もかもが初めての経験だけど、瑠璃と一緒だから楽しいよ」
その言葉に、瑠璃の胸が温かくなった。
家に戻ると、二人は早速調理に取り掛かった。瑠璃が丁寧に野菜を切り、葵が鍋に水を張る。山田さんから教わった通り、鶏ガラでだしを取ることから始めた。
「葵、このだしの香りがすごくいいわ」瑠璃が鍋の上からいい匂いを嗅ぎ取った。
「うん、本当だ。博多の味って感じがするね」葵も同意した。
二人で協力しながら、ゆっくりと具材を加えていく。部屋中に水炊きの香りが広がり、二人の期待も高まっていった。
出来上がりを確認するため、山田さんを招待することにした。玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると、そこには山田さんの姿があった。
「いい匂いですね」山田さんが笑顔で言った。
三人で食卓を囲み、瑠璃と葵が作った水炊きを味わう。山田さんは一口食べると、目を丸くした。
「素晴らしいわ! 本当に美味しい水炊きですよ」
瑠璃と葵は喜びで顔を見合わせた。その瞬間、突然玄関のチャイムが鳴った。
驚いて葵がドアを開けると、そこには葵の両親が立っていた。
「え、お父さん、お母さん? どうして?」葵は驚きを隠せない様子だった。
「サプライズよ。二人の新生活が気になって」
母・京子が優しく微笑んだ。
瑠璃も驚きながらも、温かく二人を迎え入れた。思いがけない来客に、部屋の中は一気に賑やかになった。
水炊きを囲みながら、瑠璃と葵は博多での新生活の様子を両親に伝えた。祭りのこと、近所の人々との交流、そして二人の関係がますます深まっていることを。
両親は二人の話を聞きながら、安心したような、誇らしげな表情を浮かべていた。
「二人とも、本当に成長したのね」
京子は感無量にそう言った。
葵の母・京子は、娘・葵から瑠璃との関係を打ち明けられた日のことを、今でも鮮明に覚えている。あれは葵が大学2年生の夏休み、帰省した際のことだった。
「お母さん、お父さん、お話があります」
その日の夕食後、葵は緊張した面持ちで切り出した。
京子は何となく予感めいたものを感じていた。
「私には好きな人がいます。その人は……瑠璃という女性です」
葵の言葉に、一瞬、家族の間に静寂が訪れた。京子は動揺を隠せず、夫の顔を見た。夫も困惑した表情を浮かべていた。
最初の数日間、京子は眠れない夜を過ごした。娘の幸せを願う気持ちと、社会の目を気にする不安が交錯した。「このまま認めてしまって良いのだろうか」「娘は幸せになれるのだろうか」そんな思いが京子の胸中を駆け巡った。
しかし、葵の真剣な眼差しと、瑠璃との関係を大切にする姿勢に、京子は少しずつ心を開いていった。葵が瑠璃との思い出や、将来の夢を語る姿は、いつも光り輝いていた。
転機となったのは、瑠璃が初めて我が家を訪れた日だった。緊張しながらも、礼儀正しく、そして誠実に語る瑠璃の姿に、京子は心を打たれた。瑠璃の目には、葵への深い愛情が宿っていた。
「お母さま、私は葵さんを心から愛しています。そして、尊重しています。二人で支え合いながら、幸せな人生を歩んでいきたいんです」
瑠璃のその言葉に、京子の心の中の何かが溶けていくのを感じた。
それ以降、京子は葵と瑠璃の関係をより深く理解しようと努めた。LGBT関連の本を読んだり、同じような境遇の親たちの話を聞いたりした。そして何より、葵と瑠璃が互いを大切にし、成長し合う姿を見守った。
時には周囲の目を気にして落ち込むこともあった。親戚や近所の人々の何気ない言葉に傷つくこともあった。しかし、そのたびに葵と瑠璃の幸せそうな笑顔を思い出し、勇気づけられた。
「お母さん、ありがとう。理解してくれて」
ある日、葵がそう言って京子を抱きしめた時、全てが報われた気がした。
今では、京子は葵と瑠璃の関係を誇りに思っている。二人が互いを思いやり、支え合う姿は、まさに理想の関係だと感じている。
「あれからもう5年以上経つんだねぇ……」
京子はしみじみとした表情で言った。
夜が更けていく中、部屋は温かな雰囲気に包まれていた。瑠璃と葵は、この突然の訪問が、新たな絆を深める機会となったことを感じていた。
両親と山田さんを見送った後、二人は静かに見つめ合い、そっと唇を重ねた。その優しいキスには、これまで以上の愛情と感謝の気持ちが込められていた。
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