第49話 教主と聖者

「猊下、シノレに薬を盛っていたというのは本当なのですか?」


帰還して開口一番そう言った聖者を前に、浮かべていた教主の微笑は消えた。


「……よくお戻り下さいました、聖者様。

ご無事のご帰還、何よりです。

少々荒事に巻き込まれたと聞きましたが、見たところお怪我も無いようで結構なことです」

「猊下。本当、なのですか。

本当に、シノレにそのような」

「…………ええ、その通りですよ」


肯定するその顔は、依然笑みの消えたままだ。

対峙する聖者もそれに顔を強張らせた。


聖者は実のところ、何も知らなかった。

薬について糾弾された時、さも知っていたかのように振る舞ったが、実際は寝耳に水だった。

シノレを迎えたばかりの頃から、聖者に隠してそうした措置を取っていたと、告げられたその事実に、表にこそ出さなかったが内心心胆の凍る思いを味わった。


この人は、そこまで。

戦慄く唇から如何にも弱々しい声が、意味のない問いが零れ落ちる。


「何故、なのですか……」

「………………何故?ご自分が一番お分かりなのでは?」

「――――……」


そう聞き返す教主が、あくまでも柔らかな声のままで、どんな顔をしているのか。

どんな目をこちらへ向けているのか。

とてもではないが確認などできず、聖者は目を閉じる。

分かっていた。

聖都で、まして大神殿の施設内で行われていたことに、教主が関与していないはずがない。

それでも否定して欲しかったと、鉛を呑んだように胸が重くなる。

聖者は暫し黙り込み、やがて絞り出すように言う。


「私のことが、そうもお気に召さないのなら、どうぞ何処なりと放逐なさって下さいませ。

どの道、この上シノレと離れて暮らすわけには参りません」

「はは、今はそういう話はしていませんよ。

……そのようなこと、できるはずがないでしょう。

貴女は先代が認めた神の福音なのですよ?

聖都から出そうものなら、後々どのような災禍に見舞われることか。

危なくて、とてもとても」


尤もらしい言葉が、忍ばされた別の意図を持って聖者の耳に響く。

不可視の石礫のような言葉に、聖者は立っているのがやっとだった。

畏れと絶望で、眼の前が暗くなっていく心地がする。


(やはり、この御方は、気付いておられる。

私を蔑み、憎んでおられる――……)


薄々感じていたことだが、いざ言い渡されると酷い衝撃で、そしてそう感じたことも嫌だった。

元からそんな資格はないのだから。

そうと分かっているのに、勝手に呼吸が浅くなる。

この美しい人に、生殺与奪を握られているのだということを、改めて突きつけられる。


今まで何事もなく聖都に留められてきたのは、その気になればいつでも殺せるからなのだろう。

そして、この身が宿す利用価値のためだ。

己の正体を覆い隠す、浅はかな鍍金のためだ。

この絢爛な聖都の最も奥深くで息を殺して飼い殺され、封じられ、彼女の五年はそういうものだった。


「私からも聞きたいことがあります。

本当にシノレに命じたのですか?

聖都を出たい、などと」


いつの間にか、直ぐ側まで相手が来ていた。

白銀の法衣に焚きしめられた香が、常に大神殿に満ちているそれが、強く迫るように広がってくる。

覗き込む紫の、黒に近いほど深いその色合いに呑み込まれそうだ。

なけなしの気力を奮い起こす。


「その通りです。お咎めは全て私に。

シノレのことはお許し下さい。

……私は早晩山を下り、シノレの傍で暮らします。

シノレに危険が迫れば、誰より近くでそれを分かち合うために。

……私には、そうする責任があるのです」


譲らぬ聖者に教主はいよいよ表情を消した。

無機質な白い顔の中、目の色だけが鋭く冷えていく。

それは彼にしては感情的な、日頃相対する教徒たちには決して見せることのない顔だった。

けれど、聖者はもう何度も見覚えがあった。

先代教主が時折見せていた顔に――敵を見る目に酷似している。

半年前、シノレを迎えようとした時にも向けられた目だった。


「……それに答える前に。

今こそ教えて下さいませんか。

何故そこまで彼に固執するのです。

彼にしたって良い迷惑だったのではありませんか?

こんな教徒しかいない聖都中枢に連れ込まれ、縛られ……

ああだから、脱走に使うためにお選びになったのですか?」

「それ、は」


言葉が出ない。

違う。違うのだ。

逃げるための道具ではない。

少なくともあの瞬間あの場では、シノレ以外にあり得なかった。


見つけた時は無我夢中だった。

底知れない恐怖と苦悶の日々の果てに見出した鍵だった。

聖者からすれば、シノレを手放すなどあり得なかった。


けれどそれで人一人の人生を歪めたのだという実感が、愚かにも足りていなかった。

教団に囲われ取り込まれる不安は知っていたのに、同じ境遇のシノレに心を配ろうとしなかった。

だからこんなことになったのだ。

己の我欲で奪ったものの大きさを、あの道行きで糾弾されるまで気付かなかった。

それを思い知らすことを、新たに枷をつけることを、この人は望んでいたのだろうか。

一体何処から何処までが、教主の術中だったのだろう。

恐怖のあまり思考が回らず、気が遠くなりかけた時、新たな声が割って入った。


「猊下。恐れながら私も、シノレを脅かすことは得策ではないと存じます」


口を挟んだのはベルダットだった。

いつの間にか来ていたようで、戸口から歩み寄ってくる。

通り過ぎ様に小声で遅参を詫びる声がした。

彼は諸々で汚れた法衣を替え、いつも通りの綺麗な身なりに戻っている。

連鎖的に膝をつかせた時のことを思い出し、じわりとさらなる罪悪感が込み上げる。


(本来私は、私こそが。

全ての教徒に、人々に、平伏して詫びねばならない身の上だというのに…………)


「……ベルダット。もう疲れは取れたのですか」

「はい。猊下の格別のご配慮、痛み入ります。

……話を戻しますが猊下、聖者様がこう仰る以上、シノレは聖者様とともにあるべきなのでしょう。

かといって、やはり危うい者を猊下の懐深くに招くわけにはいきません。

多少混乱は起きましょうが、ここはやはり聖者様に山をお下り頂くことが最善かと愚考します」

「…………」


それを聞いた教主は僅かに、物憂げに表情を曇らせた。

いつの間にか縮まった距離は離れていたが、浅くなった聖者の呼吸は中々元に戻らない。


「何処の馬の骨とも知れぬ者を、首輪もなしに出歩かせろと?

ただでさえ、一介の奴隷がこの聖都に在ることに反発する声は多いというのに」

「それも致し方ないでしょう。

聖者様がこのご様子では。

……もしも、それで今後シノレが教団に害を及ぼすようなことになれば、その時は私が責任を負います。

如何様にも罰して下さって構いません」


「ベルダット様、そのような……!

もうお止め下さい、貴方様がそこまでなさる必要はありません!

……猊下、全ては私の我儘なのです。

お許しを頂ければいつでも聖都を去ります。

私は、シノレと離れるわけにはいかないのです。

……この通り、お願い致します」


深々と頭を下げる。

そんな聖者を一瞥し、同じく頭を下げる腹心に目を戻し、教主はため息をついた。


「…………まあ、今更ですね。

是非もない。

しかし、聖者様が山から下りることは認めません。

それくらいならシノレの方を上がらせます」

「……な……猊下、それは流石に……!」

「もう決めたことです。

何か問題があるようならば、その時にまた考えましょう。

時に聖者様、リゼルドと会ったそうですね。

どうでしたか、まともに話をしたことは無かったでしょう?」


教主は腹心の声に、もう耳を貸そうとはしなかった。

その目はただ聖者だけを見つめている。


「あの通り見目だけは優しげですが、何かと物騒な暴れ馬のような者でして。

あれが戻ったからには、近々この聖都に一波乱起きることでしょう。

……どう立ち回ってくれるのか、楽しみにしていますよ」


そう告げる教主の顔はいつしか、いつも通りの完璧な笑みを湛えていた。


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