第46話 戦闘狂

冷えた朝の気配が体を掠め、馬車の中でふっと意識が覚醒した。

一度瞬いただけのつもりだったのに、次に目を開いた時には、もう辺りは明るかった。

廃墟特有の、何処か錆びついた匂いのする空気は、しんと静かで冷たい。


「……そうだ、あれから」


あれからぐるぐると考えながら走ったものの、結局日が沈む前には馬車を止めた。

流石に二日続けて夜通し駆けるのは危ない。

通りがかった適当な廃墟に寄せて馬車を止め、休むことにしたのだった。


(少し回り道はしたけど、大分地境に近付いたはず。

これからどうするか……)


一日かけて距離も置けたし、聖者と面と向かうという目的は達した。

目立つ上に速度も落ちるので、そろそろ馬車を捨てるべきだろう。

問題は、聖者をどうするかだが。


馬車の外や辺りの適当な突起に吊るしておいた、魔獣除けの独特の香が鼻を突く。

シノレの体には、血の痕跡が綺麗に消えた白の上着がかけられていた。

そして向かいにあるはずの、聖者の姿が無かった。


「…………っ、何処へ?」


外から何か、諍うような物音が聞こえる。

堪らず飛び出すと、朝霧の向こうから何人かの影が駆けてきた。

一直線にこちらに向かってくる人影は、何かに気づいたように足を止めた。

瓦礫の影に腕を入れ、何かを掴みだそうとしているようだ。


「……っ……あ……」

「……馬鹿っ!そんなところで何して……!」

「――――……!」

「――は……?」


思わず叫んでいた。

小柄な影が瓦礫から引き摺り出される。

現れた聖者の姿に、男たちは呼吸も忘れ愕然としたようだった。

ありふれた身なりでも、疲労が拭えずとも、聖者はやはり美しかった。

正しく神の寵を宿していると、直感的に感じさせられる美貌。

突如激しい光に照らされたかのような、不可解な心の震えに、男たちの動きは静止する。


暴力と脅迫しか存在し得ないはずの場所と時間に空白が生まれる。

そんな中で聖者が肩を揺らしながら立ち上がり、ふらつきながらも身を捩って逃れようとした。

その拍子に我に返った男たちは、慌てて聖者を抑えつけるように拘束した。


「何、だ。こいつ……お、おい、大人しくしろ」

「良家の女、か……?

使徒家ではない、だろうが。

……丁度良い、良い人質になる」

「……おい!あそこに馬車があるぞ」


そこで、シノレの存在にも気づかれた。男たちは油断なく辺りを警戒しながら、声をかけてくる。

どうやら従者か何かと思われたらしく、これ見よがしに羽交い締めにした聖者を突き出し近付いてくる。

段々はっきりと見えてくる。襤褸を纏った六人の男だった。

窶れているが体格は良く、取るに足りないと無視できないだけの力が残っていると分かる。

足取りを見るに、恐らく素人でもない。


「――そこのお前、主人の命が惜しければ、言うことを聞け……!!」

「そう、その馬車だ。

馬車を寄越せ!お、お前もこっちへ来い、お前たちを人質に脱出する!」

「…………」

「…………っ、……は……」


脅迫し、主導権を握る側でありながらも、男たちは何処か怯えたような、及び腰の態度だった。

特に聖者を抑えつける男の顔には大量の汗が滲み、畏怖すら浮かんでいる。

正直気持ちはとてもよく分かる。

シノレも一昨日経験したことだが、この聖者に刃を押し当てるのは、上手く言い表せないがとてもしんどい。

心身に謎の負荷がかかるのだ。

気を抜けば石塊にでもされそうな、時間も空間も越えた何処かから何かに睨まれているような、あの感覚は体験した者にしか分からないだろう。

まして傷一つでもつけようものなら、その瞬間神罰で息絶えそうな心地さえする。

シノレの場合、聖者は妙に従順で協力的でさえあったので、そこまで脅す必要はなかったが。


その聖者自身はされるがまま、人形のように動かない。

俯きがちに、懇願も命令も、何も口にしようとはしない。

丁度良い、このまま一人で逃げるべきだと、頭ではそう思うのに。

シノレはただ、息を呑んだ。

立ち竦んだのはほんの数秒、そしてその数秒で全てが変わった。


時の止まったような空間に不意に、ひゅるりと何かの音が響いた。

細く、風の唸るような音が鳴り、二人が叫び声を上げて倒れ伏す。

その体には矢が突き刺さっていた。咄嗟にシノレは身を伏せた。


「ぎゃあっ!!」

「ぐう……っ!」

「……っこれは……!」


狙撃されている。北の方からだ。

続いて響いたその音と、先程垣間見た矢の様が、弩のそれだと気づく。

それと同時に首に手がかかり、体を引き寄せられた。

腰に挿していた短剣が抜き取られる。

駆け寄ってきてシノレを掴んだ男は、即座にそちらに体を向け、泡を飛ばして喚き立てた。


「武器を捨てろ、さもなくばこいつらを殺す!!

近づくな、近づくな、近づくなあああぁっ!!」

「…………これは思わぬ拾い物」

「ああ。奴隷を追っていたら、尋ね人に行き着いたようだ」


直接的な命の危機に晒され、もう聖者への畏怖どころではないようだった。

決死といった様子の脅迫に返ってきたのは、虚しくなるほど涼しげな声だった。

どうやら、この男たちは逃亡奴隷であるらしい。

ならば追手は間違いなく教徒であろうと思い至り、血の気が引くのを感じた。


「こ、こいつの命が惜しければ近寄るな!

その弓を捨てろおっ!!」


生き残りの男たちも、聖者を引き摺りながら近付いてくる。

死んだのか、狙撃された二人は動けない様子だ。

馬車の周囲を固めるように集まったのは三人だった。

馬車を背にするような体勢で、男たちはシノレと聖者を盾にするように突き出す。

シノレは抜身の短剣を、聖者は地面から拾った鏃を首に突きつけられた。

差し迫った命の危機に晒された男たちに、最早聖者への畏怖だのは通用しないようだ。

そんな実体のないものに惑わされていては生き残れない局面となっていた。


「…………」

それに暫し、沈黙が落ちた。

前方に大きな影が、武装して馬に乗った四人の男が聳えている。

馬に乗り弩を構えていた男たちは、それでも一度腕を降ろし後ろを振り返った。奥にもう一人いるようだ。


「当主様、どうやら当たりのようです。

銀髪の少年と馬車が一台、報せにあった情報とも合致します。

間違いはないかと」

「あ、レイノス様から報せがあったやつね。

どれどれ、見せて」


追手たちが二手に分かれ、その奥から同じく騎乗した影が進み出た。

追手が乗っている中でも特に体格に優れ、見栄えの良い青毛の馬だ。

その上の、黒い外套を着込んだ幼気な少年と、地面のシノレの視線とが急角度で交わる。

その瞬間、問答無用の危機感に産毛が逆立った。

次いで少年は聖者に目を移し、次の瞬間禍々しいほどの笑声を弾けさせた。


「……あっはははは、ほんとに聖者様だ!!

ってことはそれが勇者だよね、はじめまして!!」


絶え間ない笑い声に、辺りが薄暗く陰り、空気が濁ったように感じた。

故郷で時折見かけた、屍肉を貪る鴉を思い出した。

過去の堆積から、独りでに師の声が蘇ってくる。


『おいシノレ、あそこに徒党を組んで争っとる奴らがいるじゃろ。

あの三人が殺し合えば誰が真っ先に死ぬと思う?』

『左の奴?うむ、確かに動きは単純で粗いのう。

戦略に工夫を凝らせば貴様でも良いところまではいけよう。だが、あの目を見ろ』

『暴力沙汰が楽しくて、好きで堪らんという顔をしとるじゃろうが。

ここまで臭ってくる。ああいうのは逆境に陥るほど強い』

『学問も指南も交渉も――戦闘も拷問も。

好き好んで精励する人間に、そうでない者はどうあっても敵わぬものじゃ』

『貴様も、その足りん頭によく叩き込んでおけ。

あの目をした人間に付け狙われたらさっさと逃げろ。

もしくは腹を曝け出し全面降伏じゃな。

億分の一ほどの確率で命を拾えるかも知れん――

ああ丁度良い、今から分数を教授してやろう……』


(師匠ごめん、死んだわこれ。

……いや、現実逃避している場合じゃない)


笑みに歪んではいても、その小さな顔に刻まれた目鼻立ちは至って優しげであり、奇妙な既視感すら感じさせるものだった。

その顔を取り巻く長い黒髪が、翻って朝の風に流れる。

幼さを色濃く残すその風貌だけを評するなら、一見少女のようにさえ見える。

それなのに。


「……っくく、ふ、はあ、

……あー、こんな偶然あるんだなあ

……さて、どうしよう。

久々にレイノス様に褒められるのかなあ、でもそんなのより血と中身が見たいなあ。

休戦してからというもの退屈で退屈で、奴隷や魔獣で紛らわすにも限度があるし」


それなのに、見ているだけで怖気が奔る。

佇まい全体から、異様な、鬼気迫るようなものを感じる。

叩き潰された臓物や血の匂いが奔流となって、ここまで押し寄せてくるようだ。


”そういう”目をした人間を、あれから何度も見かけた。

その大多数は薬に溺れ切っていた。

命の奪い合いに耽溺し、あまつさえ敗者を甚振り血を絞り出すことに喜びを感じる手合の目だ。

あの凄絶な弱肉強食の世界で、人を支配し搾取する側に立つ者の目だ。

逆らえば殺される、どころか、死ぬより酷い目に遭わされると、本能的に感じさせられる。


(禄に言葉が通じそうにもない。

狂気的な、剥き出しの……こんな露骨な恐嚇、まるきり楽団の戦闘狂じゃないか。

本当に教徒かよ)


僅かでも目を離せば頭と体が両断されそうだった。

張り詰めたシノレの視線を受け止めた少年はますます顔を綻ばせ、控える男の一人に向けて首を巡らす。

何処か正気の欠けたような、調子外れの歌声のような、場違いなほど楽しげな声が流れてくる。


「ベルダット様がいるはずなのって、北西の辺りだよね。

……ここから駆けて四半刻も要らないくらい?」

「は。楽団領への牽制も兼ねて、ある程度の間合いを保って探索しておられるはずです。

もう少しでこちらにもいらっしゃるでしょう」

「だよね!」


笑みを深めた少年は、歌うような声で問いに答えた男に命じる。


「ラーデン。お前、第七隊のところへ行って、ベルダット様を足止めしておいて」

「っ!?当主様、それは幾ら何でも…………

いえ、承知致しました」


ラーデンと呼ばれた男は異を唱えようとするが、少年が不穏に目を眇めると、頭を下げて了承した。

そのまま馬首を巡らして走り出す。

四人の内一人が離脱し、その影は霧の奥へと遠ざかっていった。


そうしている間にも、背後の男の呼吸は荒ぶっていった。

怒りによる極度の興奮からか、体全体が大きく痙攣しているのが分かる。

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