第44話 混じり気なしの本心

聖者は只々、本気だった。

先程のシノレと同じように。

シノレが叩きつけたものと同様の、混じり気なしの本心が向けられている。

それは分かる。

だがその正体が何なのかが分からない。


「逃げたとて、今の世界に安息の地などありません。

全てから逃げ回り、襤褸のように朽ちることが本懐ですか。

それならば何処へなりとも行くがいい。

選びなさい。

逃げるならば今しかない。

あなたにあなたの掟があるように、私は、私の神を――……」


そこまで言って、聖者は不意に首でも絞められたように息を詰まらせた。

苦しげに顔を歪めながらも、ひたとシノレを見据えてくる。

煮え滾るような青い瞳。

魂の底を揺さぶるような、己の全てを明け渡しても惜しくないと思わせるような、圧倒的な輝き。

先代教主が生ける奇跡と称えたその目が、シノレを打ち据える。


「――この荒れ果てた世を救うため、私自身の決着をつけます。

どんな結果になろうとも。

着いてくるのならば、全てが終わった時に私の命を差し上げます!

だから、シノレ!」


そして絞り出された声は、不思議と強く高らかに響いた。


「私の勇者。私の鍵。

この私を、世界を憎むのなら、

――――私と来なさい!!」


この瞬間、聖者は聖像でも偶像でもなく、苛烈な感情に駆られるただの人間だった。

シノレはただただ、息を呑んだ。

目は瞬きも忘れて、釘付けられたように離れない。

呆然としていたのはどれだけの間だっただろう。

不意に、血塗れの短剣が音を立てて地面に落ちた。

肩で息をしていた聖者の体が傾ぎ、震えながら膝をつく。

同時に血の匂いが鼻に迫り、やっと我に返る。


「……とにかく、逃げるのが先だ!」


聖者を馬車に押し込み、再び御者台に登って興奮した馬を宥める。

とにかく、魔獣が出た以上は一刻も早くその場を離れるのが鉄則だ。

他の魔獣が寄ってくることが多いし、仲間の血で興奮する性質を持つ個体もいる。

更に寄り集まってきた場合、馬車一つにシノレ一人で何とかなるとは思えなかった。


やや騒がしい物音とともに再び馬車は走り出した。

あれきり死んだように黙り込んだ聖者から、それ以上何を聞き出すこともできず、結局それきり言葉を交わすことはなかった。

再出発してからはシノレも馬車の操縦で手一杯だ。

こんな重たいものを使って、追手がかかる危険も冒して連れ出したというのに、妙に消化不良である。

そろそろ馬だけ外して置いていくべきだろうか。


(どこか、適当なところで馬車ごと降ろしていくべきかな……

あれ以上は何も聞けなさそうだし。

結局訳が分からないってことだけは分かったし)


そう思いつつも、理性を引き止めるような、どこか鈍い躊躇いがある。

分かっている。気になっているのだ、あの聖者の言葉が。

その真意がどこにあるのかと、どうしても考えてしまうのだ。

これもまた、聖者が聖者である所以なのだとしたら恐ろしい限りである。


(勇者という言葉は、上辺だけの法螺でも出任せでもない。

少なくともあの聖者にとって、何らかの意味がある。

そして同時に、僕が何かの鍵だと……

比喩だろうけど、でも、何の?

この世を変えるって、何を、するつもり?)


ちかちかと、先程の光景が瞼に明滅する。

聖者は、何にああまで激したのだろう。

何故そうまでして、自分と行くことを望むのだろう。

それほどまでに求められたことが初めてで、それもシノレの動揺に拍車をかけていた。


「それに、助けられた。……でも、なあ」


シノレにとって、自分の命は最大の財であり価値であった。

それ以外何も持たない人生を送ってきた。

だからこそ、結果的に命の恩を受けた相手の、その願いを無下にするのが躊躇われる。

このまま別れて、この半年の全てに終止符を打つことに、二の足を踏むのだ。


かといって、あの聖者と二人旅ができるとも思えない。

目立ち過ぎるし教団も聖者を奪われたとなれば追ってくるだろう。

というかそもそもこんな逃亡、成功する目はかなり低いのだ。

逃げ出した時点で余命は秒読みであり、地境まで行けるかも怪しい。

自滅覚悟で飛び出したとはいえ、進んで死にたいわけではない。


結局、馬を駆って自分一人で逃げるのが最適解であるとは思う。

楽団に逃げ込めば流石に追って来るのは難しいだろう。

自分一人なら何とかなるだろうし、ならないならそれまでだ。

そうは思っていても、自ら手を汚し、血を浴びた聖者の姿を思うと胸がざわついた。

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