第41話 逃亡の理由

「………………」

向かいから、何も答えは帰ってこない。

聖者は教団において何ら実権がない。

流石にこんなことには関与していないだろうし、何とも答えようがないだろう。

ただ静かに、白い指が垂れ下がる頭巾を握った。その向こうから何かを考えるようにして、訥々と問いかけてくる。


「……それで、義憤に駆られて、ということですか?」

「そんな立派なものじゃないよ。何処でも良くあることなんだから、この程度」


そう答えるシノレを、聖者は少しの間探るように見つめていたが、やがて諦めたように息をついた。


「この逃亡が露見すればあのザーリアー、教育係の彼は詰め腹を切らされるでしょうね」

「ああ、そうだね。それは気の毒だと思うけど、承知の上だからね」


揺さぶりをかけるつもりなら意味がない。

その程度のこと、考えた上でやったのだ。

それほど思慮が浅いと思われているのなら心外である。


「……どうして、逃げようなどとするのですか」


沈んだ声でそう宣う聖者を、シノレは氷のような目で睨みつけた。


「食事に薬なんか盛っておいて何言ってるの?」


その切り返しに聖者はやや間を置いた後、「お気づきだったのですね」と認めた。


「あんたの指示?それともあの教主?」

「それは重要なことですか」


シノレはその言葉に首を傾け、暗く嗤った。


「言われてみればそうでもないね。どうでもいいことだ。誰の意図かなんて」


だが別に面白くも何とも無いと気付き、笑みを収める。そして、据わった目で宣言する。


「こんな風に逃げ出した理由は一つだよ。

お前たち狂人の言いなりになって、勇者とか訳の分からないものとして死ぬくらいなら、逃げて死んだ方がまだましだから」


そう、結局はそれだった。


最初から警戒はしていた。

あの過酷な楽団領から抜け出し、夢に見たことすらない豊かな環境に迎えられても、落差に戸惑うばかりだったし、勇者というのもよく分からなかった。

美味い話には裏がある。あの貧民街で生きた日々で、骨の髄まで染み付いた真理だ。

どんな風に暮らしても貧民街を生きた本能は残っていたのだろう。

数日もすれば、日常の端々に不自然さを感じるようになった。


最初の違和感は食事だ。

豊富で、豊潤で、凡そそれまでのシノレの食からかけ離れたそれに、嫌な馴染み深さを感じたことだった。


試しにこっそり食事を抜いてみたら、思考が混乱し、頭が疼くように痛んだ。

ある種の薬物は往々にして依存を引き起こす。

それをシノレは、あの貧民街の師に教わって知っていたし、奴隷時代に実際に摂取させられたこともある。

だから薬が盛られていると気付いた時、とんでもないことになったと思った。

元々耐性はついていたし、深刻な弊害を引き起こすほどのものではない。

だがそれで安心できるわけがない。

これは無言の脅迫だ。

お前などいつでもどのようにでも殺せるという、聖都の長からの通告だ。


だからシノレは、禄に言葉も交わしたことのないあの教主が苦手であった。

あちらもいきなり奴隷など聖都に入れることになって色々あるのだろうが、こんな迂遠な脅しをしてくる相手を、どうして信じられるだろう。

それでも、下手に反応して監視を刺激するわけにはいかない。

日々の鍛錬は目まぐるしく課されていく一方だ。


下手を打てば殺される場所、敵の中枢の只中から逃げることは難しい。

それならせめて少しでも保身を図った方が良いと、これまで諸々呑み込んで教団の秩序に従ってきた。

実際従順に教練に励むようになってから、取り巻く違和感は減っていった。

しかしそれももう限界だ。

この十日で嫌というほど思い知った。

この教団で勇者としての外面を保ち続けるのは、自分には不可能だと。

遠からず限界が来るとして、その時はどうなる。

不良品として処分されるのが関の山であろう。

狂人たちの理屈に自分を押し殺して従い、この得体の知れない聖者の妄言のために尽くし切ることを強いられ、その果てに待ち受ける末路がそれだというのは絶対に許容できない。

元奴隷の身とは言え、そんな馬鹿げたことに捧げるものなど何一つない。


(こんな狂人の巣窟で、狂信者どもにこれ以上付き合っていられるか!!!)


それがシノレの結論であり、そのために死ぬとしても已む無しと覚悟を決めたのである。

それに完全に自滅しかないというわけでもない。

今時薬物中毒者など珍しくもないのだ。

教団にある薬なら、楽団と医師団にも確実にあるし緩和措置も一応知れ渡っている。

まあそれよりも、失敗して死ぬ可能性の方が遥かに高くはあるが。

思うところを語ると「それは分かりました」と聖者が頷く。


「ですが、逃げるだけであれば、私を巻き込む必要はないはず。

寧ろ無駄に危険を大きくするだけでは?」

「何を言うかと思えば。

そしていつまでも何も言い出さないと思えば。

それが聞きたいの?……分からない?」


深く溜息をついた。……勇者だの何だのと、シノレに拘っているのは聖者だけだ。

シノレ一人だけなら逃亡しても見逃される望みはある。

それでもシノレは聖者を連れて逃げ出した。

目立つ上に足の遅い馬車まで使って。

その訳は、教団にもこの聖者にも、当てつけの一つでもしてやらないと気が済まないというのもあるが、最大の理由は。


「勇者。あんたがそう言い出したからこういうことになった。

逃げ出すにしても、その背景を知りたいと思うことはそんなに不自然?

……どうして僕を選んだわけ、聖者様」

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