第33話 聖者との再会
聖都シルバエルは、中央に佇む聖山の麓に広がる広大な都である。
外側に「市街」、つまり外壁と外側に向かった街が展開し、その内側には「大神殿」、教団の総本山たる神殿施設が広がっている。
その内側が「奥」、大神殿の中でも主要な施設や、使徒家がそれぞれの邸宅を構える地帯だ。
その更に奥、山を幾らか昇ってからが「座所」、即ち山頂の教祖ワーレンを祀る聖廟を含む、ワーレン家の領域だ。
それぞれの区域の間には門扉が聳え立ち、奥に行こうとするほど検閲は厳しくなる。
より内に、より高くなるほど聖域の意味合いを増していくという分かりやすい構造だ。
そして例え市街暮らしだとしても、ここに居場所を与えられるということ自体が、特別な教徒であることを示す。
とにかくそんな聖都でも、聖者が住まいを与えられているのは内も内の座所だ。
聖者は特例中の特例として、ワーレン家の邸宅の只中に居を構えることが許されていた。
そこは教主と会った館から程近い場所、ワーレン家所有の離れの一つである。
因みにシノレが住む信心の館は大神殿内部の施設の一つである。
風が冷たさを増す季節に、山の中は厚着をしなければ些か辛い。
葉を落とした木々の枝向こうには、透けるほど薄い雲の流れる青空が見える。
痛いほどに空気の澄む、冴えた朝だった。
朝一番の取次は、幸いすぐに通った。
教主もああ言っていたことだし、向こうも心構えをしていたのだろう。
シノレの方も、一晩かけて心の準備をしていた。
それでも、いざ現れた聖者の姿を目にして、シノレは呼吸を続けるのがやっとだった。
「滞り無く、ご無事の帰還をお慶び申し上げます、勇者殿」
「有難き御言葉でございます。全ては神のご加護と聖者様の恩愛によるものと心得ております」
シノレのお愛想に、聖者は静かに目を伏せることで応えた。
その表情からは、何の感情も見えてこない。
あらゆる俗を超越したような神々しさがあるだけだ。
白を基調とした装いは華麗かつ荘厳なもので、本来枢機卿にしか許されないものだ。
通常、これに袖を通せるのは使徒家のみとされている。
聖者などと聞くと、何かの奇跡を起こせるだとか、超常の力で特別な恩恵を与えられるだとか、そういう印象があるかもしれない。
だが、実際のところこの聖者には、そんな奇蹟の伝承などはなかった。
聖者はただただ美しい。それだけだ。
聖者がいる空間は、それだけで清められ、輝きを放っているかのように感じる。
神の遣わした者。天上から降りた奇跡。
そんな仰々しい美辞麗句も、この聖者を見てしまっては否定できない。
確かにこれには、何か人知を超越したものがあると、理屈抜きに感じさせられる。
教団に来るより前から聖者の噂は耳に入っていたが、聖者として教団に君臨するからには、老いた男だろうと思っていた。
そのため初対面の時は、正反対の人物像に驚いたものだ。
聖者は若い女性だった。まだ少女といっていいほどに若い。
だがその存在感は明らかに少女のそれではなく、もっと言えば人間らしさすら皆無だった。
見ているだけで胸が騒ぐ。半年前の衝撃と動揺が蘇りそうになる。
(そう、あの最悪の初対面。教団領での一日目、奴隷の道中に通りがかった聖者様のご尊顔……)
その時の、世界の全てが裏返るような衝撃は、今でもありありと思い出せる。
こんな存在が本当にいるのかと、いていいのかと――知ってしまっては以前の自分にはもう戻れないと、そう感じた。
シノレは物心ついてより、神を信じたことなど一度もなかった。
それでも感じた――いや、感じたなんて生易しいものではない。
そんなものを越えて、あれは最早屈服に近かった。
この世には何らかの超常的存在がいるのだと、頭で考えるよりも先に、心で認めさせられた。
大袈裟でなく、魂を震わす法悦すら他者に強いる、聖者の姿はそういうものだった。
そして聖者もまた、シノレを見て衝撃を受けたようだった。
雷に打たれたような様、とはああいうことを言うのだろう。
シノレを見て何故か立ち竦んだ聖者は、酷い衝撃を受けたらしく昏倒してしまい、周囲は俄に恐慌に陥りかけた。
数十秒ほどで意識を取り戻した聖者は、これまた何故か一介の奴隷であるシノレに対して異様な執心を示した。
『あの者です。あの者を私の元へ――彼しかいないのです、どうか!』
周りの制止も聞かずシノレの傍に駆け寄り、自らの傍仕えとすることを頑として主張し続けた。
『あの者を奴隷として使うというのなら、私のことも今から奴隷と思し召し下さい』
そこまで強弁した聖者の訴えを教主が聞き入れ、そしてシノレはシルバエルに迎えられたのだ。
眼の前の聖者の、こちらを見ているようで見ていないような、何とも微妙な表情を窺い見る。
ごく淡い、銀に近い金の髪。
深く澄んだ青の双眸。
抜けるような白い肌と、そこに刻まれた繊細な造作。
髪は首の後ろで括っているだけで、驚くほど飾り気のない姿だ。
その造作だけで美しい少女と称えられるには充分だろう。
だが、顔立ちなどあまりにも些細なことだった。
顔貌の美しい人間はいくらでもいる。
だが美貌であることと、そこにいるだけで神の実在を信じさせ、人を説き伏せられるかは別物だ。
まるで、聖者がいるそこだけ世界が違うかのような。
特別に清い光を受けているような。
見る者に神が宿っているのだと、否応なく感じさせる、神秘そのもののような存在感だった。
旧レテウ王国の遺産、圧巻の一言しかない壮麗な大神殿すらも、所詮は人が創り上げたものに過ぎない。
それこそ神によって創出されたとしても不思議ではない、この人の形をした神秘の前では色褪せる。
(これに神の教えを説かれれば、大抵の人間は信じずにいられなくなる。
特に、辛い環境で日々を生きている人間にとっては覿面だ。
崇拝、畏敬、法悦……知らなかったはずの感情を、心底から引き出されるような)
ただそこに存在するだけで他者の精神を貫き揺さぶるような、そんな圧倒的な力を表す言葉があるとすれば。
それはやはり、美と称するしかないのだろう。
けれどそれはシノレにとって、何ら心地の良いものではなかった。寧ろ――。
「……勇者殿」
「っ!!」
澄んだ声音で呼ばれるだけで、体が震えそうになった。
眼の前の聖者の白い顔に、初めてこちらを意識するような表情が過る。
気づけば聖者に窺うように見つめられており、咄嗟に愛想笑いを貼り付けた。
「……申し訳ありませんが本日は、下で予定がありますので。
下山しながら話せますか?」
「はい。喜んでお供致します」
これ以上この辺りに留まる理由もなければ、申し出を断る理由もないので了承した。
すると辺りに控えていた者たちが、即座に馬車を引き出してくる。
聖者に手を貸しながらそれに乗り込み、緩やかな傾斜を描く、整備された山道を馬車で進んだ。
ざわめくような風が通り過ぎる中、馬車ではぽつぽつと言葉が交わされる。
天気や体調など当たり障りない話題が尽きた後は、自然に今回の出陣のことに話が移る。
「この数日は常に勇者殿の身を案じ、無事を祈っておりました。
生きて戻れて本当に良かった……」
「はい、ありがとうございます」
「初の戦場で、戸惑うことも多くあったと思います。
私で良ければお話を聞きましょう。疑問がおありならば何なりと」
その言葉に、思わず沈黙した。
話したいこと、疑問、勿論それはある。あるに決まっている。けれど。
(どうして、僕を選んだの。勇者って何)
何度も何度も思ったそれを、結局今回も聞けなかった。
周囲には、こちらを窺う教徒の気配を感じる。
例え聞いたとしても、この状況下ではまともな答えが返ってこない気がしていた。
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