第32話 鏡の中の自分

楽団に捕らえられ、奴隷の身となったシノレを待っていたのは圧倒的な不自由だった。

それまではどれほど過酷な毎日でも自由はあった。

けれど奴隷は違う。主人の財、商品である故に、生きるか死ぬかすら己の意思では儘ならない。

幸運なことに奴隷商の元にいた期間は一年ほどで、そこまで長くなかった。

売り手と買い手による諸々のやり取りと取引を経て、結局教団に百人単位でまとめ買いされることになった。

教団では使徒家の一角たるシュデース家の管轄の元、土地の開発に従事することになった。


これもまた幸運であったと言って良い。

奴隷を一切使わない騎士団領を除いて、最も奴隷の待遇がましなのは教団だ。

楽団にあってはどう扱ってもいい、二束三文の消耗品でしかなく、医師団も人体実験など不穏な噂に事欠かない。

対して教団は酷使はされるものの、悪趣味な催しだので無意味に虐げられることは……

……まあ、ヴェンリル家の管轄以外では起こらない。

道は険しいが条件を満たせば受洗され教徒に――人間になることすら可能だ。

奴隷にとっては、望み得る中で割合良い買い取り先と言えた。


だが、それでも奴隷は奴隷だ。

教団領に入った彼らを迎えたのは教徒の冷ややかな目だった。

露骨に蔑みを浮かべるか、見たくないというように顔を背ける者が殆どだった。

まして子供のシノレなど周囲の人影に埋もれて、誰の目にも留まらなかったことだろう。

そんな中、シノレに唯一目を留めた者がいた。


それが、視察としてそこに偶々通りすがった、聖者だった。

その聖者の託宣によって、シノレは奴隷から勇者となり、受洗を経て、シルバエルに迎えられた。


「――――……」

戻ってきたばかりの自室には月光が差し込み、暗がりに慣れた目には充分に明るい。

明日に向けて早々に自室に返されたシノレは、半年使った寝台に顔を押し付けた。

弾みをつけて起き上がり、鏡台に向き合う。

薄闇の中、肌が白く、銀髪に淡い青紫の目を持つ少年が見返してくる。


「…………未だに、見慣れないな」


自分がどんな姿をしているか知ったのは、たった半年前のことだ。

最下層の貧民街出身の、しかも幼い奴隷だ。

無いよりはまし程度の、早々に使い潰す前提の労働力とされるのが当然の成り行きだった。

何一つ期待されていなかったので、商品として磨かれることもなく捨て値でついでのように売られた。

けれど聖都と称されるシルバエルに、汚れきった奴隷など入れられるわけがない。

大至急身嗜みを整え、受洗を経て教徒入りさせなければならなかった。

そこで、思わぬ事実が発覚したのだ。


訳も分からず流されるまま、聖者一行にシルバエル近隣の街に連れ込まれて。

滞在用の館で湯浴み、というよりは家畜の洗浄とでもいうべきそれを施され、そして現れたシノレの姿に誰もが目を見開いた。


それまでシノレは自分の容姿になど全く頓着したことがなかった。

いつでも全身余さず汚れきっており、己の髪や肌の色さえ正確に知らなかった。

ましてそれが教団の教主一族の特徴、ひいては教団内で吉相とされるものであるなどと、青天の霹靂としか言いようがなかった。


『成る程、聖者様はこれを見通しておいでだったのか……』

一人が感嘆とともに落とした呟きが、果たして真実だったのかどうかは分からない。

ともあれ洗浄され、何重もの汚れを落とした先に現れたこの銀髪は、教徒の目には美しく神聖で高貴なものと映ったらしく。

俄勇者の印象を良くするのに多少は貢献したらしい。

一方で悪目立ちもしたし嫌がらせも受けた。

浴びせられた中傷や因縁などは数えきれない。

けれどそんなことはどうだっていいのだ。

そんなことは問題ではないのだ。


(勇者。勇者だって。笑っちゃうよね)


そんな降って湧いたような肩書のために、シノレの世界は一変した。

別天地のような場所に放り込まれ、そこで待ち受けていたのはまるで思想と価値観の異なる人間たちだ。

相違や齟齬なんて生易しいものではなく、断絶と言えるほどにその価値観は隔たっていた。


異教徒への扱いなどその筆頭であろう。

彼らには害獣でしかないようだが、シノレにとっては同じ人間、然したる違いがあるとも思えない。

異教徒は存在が悪などと言われても腑に落ちない。

恨みも憎しみも感じない。

同じような手足や目鼻があり、腹も空かすし眠りもする、怒りも悲しみもある、そう感じるのだ。

こればかりはどうしたって変えられなかった。


エレラフのことが頭に浮かぶ。

断崖まで追い込まれて、もう死ぬ以外の末路は残っていなくて、せめて最後に一矢報いんと戦っていた姿は、教徒たちなどよりも遥かに近く感じられるものだった。


「……ああ、こういうことか」

だから、もう無理だなと思った。


それから月が傾くまで、シノレは鏡の中の自分を見据えていた。


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