第29話 勇者の過去
エレラフで迎えた五日目の朝は、鈍色の曇天だった。どことなく故郷を思わせる色だ。
今更特にすることもなく、暇になったシノレは壁の上から下を見下ろしていた。
勿論ここにも壁攻めの際の血痕が大量に残っている。
もううんざりしすぎて、色々麻痺して、血がどうこうより目の疲れの方が気になってくる。
緑か青が見たいなあと切実に思った。だから高所に上ることにした。
朝からずっと、エレラフの門は開かれ、そこから降伏した人々の移送が行われていた。
外壁の門から縄で繋がれた捕虜たちが、ぞろぞろと吐き出されていく。
その有様に嫌な思い出が蘇りそうになって、顔を背けた。
その視線の先に、銀色の髪があった。いつの間にか小柄な影が、エルクが登ってきていた。
「……こんにちは」
「ワーレン司教……もうお体は宜しいので?」
「ええ、まあ。……僕の役目は終わりましたので」
壁に登った少年はその言葉に小さく頷く。
その物言いが引っ掛かったが、それよりも危うげな足取りに気を取られた。
そのままふらりと歩み寄り、数歩距離を開けた場所に立った。
また何か話でもあるのかと身構えたが、一向に口を開く様子がない。
じっと俯きがちに、人波を見守っている。
冬に向かい、日に日に深まる冷気が辺りを覆う。
隣の少年は何も言わない。ここ数日間の印象、聞くともなく聞かされてきた情報が頭の中で回り始め、反芻されていく。
「…………僕が言うのも何だけれど、大丈夫なの?」
沈黙に耐えきれず、ついそう聞いてしまった。
隣からは静かな声で、「何のことですか」と返ってくる。
「僕から色々聞いてしまって、本当に良かったの。
それに初陣で寝付いたりしたら、今後に差し障るんじゃないの……まして、君は猊下の……」
あれこれと語らっていなければ、どうでもいいと思えたのだが。
言葉に詰まりながら、隣を窺う。
俯きがちの姿勢から、髪を揺らして小さく苦笑する気配がした。
「猊下は僕に、然程の興味や期待をお持ちではありません。
不肖の弟のことなど今更取り立ててお気にはなさらないでしょう。
寧ろ今回のことでは勇者殿に興味がおありでしょうから、僕はそれこそが不安なのです。
……今回の勇者殿の随行は、猊下の思し召しなのでしょう?
叙階を目前にした今になって。そのことに、僕は少し……」
そこで口籠り、不安げな、気遣わしげな視線を向けてくる。
その視線に少しぎょっとする。
鳶色のそれは色味こそ違うが、激しいほどの明暗の対比が教主の目を思わせたのだ。
だがそこにはあの隔絶したような冷ややかさはなく、寧ろこちらを案じる色があった。
「…………つまり、その……君の話や考えも聞くに……このまま司教に、勇者になるのが、本当に君にとって、良いことなのかと」
「…………」
どう答えていいか分からず、沈黙で返す。
何だかもう色々通り越して、あーあ、という気分になってくる。
半年間それなりに頑張って取り繕ってきたというのに、ここ数日でガタガタだ。
いや、最初から無理があったのだろう。
「僕は…………」
別に言うつもりもなかったのに、何かに流されたのか。
盗み聞きの心配がないという状況が、互いの箍を緩めていたというのもあるのだろう。
気づけばぽつりと、声が引き出される捕虜たちの頭の上に落ちていった。
「僕は奴隷として、教団に連れてこられた。
……何で聖者様に選ばれたのか、さっぱり心当たりがないんだよ」
ふと、張り詰めていたものが切れた気がした。
碌でもない日々でしかないのに、勇者になる前の思い出が次々と浮かび上がってくる。
小さく息を呑む気配にも構わず、ただ眼下を過ぎ行く捕虜たちを見つめ物思いに耽った。
そうなったきっかけについては、よく覚えていないのだ。
ただ巨大な黒い影が、こちらを呑み込むように広がってきたのは覚えている。
あれを堺に全てが変わった。
そして、今はこうして奴隷として引きずられる捕虜たちを見下ろしている。
隣からは、何も言及されなかった。
奴隷に落とされた人々が、繋がれて吐き出されていく。
いつまでも続くようなその列が絶えるまで、互いにただ無言で、長い間立ち尽くしていた。
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