第25話 危機と救いの手

「…………ご歓談中、大変恐縮に存じますが。

僕は何のためにお呼ばれしたのでしょうか」


そこで二人は、初めてシノレの存在に気づいたように目を向ける。

その視線に何故か、酷い胸騒ぎを感じた。

エルクは何か察したのか、紙のように白い顔だ。


「…………ああ、失敬。そうでしたな」

「お前を呼んだのは他でもない」


そしてラザンはシノレからは良く見えない死角の方へ、呼び寄せるように目配せした。

それと同時に一人の教徒が進み出てくる。

何か、いや、誰かを担いでいる。

まだ小柄な幼い――……。


「貴様は我らが教団において部外者に過ぎん。

故、この機会に見定めておきたい」


そしてシノレは、この呼び出しを天の助けなどと一瞬でも思った自分を本気で呪った。

「……ひっ、い、いやです、ころさないで、ころさ、あ、が……っ!」

引き出されてきたのは一人の少女だった。

縛り上げられた少女が、荷物を下ろすように無造作に地面に転がされる。

芋虫のような姿で藻掻き、掠れた声で途切れ途切れに命乞いをする。

そんな少女を運んできた教徒が無造作に殴りつけると、震えて大人しくなる。

そうして静かになった場に落ち着き払った声が響いた。


「猊下の御為に、腰の物でこの汚らわしき異教徒を殺して見せよ。

貴様の資格は我らが見届けよう」


その言葉が落ちた後には、痛いほどの沈黙が落ちる。

葉擦れの音さえ聞こえず、自分の鼓動だけが煩かった。

シノレは帯剣した腰に手をやったまま立ち尽くした。

怯えきった少女の目が、胸の中に空洞を空けて広がっていくようだ。

無意識に手に力を込めると、手の中で柄が軋んだ。


幸い、今回の鎮圧で人を殺すしかない、という窮地はなかった。

降伏した者は、他の教徒に目をつけられる前にすぐに捕虜にした。

だからシノレはまだ一度も、本当に唯の一人も、自らの手で人を殺したことはない。


少女を見つめる。

自分より圧倒的に弱い立場の者を前に、冷たいものが背筋に走る。

それは初めての感覚だった。


シノレには、人を殺すことへの強い嫌忌はなかった。

あの貧民街ではごくありふれた、身近なことだったからだ。

終わらない抗争。貧民なりの階層構造。

暴力を通貨とし、今日を生きるため、僅かな資源を奪い合う。

一度殺せばもう止まれない。

他者を殺して蹴り落とした者は、見る見る目を濁らせて、生きながら幽鬼のようになっていく。


シノレはずっと、そうした光景を見てきた。

子供特有の身軽さとある事情から、何とか他人と命をやり取りするような揉め事は避けてこられた。

だが、この饐えて淀んで滞った灰色の街で生きる以上、決して避けて通れないことだと、漠然と覚悟していた。

今更わざわざ問われるまでもない、それこそずっと昔からだ。けれど――……けれど。

人を殺すとしたら、自分より遥かに強い相手に、生きるために挑んだその末のことだと、そう思っていた。


縄の先を石柱に縛り付けられ転がされた少女は、最早命乞いの言葉も尽きたようだ。

哀願する気力も尽きた様子で、がたがたと震えるのみだ。

辺りの空気はいよいよ張り詰めていく。

その中で、見えない周囲の殺気も膨れ上がるのを感じた。

このままでは諸共に死ぬしかないと肌で感じる。


「――……」

その静寂を破ったのは血飛沫の舞う音でも、刃が肉に食い込む音でも、少女の断末魔でもなく、小さなえずきだった。

白い装束をまとった小柄な影が、ふらりと蹲るように膝を折る。

銀色の髪が震える肩から零れ、裾が地面に広がった。


「おや、これはエルク様。どうなさいましたかな」

「む。気分が優れぬか?」

「御二方、申し訳ございません……朝から少し、気分が」


本当に、今にも死に絶えそうなほど弱々しく、くぐもった声だった。

ルダクが僅かに笑みを曇らせる。


「それは良くない。

幸い務めは粗方片付いた、本日はもう戻って、休息を取るが良かろう」

「……はい。申し訳ありません……」


少年は袖の奥から、苦しげな表情を見せる。

その目がひたとシノレに当てられた。

まるで何かを訴えるような視線が、シノレの意識を引き戻した。


「……シノレ。足元が覚束ないので、手を貸して貰えませんか」

「……それなら、付人連中を幾らでも呼ばせるぞ」

「いいえ。身長の近い相手の方が……お願いします」


確かに小柄な司教の背は、丁度シノレと同じくらいだった。

伸ばされた手を、信じられない思いで見つめる。

はっと気がついてすぐに武器を収め、エルクに駆け寄ってその手を掴んだ。


「ワーレン司教、お気を確かに!……御二方、申し訳ありませんが失礼致します。

とにかく司教を休める場所に連れていかなければ」


エルクの手を肩に回させ、胴を支えて立ち上がらせる。

そしてつべこべ言われるのを防ぐべく、可能な限り速やかにその場から撤退した。

引き止める声は聞こえなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る