第20話 教主の傍らの者
「――見て下さい。こんな早くから狼煙が上がっていますよ」
まだ明かりをつけなければ薄暗い室内には、涼やかな朝の空気が漂っていた。
遠い空では、黒ずんだ煙が澄んだ朝を裂くように棚引いている。
「張り切っているんでしょうね、ラザン辺りが」
レイノス=セラフ=ワーレンは窓越しの空を見やり、静かな冷笑を滲ませた。
目に映るそれは、エレラフに浄化という名目の暴力が撃ち込まれている証拠だ。
あの煙の麓で、今も幾つもの命が潰えている。
それ自体には特に何も思わないが、そこで今も奮闘しているだろう幼い勇者には教主として、そして個人的にも些かの興味があった。
「何故」
澄んだ声がぽつりと、雨の雫のように落ちる。
座椅子に腰掛けたまま窓に視線を反らせたレイノスの、その差し向かいには小柄な影が座していた。
その位置は影に沈んでいる上、頭巾を被っており姿はよく見えない。
純白の法衣だけが儚い光に浮き上がる。
俯きがちに、窓を見ようともしないその人物は消え入りそうな声で一言問うた。
レイノスの笑顔は刹那の内にするりと拭われ、笑みの消えた表情で相手に向き直る。
その顔は真顔というには心ここにあらずであり、無表情というほど冷たくもない。
元々が端正で柔和な顔立ちだ。
あからさまな威圧感はないが、それだけに内情が見えてこない表情だった。
問いに問いを返す、淡々とした声が滑り落ちる。
「断りなく戦場に出したことが、そうもご不満ですか。
私としては、シノレの真価を計る権利くらいはあると思うのですが」
「……何かがあってはならないのです。
あの子は勇者なのですから」
「勇者。勇者、ね。
あのシノレが魔獣を根絶やしにし、人間の終わらない争いを鎮めてくれるとでも?」
表情は変えないまま、声だけで苦笑した。
自分で言っておいて何だが、あまりに白々しい夢物語だ。
向かい合う人物が、まるきり子供のようなそれを言い出した時のことを思い出す。
否、勇者など今時本当の子供だって信じてはいまい。
そんな、稚拙なまでの言葉に反して、その顔色は切実すぎた。
鬼気迫ると言っていいほどの血相で、彼に訴えた彼女の姿。
「どうしてそこまであの子供に拘るのか……
勇者などと言い出した時、本当に驚きましたよ。
かれこれ八年もの間、唯の一度も望みらしい望みなど口にしなかった、貴女が」
レイノスは言いながら、僅かに目を凍てつかせた。
まるで、そんな、物語のような、馬鹿げた絵空事を。
現実はどこまでも泥臭く血腥い。
誰もが奪い合い殺し合うばかりのこの世界に、無敵の英雄も都合の良い救世主も存在する余地はない。
居て良いとすれば、決して地に降りては来ない神だけだ。
向かいから目を逸らし、出立の直前に垣間見た勇者を思い出す。
半年で随分と面変りしていたが、あれは教団に染まっていない者の目だった。
成程驚嘆すべきことではあるのだろうが、だからといって英雄の器などとは到底思わない。
再び窓を見ると、煙が先程より更に広がっていた。
向かわせた師団は、滞りなく務めを果たしていると聞く。
後二日で引き上げられるとの報告もあった。
儀式は予定通り、五日後に恙無く行われることだろうが、その前に。
「叙階の前に、どんなものか見たかったのですよ」
「……勇者は、常に聖者とともにあるものです。
離れた場所で戦うことが本分ではありません」
「そこですよ。
……そもそも勇者とは何です?
彼をどうするおつもりで?」
「……シノレは勇者です。
それ以上、お話できることはありません」
窓から目線だけを流したレイノスは、小さく息をついた。
もう何度も聞いた口上は、今回も同じであるらしい。
「頑なな方ですね」
それきり二人は黙り込んだ。
その静寂を破ったのは、外の物音である。
近付いてくる気配に目を開く。
扉の前に控えていた従者と、何事か話す気配がした。
「……準備ができたようですね」
やがて戸口に現れた従者が時間を告げたので、応じて立ち上がる。
教団で唯一の、白銀の装束が流れ落ちる。
聖杖が床を打つ音が、妙にはっきりと聞こえた。
「では、行くとしましょうか。一先ずは衆生を導かなくては」
「…………何もかも、猊下の御心のままに。
行ってらっしゃいませ」
気配が揺れる。
音もなく、それこそ微かな衣擦れさえ立てずに立ち上がり、深く礼をした。
それにレイノスも、教主としての余所行きの笑みで応じる。
「ええ、お先に失礼します。聖者様」
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