第8話 教主
(エレラフ、か)
乏しいながらも荷造りを終えて、備品を確認し、やっとシノレは草臥れきった体を寝床に横たえることができた。
普段の教練も過酷なものだが、こういうのは別の意味で疲れるというか、気力を消耗する。
普段よりやや仰々しい祈りの儀式と晩餐で、体の調子もいつもより違った。
暗い室内で僅かな明かりが揺れているのをただ見つめる。
思い浮かぶのは、珍しく故郷や過去ではない別のことだった。
色々と考えずにはいられない。
もしかしたら、初めて人を殺すかもしれない。
いや、きっとそうなるのだろう。
横たわった筋肉が僅かに緊張する。
エレラフ。悲運の生贄の街。
そこに住まう人々は、教徒たちには駆除すべき害獣でしかないのだろう。
(まあ、どうなるものでもないけれど)
ゆるやかに瞼が重くなっていく。
明日赴く戦場を意識から離す。
今日はもう考えたくはなかった。
ふっと目を閉じ、視界が暗くなったのは一瞬かと思ったが、気づけば辺りは明るかった。
普段は鳴らない大鐘が鳴り響いている。
一度瞬きして、シノレは飛び起きた。
いつも通りの部屋、いつも通りの朝だ。
いつも通りでないのは喧しい騒音だけだった。
急いで身なりを整え、荷を担いで外に出る。
普段静謐な館の朝は人でごった返していた。
人波に押し流されるようにして慌ただしい朝食を済ませる。
そして向かうのはいつもの教練場ではなく、山の上部に佇む大神殿前の大広場だ。
昨日顔を合わせた指揮者を始め、数名が既に集まっており無言で直立していた。
「……失礼します」
シノレもその中に入り、後方で無言に待機する。
殆どはシノレに見向きもしなかったが、一人だけ、ワーレン家の少年だけがシノレの声に振り返り、軽く会釈した。
季節はもう秋の初めだ。
まだ寒くはないが、少し風が強かった。
そのまま立って待つこと暫し、やがて大神殿の扉が開き、一人の教徒が出てきた。
癖の強い、殆ど黒に近い灰色の髪を流した、抜きん出て大柄な男だ。
その男は揃った教徒たちに、見目の印象に違わず岩のような重々しい声で入場を促した。
「中へ。猊下がお目にかかる」
その声とともに、奥の扉が大きく開かれた。
そして溢れた眩い光が目を撃った。
シルバエルの建築物は壮麗さ、重厚さで広く知られているが、中でもこの大神殿は群を抜く。
一点の曇もない床と、絢爛な絵図が描かれた天井。
その二つをこれまた純白の柱が貫く。
聳え立つそれらに、初めて見た時は呑み込まれるかと思ったほどだ。
床以外のあらゆる場所を、いっそ狂気的なほど丹念に、細密に施された装飾が覆っている。
天井近くの丸窓が取り入れた光を受けて、辺りは目に痛いほどの眩さだった。
それこそ、この世のものとも思えないほどの。
大神殿内は楽人による荘厳な音色で満たされていた。
招き入れられた教徒たちは規律正しく入り口を抜け、奥へと進む。周囲には非武装の教徒たちが何人も控えていた。
完璧に磨かれた床は緩やかな登り坂になっていた。
進むほどに装飾は細かくなっていき、武装した教徒の気配も感じるようになる。
その奥の数段高い台の上に、まだ若い銀髪の男が佇んでいた。
純白に銀の縁取りがされた装束を着て、手には複雑な形状をした、白銀の聖杖を携えている。
男は近付いてきた教徒に向けて、ただ静かに微笑んだ。
「――猊下」
その男に教徒たちは一斉に跪き、頭を垂れた。シノレも続く。
教主。
この教団の支配者――古臭い言い方をするならば、王である。
ワーレン家の男子から選ばれ、教団の教えと使命を体現する存在。
代替わりして五年のその教主は、未だ少年と言っても通りそうな風貌だ。
その容姿や佇まいからは全体的に線の細さ、柔和さが目につく。
色素の薄い容姿のためか、その存在感はこの白亜の神殿の一部のように馴染んでいた。
清冽な光に白んだような微笑の中で、黒に近い色の目だけが深く異彩を放つ。
「皆、揃いましたか」
場の空気に似つかわしく、玲瓏と言って良い声だった。
ルダクが頭を下げたまま代表して答える。
「は。第四師団、全て完全に準備を終え、待機しております」
「宜しい。ルダク、ラザン、エルク。
此度の膺懲にて、軍の指揮権を委譲します。
直ちにエレラフに赴き、逆徒を鎮めるように」
「御心のままに」
声を揃えてそう答えた指揮者たちに軽く頷き、教主は何の気紛れかこちらに向き直った。
「ところで、シノレ。
君に会うのも久々ですね」
――まさか、声をかけられるとは思わなかった。
咄嗟の驚きで呼吸が乱れ、喉から妙な音が漏れそうになるのをどうにか押し殺す。
シノレは教主と会ったことなど、教団に来たばかりの頃に一度だけであり、悠に半年ぶりだ。
いつしか辺りは静まり返っていた。
本当に止めて欲しい。
周囲の注目が突き刺さる雰囲気の中、懸命に言葉を返す。
「はい。またこうしてお目にかかれて光栄でございます」
「今回のこと、君には急な話だったでしょうね。
ですが聖者様の為にも、一日も早く気高き勇者となってほしいのです。
実戦は君にとっても身になることでしょう」
「勿体なき御言葉です。
ご期待に沿えるよう努めます」
型通りの受け答えを喉から引っ張り出しながら、得体の知れない圧迫感が迫るのを感じていた。
以前いた場所では喧嘩、引いては殺し合いなど日常茶飯事だった。
屈強極まる大男たちが凄まじい形相で罵り合い、牽制と恫喝の応酬をするところに出会したのも、まさか一度や二度ではない。
この教主はそれらと比べれば優しげで穏和で、柔弱とさえ言える。
(それなのに)
シノレが感じるのは弱々しさなどではなく、静かに胸に迫る、底冷えするような気配であった。
音もなく侵食するようなこの畏れは、神殿の威容や教徒たちの信心、それに気圧された時の感覚とよく似ていた。
半年前のあの時は怒涛の展開に頭が追いつかなかったが、今なら分かる。
この教主はまさしく、この純白の教団そのものだ。
いつしか、楽の音は止んでいた。
シノレの答えに目を細めた教主は、ゆるやかに腕をもたげる。
影が動くのに合わせて、聖杖が持ち上がり、下ろされる。
とん、という軽い、しかし決定的な音が、辺りを揺るがせた。
「敬虔なる者に救いを。
罪ある者には禊を。
教団十七代目教主、レイウス=セラフ=ワーレンの名において。
只今よりエレラフの平定を開始します。
――行くが良い。神の教えを以て、彼の地に正しき秩序を回復させなさい」
静かだったのは、広い神殿に余韻が満ちるまでの数秒間だけだった。
その指令が染み渡ると同時に、控えていた教徒たちが建物を揺るがすような鬨の声を上げる。
それに呼応して外からも大歓声が響き、叫びの大波はシルバエル全体に広がっていく。
爆発的な戦意のその中心で、教主は至って静かに教徒たちに微笑みかけた。
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