俺の夏と、棒アイス。

浅井京

それなりに、でも特別で

 けたたましいブザー音がアリーナ全体に響き渡る。

 見事な四点プレー。残り二秒で、俺たちの夏は終わった。




「先輩方がいてくれたおかげで俺たちは———」

 次期キャプテンである二年PG井上が、えぐえぐと涙を流しながら俺たち三年に感謝の言葉を連ねる。

 インターハイ県予選準決勝敗退。

 そんな終わりを拒否するように、三年も後輩たちも溢れる涙を必死に拭っていた。俺はどこか取り残されたような気持ちで、井上の言葉に耳を傾ける。悲しくないわけじゃないのに、俺の顔には全くと言っていいほど雫が溢れる気配がなかった。むしろ、俺たちを見る監督の顔色が気になるくらいには、冷静を保っていた。

 井上が一通り喋り切った後、キャプテンを筆頭にそれぞれ三年が、順に習って話し始める。彼らの言葉は、右から左へと通り抜けていくようだった。自分の番まで回ってきて初めて、自分が対して聞いていなかったことに気がつく。何を話そうかとチームメンバーを見渡せば、ベンチの奴らまでもが顔をぐしゃぐしゃにしていた。

「いやー、ほんとに惜しかったね。それぞれ色々思うことがあるだろうけど、とりあえずお疲れ様」

 夢見心地で浮遊感に襲われているのに、なぜか頭は冴え切っていた。どんな言葉を掛ければみんなの傷が浅く済むか、なんてくだらないことを考えながら言葉を並べる。

「俺は今日で終わりだけど、他の三年はみんな残るからウインターカップまでに色々教われよ」

 一度背筋を伸ばしてから、監督の方へ体を向けてお辞儀をする。

「改めて、三年間ありがとうございました」

 丁寧に、丁寧に、言葉を吐き出した。不思議にもいつもの気だるさはなくて、焦燥感に似た何かが胸を巣食うだけだった。最後に監督が励ましの言葉を投げて、泣きながらありがとうと言い合って。澄んでいるのに霧深い情緒の矛盾が気持ち悪くて、みんなの興奮に乗り切れない自分の存在を塗り消してしまいたかった。



「よお、冷静エースくん」

 ミーティングを終えてそそくさと部室を出てきた俺を見逃さないという様に、旧キャプテン中村が肩を叩く。

「そこは副キャプテンって言えよ」

「エースのがかっこいいだろうが」

 さも当たり前に俺の隣に並ぶ中村の目元はいくらか赤く腫れていて、でもどんな反応をすればいいのか分からずスルーする。

「俺は、副キャプテンって肩書き気に入ってたけどね」

 中村とは一年のときから同じクラスで、一緒にバスケ部に入って、同じタイミングでスタメン入りして。一緒にキャプテン副キャプテンを任されたりなんかして、なんやかんやずっと一緒に走り抜けてきた。どうやら、最後は一緒にならないみたいだけど。

「そうは見えなかったけどな」

 目立った人影のない日曜日の校舎を二人で歩く。部室までの道のりもこれで最後だと思うとなんだか感慨深い。

「せっかくならみんなのヤケ練についてあげなよ」

 いつからか公式戦で悔いの残る負け方をした後に、学校に戻って自棄のようにボールに触ることが恒例行事になった。各自出来なかったことを後悔のままに練習して、後悔からやる気に燃焼する。言うなればインハイ降りの三年との最後の練習の場になる大切な時間。無論、後悔のない負けなんて無いし、毎度、今日はやめようなんて言う空気にもならないから試合後のルーティンと化した。みんな真面目に練習はしているけれど、結局のところ練習後に部メン全員で行く監督奢りのラーメンを楽しみにしてる奴だって多いはずだ、俺のように。

 どっちみち、三年生はなるだけ出た方がいいに決まっている。特にキャプテンなんて重役を担っていたPGは必要不可欠であろう。

 まぁ、一番に部室を出てきた俺が言えることではないけども。

「俺はお前の監督頼まれて来てんだからいいんだよ」

「監督?」

「そー、監督。あっちには他の奴ら置いてきたし大丈夫だろ」

 変わらない投げやりな言葉に笑い声を漏らしながら靴を履き替えて、静かに学校を出る。日曜日の登校もこれで最後かと思うと、少し変な感じだ。

「癖で来週も来そうな自分が怖い」

「お前ならやりそう」

 中村は豪快にゲラゲラと笑って。そんな笑い声に安心して。

 校門を右に曲がって、最寄りの方に足を進める。敗北の余韻なのか部活への名残惜しさなのかは分からないが、足の回転は二人して遅い。バッシュとタオルと水筒とが入ったショルダーはいつもよりも軽く感じて、足取りはより重くなった。

「終わりってあっけないよな」

 無言が妙に気まずくて、そんな自分を悟られないようにと言葉で埋める。

「それ、年二で言ってるよな」

 なんでもないように言葉を重ねた中村に、何て返すべきなのかが分からなくて曖昧な笑いを返す。

 一年生だった時も二年生だった時も、三年生が引退する度にそれなりに切なかった。でもいざ引退する側に立つと、切なさとかそんなのより喪失感の方がずっと大きい。この、なんとも言えないぐしゃぐしゃとした感情を“ソウシツカン”という六音にまとめるのは些か不満ではあるけれど、俺の脳みそではそんなちんけな言葉しか出てこないかった。

「んだよ暗い顔して」

 “柄にもなく”と言いたげだった。またもやいい返事が浮かばす、適当に笑って誤魔化す。

 中学の頃にも、当たり前に引退を経験した。同じように全中県予選で負けて、後輩たちも泣いてくれたし多分俺自身も泣いた。それなのにあの時どれほどの感情が滞在していたのかを思い出すことは出来ない。思い出せるのは、悲しかったという事実だけ。人間は記憶を美化しがちだと言うが、美化と名付けて忘れてしまうのは、何となく寂しい。

「コンビニ寄りたい」

 部活終わりによく寄ったコンビニが視界に入って、無性に入りたくなった。衝動的に漏れた言葉に、中村は「アイスでも食うかー」と呑気に答える。今までの部活を懐古しているようで気持ち悪いが、どうしたって最後なのだから受け入れるしかないのかもしれない。こうやって汗の滲んだ部活着に身を包むことも、冷たいコンビニの空気に悲喜することも、ジャンケンで負けて全員分の棒アイスを買わされることも、もうないのだから。ここ最近は大会直前でコンビニに寄る道するような余裕がなかったのも相まって、最後に来た日がとうの昔のことのように思える。せっかくなら、最後くらいみんなで寄りにくればよかったかな。

 お互い迷うこともなくソーダ味の棒アイスを買って店を出る。六月初め、そろそろ日も暮れて冷え始めるだろう。けれど、そんなことが俺たちに関係あるはずがなかった。

「ここで食べてこーぜ」

 中村は疲れを感じさせない満面の笑みで魅惑的な誘いをする。俺は大人しく頷いて、隣に寄りかかった。

「つめてー」

 アイスを頬張る中村を横目に封を開ければ、寒風がショルダーについたキーホルダーを揺らした。漂う空気が普段より硬くて、意識せずとも沈黙が続く。

「んで、エースくんは一体何をそんなに思い詰めてるわけ」

 俺たちじゃなかなかないくらいに(暫時)続いていた沈黙を破ったのは唐突な質問。真面目な声色に俺はただ聞き返す。

「お前、試合終わってからずっと変だろ。一年も心配してた」

 咄嗟に“監督”という言葉が脳裏によぎって、苦笑いが零れる。傷を浅くなんて大層な事を言っておいて、実際のところ大事な練習から旧キャプテンを外させていたらしい。最後の最後まで笑えたもんじゃない。自分の情けなさに嘲笑だけが舞って、ただただいたたまれなかった。

「そんな分かりやすかった?」

「普段とちげぇってのが正直なとこじゃねーの」

 真意を探るような視線が俺の額を突き刺す。焦り、高揚、沈痛、驚き。様々な感情が入り乱れて、何を前面に出すべきなのか分からなくなる。

「なんでもいいから言ってみろよ」

 柄にもなく塩らしい中村の空気が動揺を誘う。お前そんな顔出来たんだ、って茶化してやろうかと思ったけれど、出来るはずもない。

「第二クオーターの中盤、入れなきゃいけないカットインを外した」

 空白を埋めるように、ほんのり溶け始めた棒アイスに齧り付く。頭の奥の方がキーンと傷んで、心臓の奥がキュっと締まる。

「第四もフォーファールもらってから、“俺が降りたら誰が埋めるんだろう”とか要らないことばっか考えて慎重になりすぎた」

「慎重つったってお前は元々豪快なタイプじゃないだろ」

「丁寧なプレーと慎重なプレーは違う。いつもなら無理にでも決めに行くところで今日の俺は日和った。だから決めきれなかった」

 溶けたアイスがぽたぽたとコンクリートに落ちる。さっきまで鮮やかな青色を発していたそれが地面では黒いシミになって、そんな当たり前のことすら虚しく思えてくる。

「なんだ、ちゃんと悔しいんじゃんお前」

 冷たい風と共に熱の籠らないそんな言葉が耳を撫でる。

 そっか、俺は悔しいのか。

 自分の中でぐしゃぐしゃと浮遊していたものが、一つに纏まって少しずつ違う風に形成されていく。今までだっていくつもの悔しい試合を経験した。やってきた数多の試合の中で後悔の全く残らない試合など一つとして無かった。俺は、底の見えない莫大な悔しさを知っている。それでも、今までの悔しさとは一味変わった、いや二味も三味も変わったこの悔しいという感情に、俺は気づけなかった。

「悔しい、本当に悔しい」

 改めて口に出すと目頭が熱くなってくる。チームのみんなが泣き崩れる理由を、俺が分からないはずがなかった。傷付きたくなくて、自分の脆さに気づきたくなくて知らないフリをしていただけだった。俺は最後の負けを仕方がないと片付けられるほど、成熟もしていないのだから。

「そりゃそうだ。あんな四点プレーで終わらせられちゃこっちだって消化不良だよな」

 妙に大人びた声が幼い俺を宥めるように吐かれる。俺の知らない中村の姿が垣間見えて寂寞が背後を通った。中村は俺と同じくらい馬鹿でアホだけど、が俺とは違う。なんて形容するのが正しいのかなんて語彙力の乏しい俺には見当もつかないけれど、この違いがキャプテンと副キャプテンとの任命を生んだであろうことは確かだ。安直に言うのなら精神年齢の差。でもそんな言葉でカバー出来ない何かが潜んでいるような気がしてならなかった。

「森川、平気そうだった?」

 試合終盤、二年エース森川の必死のディフェンスはフリースローとなって返ってきた。この試合の最終プレーとなった四点を引き起こしたのは森川で、もちろんチームメイトは誰一人として森川を責めてなんかいないけど、森川は元々必要以上に気負いやすいタイプだから、余計に思い詰めていそうで少し、心配になる。

 フリースローが入ってしまったときの森川の表情。多分、俺はしばらくあの顔を忘れることが出来ない。絶望、というのだろう。後悔とか焦りとかそんな感情より先にただ漠然とした終わりだけを自覚する瞬間。見覚えがあった。

「ありゃしばらく引きずるだろうけどそれも経験だろ」

 お前もそうだった。中村は悪戯っぽくにやりと口角を上げた。

「それもそうか」

 俺の言葉を最後に再び沈黙が充満する。今度はそれほど苦しくなくて、ただ終わってしまったことに思いを馳せる。

 もし、あのカットインを決めていたら。もし、パスへ逃げずにスリーポイントを打っていたら。もし、俺がもっと上手かったら。今更そんな御託を並べたってしょうがないと分かっているつもりだけど、当てのない後悔が心を犯して目頭を熱くしてならない。

「決勝くらい連れてってやりたかったな」

 溢れた声と一緒に涙がこぼれ落ちる。不覚にも涙ぐんでしまった声を隠すように、首元にかけていたタオルで涙を拭う。試合直後には出る気配すらなかったそれが、今になってようやく姿を表した。

「遅せぇよ」

 止まらない涙はいくらかしょっぱくて、それがより目頭に熱を集める。中村の笑い声がそりゃあもう優しくて、誰だよって思ったりして。もちろん、そんな色気のないことを口に出したりはしないけれど。

「公園寄ろうぜ」

 未だに笑い続ける中村の提案に、俺は少しの迷いもなく頷いた。



 コンビニから少し歩いたところにある、いつ何時も過疎を貫く孤高の公園。ここ二年ちょっとの間、俺らの溜まり場となった偉大な場所だ。公園に入るだけで色んなことが蘇るくらいには、ここで多くの時間を過ごした。バスケ部生活を語るのに必要不可欠な要素と言っても過言ではない。振られたショックで神田のプレーが落ちに落ちたときも、辺と高橋が部を巻き込む大喧嘩をしたときも、決まって俺らはここに集まって、三時間も四時間も話し合った。

「平を引き止めたときもこんな時間だったよな」

 あれは、二年の合宿直後だった。平が俺たち同期を集め、見たことないほど真面目な顔をして“辞めたい”と溢した日。みんなで多方向から説得しようとワーワー騒いだ記憶が鮮明に残っている。

 俺も一緒にやめようかな。

 なんて戯言を飲み込んで、俺も同じように宥めた。その時の俺がどうしようもなく辞めたかった訳ではない。けれどブランクに陥った平を前に自信がなくなって、一緒に逃げてしまおうかと思った。衝動的に漏れそうになった言葉に蓋をしたことを、今なら肯定できる。

「めっちゃ焦った記憶あるわ」

「あの頃のアイツ、確かに調子は悪そうだったけど辞めたがるとまでは思わなかったしな」

 中村の言葉に頷きながら、足を進める。

「そんな平もウインターカップまで残るんだろ?」

 錆びついたブランコに腰をかけて、少しだけ漕ぐ。流れる風が気持ち良くて、尚更アイツらを呼びたくなる。

「案外、退部を視野に入れた方が気張れるのかもな」

 コイツのように本気で部活に生きてる奴もいれば、俺みたいに何となくで続ける奴もいる。平は真面目だから向き合う為に辞めようとして、結局は辞めない方向で踏ん切りをつけた。中途半端を嫌う奴は一定数いる。コイツも平も多分そっち側。何かを成し遂げる奴らは、大概そっち側の奴だ。

 何となく空気が重くなって、沈黙で埋まる。静かな公園にブランコの金属が擦れる音が響いて、二人しかいないことを強調しているようだった。中村もなにか思うことがあるのか、口を噤んだままどこか遠くの方に鋭い視線を灯していた。

「やっぱ勝ちたかったな」

 遠くの木から視線を動かさず、中村は言う。やっとのことで取り除いた水気の多い空気が、またもや空間に重鎮する。メンバーたちの泣き顔がフラッシュバックして、目頭が熱くなる。

「ウインターカップは形にしろよ」

 俺のいなくなった枠は誰が埋めるんだろうか。やっぱり森川か、それとも高橋、神田あたりがカバーするのか。もう少し擦り合わせをしておけばよかっただろうか。それこそ、今日の練習に出てあげるべきだったんだろうけど。

「俺はお前と勝ちたかった」

 鼻がツーンと痛んで、横目で中村を見やる。泣きそうな顔をしてタオルを握りしめる姿は、やっぱり“主将”が相応しくて、流石だなぁと思わされる。返す言葉は見つからなくて、と言うよりは下手に言葉を重ねると安っぽくなってしまいそうで、俺は押し黙る。そんな俺に中村は少し恥ずかしそうに目線を送った。

「なんか言えよ」

「いや、俺だってさ」

 辞める身なのに言葉にしていいものなのか。少しだけ躊躇して、でももう言ってしまおうと口元が緩む。

「お前ともっとバスケしたいし、当たり前に勝ちたいよ」

 俺たちは今一度、沈黙を嗜む。どうも今日は言葉が続かない日だった。俺が抱えている喪失感をコイツも手にしているのだろうか。それとも、純粋に言葉を必要としないくらいに言語を超越したところにいるのだろうか。

「残りゃいいのに」

 なんの変哲もない素朴な言葉だった。一緒にやろうと誘っているわけでもなく、戻ってこいと説得しているわけでもない。ただ溢れ出てしまっただけのような、もはや聞いてほしいとすら思っていないような、質素で、でも熱のある言葉だった。それこそ何かを重ねることで陳腐にしてしまいそうで、俺は何も言わず、ただ溢れる涙を必死に理解しようとしていた。

 冷たい優しい風が頭と頬を撫でて、大粒の涙が溢れる。伝えたいことは沢山あっても、それらをどう形にしたらいいのか俺には分からない。俺たちはいつでもバスケを挟んでいたから。バスケが無くなりかけた今、どこまで踏み込んでいいのかが曖昧で、余計に言葉が絡まっていく。

「これから勉強に専念すんの?」

 どれくらいの沈黙が流れたのだろう。話題を提示したのは中村だった。

「部活辞めたからそれくらいしかやることない」

「そりゃそうか」

 曖昧な相槌が宙に舞って、唾を飲み込む。

「お前はバスケ続けるんだろ?」

「俺はお前と違って器用にこなせるタイプじゃねぇしな」

 声に芯があった。さっきまでのぐずぐすな掠れ声を感じさせない強さが、中村自身の意志の強さを表しているようで、本当に勝てない奴だと、そう思った。当たり前に、勝とうとなんて思ったことはないけれど。

「続けたいってのが正直なところだな」

 形のある声。それは俺なんかよりずっと大人びていて、淡い寂しさが胸に広がっていく。

「PGこそ、器用な奴がやるとこだろ」

「今更ポジション変えろってか」

「いやいや、そうじゃなくて。お前は十分器用だろ」

 チームを一つにまとめながら次のPGを育てて、次当たる高校の傾向と対策持ってきて。監督と一緒になって練習メニュー考えたり、後輩の個人練習に付き合ってやったり。それでいて最後まで残って自主練して、弱音なんて吐かずに気張って。勉強面は割とギリギリなときもあったけれど単位を落としたことはないし、バスケを中心に信じられないほど器用で、ずっとすごい奴だった。去年のキャプテンもその前のキャプテンだってすごい人だったけれど、やっぱりのキャプテンはコイツだけだ。少なくとも俺のキャプテンは生涯、コイツだけだろう。それくらい異質なほどコイツは完璧だった。俺はあまり“完璧”という言葉が好きではないけれど、そんなことが些細に思えるくらいには行動が完成していた。

「急に褒めるなや」

「あ、うちの主将サマが照れてるー」

 茶化して、二人で大笑いして。いつまでのこんな日々が続いたらいいのに、とか思ったりして。らしくない、本当に。

 虫の羽音が耳を掠めて、季節を感じて。普段は不愉快でしかないはずのそれが酷く趣深くて、またしても泣いてしまいそうだった。

「俺はこれでバスケを終わりにするから、ちょっとだけお前が羨ましいよ」

 冷風が頬を撫でる。

「なんだそれ」

 意味が分からないと言いたげだった。俺自身、何を伝えたい言葉なのかは分からないし、概ね伝えたいことなんて大層なものは乗っかっていない。ただ、この時間を愛しみたかっただけ。俺が二年以上ものときをかけて、大事に大事に抱えていた時間を、何もなかったと封をしてしまうのは嫌だった。俺にはバスケだけを続ける自信なんかないし、俺にとってバスケは好きなもの以上にはならない。これから俺はそれなりに勉強してありきたりな大学に入って、きっとつまらない大学生になる。それでも、この時間はかけがえのないものだったと胸を張って言いたい。キツかった練習も嫌になった負け試合も全部、無駄ではなかったと、意味があったと、俺だけは確信していたい。俺は、部活を全力でやっていたと謳うことが憚られるくらいには手を抜いていたけれど、それでもあの時間は限りなく大切な時間だった。

 生涯忘れたくないと、色褪せぬまま保管しておきたいと思うくらいには大事だった。

「泣き虫エースめ」

 俺の頭をガシガシと撫でる中村の声が掠れていて、声を出して笑い晴らす。

 最後にスカそうとした。部活如きに本気を出す奴らを笑ってやろうと思った。負けた悲しみから、終わる悔しさから逃げるために。アイツらと後輩と監督に嘘をついたけど、俺は大人なんだと取り繕ったけど、本当は一緒に大泣きしたかった。悔しいって輪になりたかった。俺はバスケが好きだ。コイツらとやるバスケが大好きだった。みんなで勝ちたかった。インターハイに行きたかった。俺らのバスケをもっともっと上の舞台で色んな人に魅せたかった。

「あぁー、やるせねぇー!」

 俺らだけを包む公園に轟くように、思いっきり叫ぶ。しばらくは最後のフリースローを夢に見るし、自分のプレーを後悔すると思う。でも、それでいい。俺の中のバスケは数日で忘れられるほど優しいものじゃないんだ。コイツらと続けたバスケを俺は誇りに思うし、これからも大事に抱えていく。それが俺のバスケだから。

「吹っ切れてんな」

 中村は泣きながら笑っていた。俺も一緒に涙を拭きながら笑った。公園中に俺らの笑い声が響く、そんな夏未満の一日。それが、俺の最後の日だった。



 じんわりと汗が滲んで、張り付くシャツが気持ち悪い。真夏はこんなに暑くなるものだったろうか。最近は家と予備校の往復を繰り返し、暇さえあれば参考書と睨めっこの日々を送っている。本来の高校三年生はこうあるべきなのかもしれないけれど、ずっと馬鹿みたいに部活をしていた分、動かないことがもどかしくて仕方なかった。そんな俺を見計らったように届いた、中村からの“部室にタオル忘れてんぞ”という連絡。仕方ないな、とつれない返信をして、まんまと部室へ足を運ぶ俺の心は嬉々としていてた。気分転換にでも練習相手してけよ、と甘美な誘いに乗って久々にショルダーバックへバッシュを入れた。部室を素通りして体育館へ向かう。“パス”とか“走れ”とか“シュート”とか、そんな掛け声が聞こえて、たった数ヶ月のはずなのに懐かしさが込み上げる。大きな笛の音が鳴り響いて、今かと影から覗いてみれば各自タオルで滴る汗を拭っていて、それはもうキラキラと光を発していた。

「よーよー、皆さん元気に練習してます?」

 全員の視線がこっちへ移るのを全身で感じて。雄叫びをあげながら騒ぐコイツらが可愛くて、思わず笑みが溢れる。

「久しぶりな」

「おっせえよ、副キャプテンくんよぉ」

 井上も森川も笑顔で。平も高橋も渡辺も神田も驚きながら嬉しそうに歓迎してくれて。井上には早く着替えてこいと急かされて。ここが変わらず温かくてホッとする。

「コテンパンにしてやるよ」

 そんな奴らの笑みに合わせて俺もニッと笑顔を返した。

 久々に触ったボールの感触がやけにザラついて心地よかった。毎日のように練習してた日々が昔に見えて、ちょっとだけ切なくなる。でもそれ以上に楽しくて、無駄なことを考える暇なんてなかった。やっぱりバスケが好きだと再確認して、それ以上にコイツらとやるバスケが好きだと理解して。こんなにも輝いている時間が思い出になってしまうことが寂しくなった。

「なまらねぇな」

 息が切れて、苦しいのにそれすら楽しくなってしまう俺は、当てられているのかも知れない。

「いやー、だいぶ体力落ちたよ」

 なんたって2ヶ月は動いてないんだからさ。そう付け加えて、中村は嫌な顔をした。実際は、毎日欠かさず筋トレはしてるし、気分転換と名付けて走ったりもしてるけれど、当たり前に言わないでおく。

「そんな余裕ならまた来いよ」

 大袈裟な程の笑顔をぶら下げた中村を真似するように他の奴らもニヤニヤと笑顔を作る。次のタイミングなんて、もはや無いようなものなのに、変に期待してしまう。

「余裕あったらな」

 体育館に俺らの笑い声が響いて、少しだけ安心する。中村に肩を叩かれて顔を向ければ、親指を立てて二年のいる方へ動かしていた。なんでも分かるなんてエスパーか何かなのか。そんな言葉は飲み込んで、少し早くなった鼓動を抱きしめて立ち上がる。

「ごめん、そんでありがとう」

 思ったより大きくはならなかった声の反響がみんなの意識を誘う。今までなあなあにやっていたから最後に一言なんてらしくない。多分、みんなそう思っている。少ならからず俺自身だってそう思っている。けれど、あの日の不甲斐なさをここらで払っておきたい。最後くらい、いい先輩だったとそんな顔をしたっていいだろう。

「頼りない先輩でほんとごめん。けどみんなのためにって考えてたのはほんとだから。今まで、ついてきてくれてありがとう」

 泣きそうになって、井上が泣いた。なんでお前が泣くんだよって笑って、俺らも泣いた。不思議なくらい悲しくない涙だった。当たり前のように頬を伝う水滴で、視界が歪んでからやっと泣いている事実に気づいた位にはどこも痛くならなかった。


 一人で帰ると言ったのはただの気まぐれだった。もしかしたら、一人になる冷たさに触れたかったのかも知れない。さっきまでの騒がしさの反面、周りがひどく静かに感じて感傷的になった。今はもう喪失感より寂寥感でいっぱいで、気持ちが悪かった。気持ち悪いのにどこか心地よくて、どこまででも飛んでいけそうなくらいに全てが軽く感じた。もうあの試合の傷みを思い出せないように、学校が始まる頃には今日の全ても色褪せていく。そうやって俺たちは大人になるのだろうか。やっぱり、そう簡単に忘れてしまうのは少しだけ寂しい。

 少し薄暗くなった空気は、まだまだ熱を持っていた。首を伝った汗を乱暴に拭って吐き出す。

「帰ったらイディオムでも覚えるかな」

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俺の夏と、棒アイス。 浅井京 @Azai_Kanadome

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