第5話 亡くした人、無くした感情
小学2年の夏休み、産みの母と近所のスーパーで買い物を済ませ、帰宅しようと駐車場に置いてあった車に向かって歩いていた時。
「水穏っ!」
母さんに大声で呼ばれ振り返ろうとしたその時、急に背中を強い力で押され、受け身も取れずアスファルトを転がった。
「痛てて⋯お母さん?どうして急に押すの⋯⋯⋯え?」
振り返った時そこに母の姿は無く、あったのはスーパーの壁に衝突した車の後ろ姿だった。
周りが慌てて救急車や警察を呼ぶ中、俺は混乱で体が固まり動けなかったが、唯一動かせた視線で必死に母の姿を探した。
まさか、まさかまさかまさか、そんなはずは無い。さっきまで一緒に歩いてたんだ。
「お母さん⋯?どこ⋯⋯⋯お母さん?」
声にならない呟きを発しながら母を探す。
周りを見渡しても母の姿はなく、見たくなかった車の下に視線を向ける。
誰かが見ちゃダメだと叫んでいた気がするが、もう遅かった。
「み⋯⋯おん⋯⋯⋯け⋯が⋯して⋯⋯い?」
車の下、前輪と後輪の間から上半身が投げ出されるように母は倒れていた。
そんな状態にも関わらず、母は俺を心配し引きつった顔で俺に声をかける。
「よ⋯⋯た、たす⋯⋯た、の⋯ね」
俺は何も言えなかった。視線が母に固定され、身体が言うことを聞かなかった。
「だ⋯じょ⋯ぶ⋯⋯おと⋯が⋯い、る⋯か⋯⋯」
「おい、あんた!喋らない方がいい、もう少しで救急車が来るからな!」
その場にいた男性が母に声を掛けるが、母には聞こえていなさそうだった。
「ごめ⋯⋯ね⋯⋯いっ⋯しょ⋯いら⋯⋯く、て」
母の声が小さくなっていく。
「わ⋯⋯し、は⋯⋯⋯しあ、せ⋯⋯だっ⋯⋯⋯あり⋯と、う⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「おと⋯に⋯あ、り⋯と⋯⋯⋯て⋯⋯⋯いえ、な、か⋯⋯な」
もう、何を言ってるか分からなかった。
ただ、呆然と母の目から色が失われていくところを眺めるしか出来ない。
「み⋯⋯お、ん⋯⋯し、あ、わ、せ⋯⋯に⋯⋯な⋯⋯⋯て⋯⋯⋯⋯ね」
母のこちらを向いていた瞳から光が失われた。
「あ、あ、あ⋯お、母さん⋯⋯?」
何かが体の奥からせり上がってくる。
「
先程母に声を掛けていた男性が近くにいた女性に指示する。
頭が痛い。さっき打ったのだろうか。
「あ⋯⋯あ⋯⋯。」
声にならない声が零れる。せり上がって来た何かが吐き気に変わって出そうになった時、そこで俺の意識が途絶えた。
最後に見た光景は、亜麻色の髪をした女性が駆け寄ってくる姿だった。
次に目を覚ました時、知らない天井が視界を覆った。
何で家じゃないんだろう、お母さんと買い物に出たはずなのに⋯。
「水穏!」
名前を呼ばれた方を向くと父さんが涙目で座っていた。
「良かった⋯本当に良かった⋯!そうだ、先生を呼ばないと⋯。」
父さんがナースコールのボタンを押したあと、看護師さんと医者がやって来た。
「自分の名前は言えるかい?」
「椎名水穏⋯。」
「うん、そうだね。ここに座っている人は分かるかな。」
「お父さん、です。」
「うん、ひとまずは大丈夫そうだね。記憶はちゃんとありそうだ。体で動かせないところは無いかい?」
指から順番に動かしてみるが、特に動かないところは無い。
「大丈夫、です。ちょっと足首が痛いけど。」
「うん、そこは転んだ時に捻ったんだろう。あまり動かさない方がいいよ、悪くなってしまうからね。」
ひとしきり確認は終わったのか、医者は父さんの方へ向き直る。
「現状、足首を捻った以外は特に問題ないように思えますが、倒れた原因が脳への強いストレス⋯負荷が原因です。目に見えない部分で何かが起こるかもしれません。お父さんもお辛い時だとは思いますが、息子さんの動向は注意してあげてください。」
「はい⋯ありがとうございます。」
父さんは医者に頭を下げる。
「頭を上げてください。それと、一応子供の脳の事なので、念の為検査で1週間ほど入院して頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
父さんは頷き、俺に向き直る。
「水穏、1週間入院になるみたいだ。できる限り毎日来るから、寂しいかもしれないけど頑張れるか?」
「うん、大丈夫だよ。あ、でも夏休みの宿題どうしよう。あ、お母さんと自由研究の約束もしてたんだった。お母さん怒るかなぁ。」
その瞬間、病室の空気が一気に重くなった。
「水穏、お母さんはな⋯死んじゃったんだ⋯⋯。もう、会えないんだよ⋯⋯。」
その瞬間、スーパーでの事がフラッシュバックする。
血まみれで車の下に倒れている母、段々弱っていき、瞳から光が消えるその瞬間まで。
だと言うのに、俺は落ち着いていた。
「夢じゃないんだ⋯⋯。」
「水穏⋯?」
父さんが心配そうな顔をしている。
「大丈夫だよ、お父さんが居るから。大丈夫。」
お父さんに笑ってみせる。
「水穏⋯⋯っ!ああ、父さんが着いてるからな!」
その後、1週間の入院生活が始まったが、足首以外痛いところもなかったし、足首もテーピングしてもらえば大したこともなかったので、割と暇を持て余していた。
入院して3日が経った夕方、いつものようにベッドの上で宿題をしていると、病室の扉がノックされた。父さんはいつも仕事終わりに顔を見せに来てくれるので夕方にやってくる人は居ない。
「水穏くん、入っても大丈夫?」
看護師さんの声だったので「はーい」と返事をすると、看護師さんではなく知らない大人2人が入ってきた。
「⋯⋯あ。」
いや、知らない人ではなかった。事故の時、母さんに声をかけてくれていた男性と、意識が途絶える直前、俺に駆け寄ってきていた女性だった。
「初めまして、水穏くん。そして、すまなかった。」
いきなり男性に頭を下げられた。
「ちょっと、あなた。急に大人に謝られても、水穏くんが困るでしょ〜?」
女性が男性を注意する。仲が良さそうだな、と何となく思った。
「そうだな、話が飛びすぎた。改めまして、水穏くん。君が覚えているか分からないが、俺は君のお母さんが事故にあった時、近くに居たんだ。」
「うん、覚えてる⋯ます。お母さんに最後まで声をかけてた人だよ⋯です、よね?」
まだ使い慣れていない敬語を使いながら返事をすると、女性に頭を撫でられた。
「大丈夫よ〜いつも通り喋っていいからね、無理して丁寧に喋らなくても大丈夫よ〜。」
何となく、お母さんに似ているなと思った。
「覚えてるなら何より⋯では無いな。俺がもっと早く救急車を呼んで、君の事を保護していれば君は辛いものを見なくて済んだかもしれないのに。」
男性は心の底から申し訳なさそうだ。
子供心ながらに悪いのはこの人ではなく、事故を起こした車に乗っていた人だということは分かっていた。
「悪いのは車に乗ってた人で、2人は悪くないと思う。だから、そんなに悲しそうな顔をしないでもいいよ。」
2人は一瞬目を丸くしてから少し安心したような、寂しそうな顔をした。
「まったく⋯この子は親を亡くしたばかりだってのに、大人に気なんか使いやがって⋯。いい男になるよ、お前は。」
「本当ね〜満桜のお婿さんになって欲しいくらいだわ〜♪」
何だかよく分からないことを言っていたので、首を傾げておいた。
コンコン。
「水穏、入るぞ〜。おや?お客さんが居ましたか。これは失礼しました。」
仕事終わりの父さんがやって来た。すると2人の表情は真剣なものになり、父さんに向かって頭を下げた。
「椎名さん、初めまして。美島と申します。先日はいきなりの連絡だったのに、こんな時にご対応頂きありがとうございました。」
「頭をあげてください⋯!お2人は水穏の恩人です。結果としてはこうなってしまいましたが、私たちは前を向けますので、どうかお気になさらないでください。」
2人は頭を上げ、女性が俺と父さんを見ながら続ける。
「ありがとうございます。水穏くんさえ良かったら、また会いに来てもいいですか?」
「ええ、私はもちろん大丈夫です。水穏はどうだ?」
「うん、病院は宿題以外やること無くて暇だから来てくれると嬉しいよ。」
「良かった〜じゃあ、また来るわね。またね、水穏くん。」
「またな、水穏。」
2人はそう言って帰って行き、俺は面会時間ギリギリまで父さんと過ごすのだった。
その後、お見舞いに来てくれた2人と話したり、父さんや看護師さんと話したりしながら入院生活を終え、母のお葬式の日になった。
俺の退院後に合わせてくれたらしいが、母の亡骸は先に火葬されていた。
父さんや祖父母が悲しみ、涙を流している中で俺は1人強烈な違和感を抱えていた。
(何でだろう⋯⋯あの時みたいに悲しくなったり、せり上がって来るような何かが無い⋯?)
その時は母の死を受けいれたのだろうと思っていた。
母のお葬式を終え、数日。入院中暇だったので夏休みの宿題を自由研究以外終わらせていた俺はかなり暇していた。
元々、母は専業主婦だったので父が仕事でいない平日の昼間は母か友達と遊んで過ごしていた。
「暇だし、途中だったゲームでもやろうかな。」
携帯ゲーム機を起動し、見慣れた画面を操作する。
「お、色違いだ。本当にいたんだ⋯。」
1/8192で出現すると言われているレアなモンスターを偶然見つけ、捕まえた。
「あれ⋯?」
こんなに楽しくないんだっけ、このゲーム。
たまに母に怒られるくらい熱中してやっていたゲームなのに、何も楽しくない。
「おかしいな⋯⋯。今は別の気分ってだけか。」
気を取り直して他のゲームをやっても、何一つ楽しくなかった。
次の日には友達の家に行き、対戦ゲームで遊んだ。実力はほぼ同じで、お互いに負けた時は悔しくてもう1回と言い勝負するのが通例だった。
なのに今日はおかしい。
(勝ったのに嬉しくないし、負けても悔しくない⋯。)
「今日はどうしたんだ?いつもは負けたらすぐ次の勝負をするのに。」
「いや、なんだか今日はやる気が出なくて⋯。」
「なんだそれ、俺の方が強いからって言い訳か?」
煽られたら言い返す。そのはずなのに。
「あー、まあそうかもな」
そんな、無気力な返事しか出ない。
結局その日はあまりゲームは続かずお開きとなった。
次の日も、その次の日も喜怒哀楽を感じられずに過ごしていた。夏休みが終わっても、秋になって、冬が過ぎて、次の春。
小学3年生になり、更に1年がすぎて4年生になった。
父さんは無気力に見える俺が母の死を引きずっていると思っているのか、とても心配していた。
「大丈夫だよお父さん。俺はもう引きずって無い。これはそうだなぁ⋯⋯自分探しってやつだよ。」
どこかで読んだ本に書いてあった言葉。自分探し。当時は意味をよくわかっていなかったが、ニュアンスだけで使ったのだろう。
そこで気づいてしまった。俺は自分探しをしなければいけないほど、自分のことが分からなくなっていることに。
何が嬉しいのか、何をされたら腹が立つのか、何があると悲しいのか、何が楽しいのか。
2年前の俺はどうしてたんだっけ。思い出せない。
いつから分からなくなったんだろう。
いつ⋯⋯⋯。
ああ、そうだ、あの病室で目を覚ました時だ。その時にはもう、母の死を悲しむ心さえ無かった。だからあんなに落ち着いていたし、お葬式でも悲しくなかったんだ。
その日から俺は、感情に自信が持てなくなった。
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