【三章完】 Moirai

 静かに波打つ水面を月が照らしている。

 そして、一見、冷たそうに見える水の中に片足を入れてみれば、この液体が冷水ではなく、お湯であることが分かる。


 視線を前方に移せば、お湯に浸かっている人々が私だけではないことが分かる。

 私を含めた、この場所にいる人々は、男女ともに薄手の服を纏っており、女性の場合は、キャップで髪をまとめていた。


 さらに視界を広げれば、ここがローマ風の石柱に囲まれた中庭のようなスペースであることが分かる。その中央には、正方形の窪みがあり、その中は、地下から湧き出た温泉――すなわち、私が今浸かっているこのお湯が満たされていた。


「ほら、僕の手を取ってください」


 先に湯へと入ったルイスが、いつもの如くこちらへ手を伸ばしエスコートしてくれる。


 かつては、触れることでさえ恐ろしかったこの手。今では、そのような恐怖感は、跡形もなく消え失せてしまった。


 ルイスの手に引かれ、温泉の隅に二人で座る。ガラス張りの天井からは、月光が優しく降り注いでいる。


「月が綺麗ね」

「えぇ、本当に綺麗ですね。シータの次に綺麗です」



(もぅ……また、そんな事を言って……)


 恥ずかしさのあまり視線を逸らす。

 穏やかな風景に比べ、周囲は観光客の声で溢れかえっていた。これなら、小さな声で話せば、他の人々に会話を聞かれる心配は無いだろう。


「ルイス、私ね……ずっと貴方に言いたかったことがあるの」


「どうしました?」


「貴方は、ずっと前からノックス家の悪行を知っていたのよね?」


「えぇ、大体は」


「それなのに……ノックス家の長女である私を妻に選んだの?」


 ルイスは、しばらく沈黙してから口を開いた。


「そうですね……正直に申し上げますと、最初僕は、君に婚約を申し込むつもりは、ありましたが結婚するつもりはありませんでし

た」


「それって……どういうこと?」


「あくまで君からノックス家の情報を得る為に、近づきました」


 あぁ、そういうことか。

 全てを理解した。

 元々彼は、私を経由してノックス家の情報を得てから『夜烏』として、一族諸共殺害する予定だったのだろう。

 

 だとすれば、私は知らぬ間に本当に九死に一生を得ていたことになる。


「でも、君について調べている間に――僕は知らず知らずのうちに、君という存在に惹かれていました」


「私のどこに惹かれる部分が……」


「それは、僕にとっても、まだ答えが出ていない問いですね。舞踏会の夜、僕はこの問の答えは『シータが僕と対等に渡り合える可能性のある人材だから』だと考えていましたが……きっと本当の答えは、違いますね」


「では、その『答え』とやらは?」


「それは、人間が利益や、快楽、愉悦すらも、棚に上げて惹かれる感情――言い換えるのならきっと恋でしょう」


 『恋』。まさか、セシル侯爵からこのような言葉を聞ける日がこようとは。


「シータ。愛してます」


 ルイスが私の頬へ手を伸ばす。しかし。それより先に、私の方が彼の頬へ唇を落とした。




𑁍 𑁍 𑁍







 私は旦那様を愛していない。


 だって、私達は形だけの夫婦だから。




――貴方は、いずれ私を殺すであろう未来の悪人で。


――私は、貴方に殺されるであろう今の悪人。



 私達はまるで、本来は交わるはずがない運命の糸そのものだ。

 それでも、糸はもう既に交差してしまった。むしろ絡み合ってしまったと言うべきだろう。


 だから、どうかこれだけは言わせて。

 こう返答させて。




「私も愛してるよ。ルイス」





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