第捌話 「長いんです」
六尺との挨拶トレーニングが幕を上げる。
トレーニングといっても難しいことはせず、まずは慣れの為の反復練習を重点的に行っていた。
「もう一度いくぞ? おはようございます!」
「お、おはにょ、ございます……!」
繰り返すこと十数回目のおはようございます。
声は出てきたけど、変なところで噛んでしまう六尺だった。
「今度は違う所で噛んだな」
「ご、ごめんなさい……」
六尺は大きな身体をシュンとさせて丸める。
今現在、俺たちが直面していたのはこの大声を出した時にする噛み癖だった。
「もうちょっとゆっくり言ってみるか? お、は、よ、う、ご、ざ、い、ま、す!」
「お……お、は、よ、う、ご、ざ、い、ま、す!」
まるでボイストレーニングのように一言一言を声に出す。
朝の挨拶の後遺症で少しだけ喉が痛いけど、伊達に俺も扇風機の前で『我々は宇宙人だ』と声を変えて練習してはいなかった。
そんな俺に六尺が続き、正確なおはようございますを言うことに成功する。
どうやらこれは平気らしい。
まあ普段は普通に話しているし、大声を出す時が課題なのだろう。
「良い調子だぞ六尺! じゃあそのまま、おはようございます!」
「え、えへへ……わ、分かりました。おぴゃにょおごじゃいましゅ!」
もちろん成功したら褒めてやることを忘れない。
だけどそのせいか、言葉がもっと崩れてしまった。
もはや残ったのは語感とリズムだけで、原型が半分以上も残っていない。
これが現代に残るテセウスの船だろうか。
「ご、ごめんなさい……」
「あ、焦ることはないぞ……」
嘘である。
正直ここまでかと、俺はめちゃくちゃ焦っていた。
内気で恥ずかしがり屋なのは知っていたけど、これはもう別問題な気がする。
「少し疲れたろう? お茶飲むか?」
「い、いただきます……」
「あ……」
「え?」
「い、いや何でもない……」
ペットボトルを渡して、それが俺の飲みかけだと気づいたが遅かった。
勝手に照れる俺に気づかず、六尺はその大きな口で一気にお茶を飲み干して。
「ほぁ……ごちそうさまでしたぁ」
「お、おう……」
満足そうに笑って、ホッとしている。
その顔を見て変なことを考えた俺に少しの罪悪感が芽生えた。
「は、肺活量は問題無さそうだな……その飲みっぷりを見るに」
「ほぇ?」
飲むスピードと肺活量に密接な関係があるかは知らない。
だけどその恵まれた身体には可能性が秘められまくっているんだ。
「これまでやってきて、六尺はどう思う?」
「ほぁっ!?」
――べギョッ!
驚いた六尺によって、空になったペットボトルが一瞬で潰れされる。
可愛い後輩の為にフォローを入れておくが、ペットボトルが両手で握りしめられていたからだ。
これが片手だったら俺も驚いて声が出ていたかもしれない。
「……自分で意識をするのは大事だからな、何か思ったことは無いか?」
「あ、あぅ……」
丸かじりされた後に残ったりんごの芯みたいな形のペットボトルを横目に俺は話を続ける。
すると六尺の顔がりんごのようにどんどん真っ赤になっていった。
「……わ、笑いませんか?」
長い前髪の隙間からチラッと見える大きな瞳。
それが不安の色を帯びているのは一目瞭然だった。
「笑わないさ。頑張ってる者を笑う奴がどこにいる?」
「せ、せんぱいはやっぱり、優しいですね……えへへ」
照れくさそうに六尺は笑う。
かと思えば口をきゅっと結び、ジッと俺を見つめてきた。
「……長いんです」
「ん?」
ボソッと呟かれた言葉は、少し聞き取り難かった。
多分『長いんです』と言ったと思うが、それは何を意味してるのだろうか?
「せんぱい……見て、くれますか?」
「ろ、ろくしゃく!?」
ゆっくりと、六尺が俺に近づいてきた。
それは昨日の壁ドンと同じようなシチュエーションで、飼いならされたパブロフの犬のように俺の身体が後ずさる。
「わ、私……人より長くて、その……」
「な、長いってなんだ!?」
何故か六尺は俺に近づきながらワイシャツのリボンを外す。
俺の視線はどうしても緩んだ胸元からとんでもなく主張している、その大きな胸へと誘導されていた。
「せんぱい……」
――そしてまた、ドンッと。
俺は壁に追いやられる。
六尺の大きな身体がカーテンみたいに、壁に挟まれた俺の身体を覆った。
「は、恥ずかしいですけど、見てください……」
「み、見るって……!?」
重力に従って垂れ下がるのは髪だけじゃなかった。
その大きな胸もニュートンの万有引力に従って、俺の目の前に君臨している。
六尺は真上から俺を見下ろしながらゆっくりと口を開いて――。
「え、えあー……」
――舌を、伸ばした。
その舌はとても長くて、綺麗な舌だった。
「ほ、ほふへふは……?(ど、どうですか……?)」
舌を伸ばしたまま、六尺が喋る。
その度に暖かな吐息が漏れて、真下にいる俺の顔に当たった。
「あ、あぁ……」
既に大きな胸なんて眼中に無くて。
俺の目の前に晒された長い舌に視線が奪われていた。
「…………」
チュパカブラのような長い舌。
この舌に舐められ、吸われたらどうなるんだろうと思って……!?
「お、俺は好きだぞ……!」
「ほぁぁっ!?」
邪な気持ちから、つい本音を言ってしまった。
それに六尺は驚いて飛び跳ね、バット俺から離れていく。
「あ、い、いやそ、その……! こ、個性的で、良いと思う……」
「あぅ、あぅぅ……」
途端に自由にった俺の身体は、まるで金縛りにでもあっていたみたいだ。
だけど心がガチガチに六尺に捕らわれ、それを誤魔化す為の言葉を紡ぐ。
六尺も俺の言葉が予想外だったのか、真っ赤になる顔を両手でおさえた。
「せ、せんぱいが、す、好きって……」
可愛らしい仕草だ。
だけど俺は忘れない。
「……あ、危なかった」
六尺が舌を伸ばして俺を見下した時の瞳が、まるで捕食者のように見えた事を。
そしてこのまま食べられても良いと、俺を頼る可愛い後輩に思ってしまった事を。
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