第9話 ラベンダーの香り
リハビリテーション部の一角の小部屋で、4人の男が四角い机を囲んでいる。スクラブ姿の中で一人だけスーツを着ているのは株式会社PACのシステムエンジニア(SE)の
「やはり、どんな人にも、というのはいささか無理があるのではないでしょうか?」
世良がこの提案をしたのはこれで3度目である。
「いきなり完璧なものを目指すのではなくて、中長期的な視点で段階的に開発していく、というのはダメなのでしょうか?例えば、はじめは健常な人の健康支援、そのあとは転倒予防とか
「いや、だからさ、部長が言っているのはどんな人にも最適な個別の運動プログラムを提供するAIなんだから、それじゃあだめだよ」
小木田がこうして世良の案を否定したのも3度目である。
世良の後ろではパイプ椅子に腰かけて二人のやり取りを見守っている男がいる。彼は、会議の開始30分後にはこのやり取りを眺めながらただひたすらに沈黙を守るに徹した。とにかく会議が追わならければこの部屋の戸締りができない。ちらりと時計を見ると、すでに20時を過ぎている。
*******
『帰りに入浴剤、買ってきて。ラベンダーの香りのやつ』
世良が病院の職員玄関をくぐったタイミングで妙子からのLINEが届いた。デスクに着いたら忘れないようにメモしておこう。足早にスタッフルームへ向かった。
世良が更衣室で私服からスクラブへと着替えていると、背後から快活な声が聞こえた。
「おはようさんっ!」
振り向くと作業療法士の
「おはよう。柳は今日も元気だね」
「あったりまえやないか。元気だけが取り柄やで」
そういうと柳はロッカーを開いて着替えを始めた。パーカーを脱ぐとTシャツの袖口からみえる上腕の筋が逞しい。学生時代に引っ越し業者のアルバイトをしていたこともあるらしい。世良よりも頭一つ分は背が高く、体格も大きい柳は笑っていなければそれなりに怖い。
「……おはようございます」
低いテンションで挨拶をしながら、言語聴覚士の
「にんじん、おはよう」
「おはようさんっ、にんじん!」
にんじん、というのは深田仁人のあだ名である。深田はこの病院で最年長の深田は二人よりも2歳年下なのだが、この病院の言語聴覚士のなかでは最年長であり、主任の役を務めている。
3人はたわいのない雑談をしながらそれぞれのスクラブに着替え、更衣室を出た.スタッフルームに入ると、すでにデスクで仕事をしていた
「お、やっと来たか.3人とも仲がいいな.ちょっとこっちにきてくれ」
手招きをして3人を呼ぶ。
「今日、18時から会議だから」
突然の知らせに3人は困惑した。
「ほら、健康支援アプリのやつだよ。
3人はさらに困惑した。唯一、世良だけはその「健康支援アプリ」という単語を小木田から聞かされていたことがある。先週の水曜日だっただろうか。昼休みに小木田から新しい事業が今後始まるとだけ聞かされていた。困惑する3人の様子を見て小木田は初めて自分がこの事業のことを全く伝えていなかったことに気が付いた。改めて説明をされると、世良は落胆し、深田は呆れ果て、柳は苛立った。
世良は柳の隣でその苛立ちを肌に感じていた。彼はまだ笑顔を保っている。しかし、この笑みはさっき更衣室で見た自然な笑みではない。柳のこめかみには一筋の血管が浮き上がっている。
「そんなん、急に言われても困ります。俺、今日,子供の迎えがあるんです」
と柳が強めに嚙みつく。柳は5歳と3歳の2児の父である。関西のイントネーションが強くなっているのは感情的になっているサインだ。
「奥さんとか、誰かほかの人に変わってもらえばいいだろう」
と小木田は平然と返した。柳のこめかみの血管は3本に増えた。
「いや、向こうも向こうで仕事してますんで、そんな急には対応できないです」
「そっか、でも最初の打ちあわせだから挨拶までは出てくれよ。大丈夫、ちょっとアドバイスするだけだから5~10分くらいで終わるだろうよ」
と小木田は返事をした。
「だったら俺は次回でもいいんじゃないですか?挨拶するだけなんですよね?」
柳の細くつり上がった目がさらに鋭く尖った。
「こっちの都合で予定を合わせてくれているんだから、先方に失礼だ。しかも17時過ぎにだよ。我々は会議を時間外にするのは普通だけど、一般企業は普通勤務時間にやるんだよ」
小木田も語気が強くなる。剣呑とした空気に世良は息が詰まる。
「いや、それだったらもっと早くに……」
「プライベートと仕事を一緒にしないでくれ。みんな家庭の事情があるのは同じなんだからさ。とにかくさ、会議には出てくれ」
柳の言葉を遮って小木田が言い放った。がっしりとした柳の体がわなわなと震えはじめ、世良は今にも柳が爆発してしまうのではないかと心配になった。深田は我関せずといった顔をしている。
「一回帰って戻ってきたらいいだろう。それくらいはできるよな」
「それくらいって……」
柳がさらに食いつこうとしたとき、小木田はようやく相手の怒りを察した。スタンスを変え、いつものねっとりとした口調で諭すように言った。
「そんなに大変なのか?余裕がないんだったらいいよ。でも、どうする?代わりに誰かにでてもらうか?」
世良は隣で、ボンッ、と何かが弾ける音が聞こえたような気がして思わず一瞬目を瞑った。数秒ののち恐る恐る目を開けて隣の柳を見やる。
――――――この時世良は人間は怒りを通り越すと白目になるのだと知った。
結局、話にならないと諦めた柳は定時に子供を迎えにいき、また戻ってくるという羽目になった。世良は妙子に急な会議で帰りが遅くなるとLINEを打った。深田は宅配の受取時間をいつに変更するかを考えていた。
*******
18時になり、PACのシステムエンジニア木村洋輔がやってきって、それぞれと名刺を交換した。言語聴覚室で机を囲み、木村が資料を配布した。木村は早口で瞬きが多かい男だった。木村はまず、PACがどんな会社なのか、これまでどんな事業をしてきたのかを早口で説明した。そして今回の事業について、PACがこれまでやってきた健康支援アプリの開発、介護予防事業の助成について説明した。はじめはメタボリックシンドロームのような生活習慣病対策として職員向けの電子記録媒体の開発をしており、血圧や脈拍、体重、歩数、食事などを記録するとそれがグラフ化される程度のものだった。しかし、介護予防事業の助成を受けるにあたり、介護予防に関連した機能を加えることになった。そこで、簡単なフィードバックを組み込んだ。例えば、血圧が130を超えると黄色信号、140を超えると赤信号になり、「血圧が高いです、医療機関を受診してください」とメッセージが出る。歩数が少なくても同じように「運動不足です。少し意識して歩いてみましょう」といった感じにメッセージがでる。インターネットで調べたガイドラインなどを参考にして作ったらしい。
「……と、ここまでは比較的順調だったのですが、中間報告で医学的な監修が必要であるとの指摘を受けまして、それで古井社長から清川先生のところに相談にいった、という形です。そのとき、えっと……そちらから健康な人だけではなく、“力の弱った高齢者や身体に障害を抱えて暮らす人にも使えるような、そんなAI搭載型健康サポートアプリ”のご提案をいただいたのです」
ここで木村は企画の概要が記載されたポンチ絵をおずおずと額に汗を流しながら提示した。古井が清川に見せていたものに多少の修正が加わっている程度であるのだが、そのことを知るのはこの場にいない大西だけである。そこには“どんな人にも最適な運動プログラムを提供するAIを開発する”、という理想的なことだけが書かれており、これまでの話に比べてまるで具体性が欠けていた。
小木田、世良、柳、深田の4人は「それで?」といった様子で話の続きを待った。木村もすっかりと沈黙し、世良はしばらくの間、木村の額を流れる汗と高速の瞬きを見つめていた。柳は腕時計を見ている。
「すんません、そろそろ時間なんで失礼します。続きは議事録で確認させてください」
彼は元々育児があるために30分くらいで退室すると約束していた。そしてそのときは誰もがこの会議が30分以内に終了すると思っていたのだ。いそいそと帰宅しながら彼は、こりゃあかんな……、と思った。
柳は誰に対しても物怖じせず、はっきりと自分の意見を言う。生真面目な世良は残る、深田は言語聴覚室の戸締りができないので残るしかない。かくして小木田、世良、深田、そして木村の4人が残った。
「ええっと……概要はよくわかったのですが……我々はこの企画でなにをしたらいいのでしょうか?一応、医学的な立場から助言をするということは伺っているのですが、それ以上は今日、説明があるものだと持っていました」
恐る恐る、世良が尋ねた。
木村は額の汗をハンカチで拭いながら答えた。瞬きの回数も明らかに増えている。
「いや……その……、実は私共も社長からはそちらから何かご提案いただけるのだと伺っておりまして……」
こうして4人は行き先のわからぬまま、大海原の真っ只中に放り出されたのである。もちろん海図はない。
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