第8話 呼吸までうまい

「あっ!」


 陶器の茶碗が手から滑り落ち、その先にあった丸いグラスを割った。茶碗が落ちていく瞬間はスローモーションのように見えたのに体は全く反応できず、気が付いた時にはシンクの中にグラスの破片が散らばっていた。


「また割ったの⁉」


 妻の妙子たえこがいら立った声を上げた。グラスの割れる音はカウンターキッチンの向こうでテレビを見ていた彼女にも聞こえるほど大きな音を立てたらしい。アーモンド形で端麗な目が鋭くつり上がって、世良を睨んでいる。


「これで何個目だと思っているの。最近、注意散漫よ。もっとしゃっきとしなさいよ」

「ごめん、ちょっと疲れているみたいで」

「うるさいわね、口答えしないで。ちゃんと謝りなさいよ。何を割ったの?」

「ガラスのコップだよ。丸いやつ。ごめんね」

「もうガラスのものは買わないほうがいいんじゃないの?」

「そうだね……。気を付けるよ、ごめん」

「ごめんですむなら警察はいらないわよ、ちゃんと反省しなさい‼ 一回や二回じゃないんだからね。このままじゃ食器がなくなっちゃうじゃない‼」


 妙子がぴしゃりと言い放つ。一週間の疲労でくたくたの世良には精神的になかなか堪えた。二人は今、3LDKのアパートの2階に住んでいる。


 金曜日の夕方になると、世良はくたくたにくたびれていた。手足は重怠く、背中が苦しい。立って作業をしていると怠さをより強く感じられすぐにでも横になりたい。けれど横になると立ち上がるどころか意識を保つことすらできなくなりそうだ。まだやるべきことがあるのだから、休んでなどいられない。まずはこの洗い物を処理しなくては。

 ただでさえ診療は定時に終わらないのに、今週は特に診療以外の仕事が多かった。締め切りに追われ、臨時のミーティングが割り込み、水曜日には小木田からなんだかよくわからない新しい仕事を渡された。連日帰りが遅かったので、妙子に、金曜日くらい一緒に晩御飯を食べたい、とせがまれていた。頑張って19時には仕事を切り上げたものの、遅すぎる、と妙子の機嫌を損ねた。結局、待ちきれなかった妙子は先に食べ、世良博斗の夕食はこれからである。シンクには一日分の洗い物、洗濯機の横には3日分の洗濯物がたまっている。何ならソファの上にも洗濯物がある。帰りが遅くなった贖罪も兼ねて家事を済ませてしまおうと、世良は汚れた衣類を洗濯機に放り込んでシンクの前に立った。そして、手が滑ってグラスを割ったのだ。実は疲れているときにこうしたミスが増えるのだが、当の本人はそうした傾向を自覚するほどのゆとりがない。むしろ、妻を怒らせ、自分の仕事を増やした。

 幸いにしてガラスの破片はシンクの中に納まっていた。注意深く破片を拾いながら残りの洗い物を済ませ、いよいよ夕食の支度に入る。今日はうどんだ。つゆと薬味は妙子が作ってくれている。片手鍋に湯を沸かして冷凍うどんをいれる。カチカチに固まっていたうどんはゆっくりと解けてゆく。そんなうどんを眺めていると、妙子が冷蔵庫の作り置きアイスティーを取りにきた。


「冷蔵庫に鰹のたたきもあるから」


 妙子は四つ葉のクローバーが描かれた陶器のマグカップにティーを注ぎながら言った。


「……ひろくん、さっきは怒っちゃってごめん。びっくりしたの」

「驚かせっちゃってごめんね。それに帰りも遅かったし」

「そういってくれてありがとう。寂しかったの」

「うどん、準備してくれてありがとうね」

「うん。あっちで一緒に食べたい。待ってるから」


 そういうと妙子はお茶を持ってリビングに戻った。沸騰した鍋の中でつやつやとしたうどんが揺れている。世良はうどんを器に盛りつけ、冷蔵庫から鰹のたたきを取り出して食卓へ向かった。




 妙子が残してくれていたカツオのたたきは三切れだった。うどんの上には大きめのお揚げがふかふかと浮いている。出汁の香りと共に湯気が立ち上り、世良の食欲を一気に搔き立てた。そういえば昼から何も食べていない。

 湯気の向こうではくりくりとした目を輝かせながら妙子が恨めしそうにこっちを見ていた。


「鰹のたたき、1切れ食べてもいい?」


「いいよ。たえちゃんの好きなだけ食べて」


「ありがとう」


 はしゃぐ妻の様子に安堵しながら、世良は自分の箸を妙子に渡した。妙子は1切れの鰹のたたきを3口ぐらいに分けて食べた。世良は妙子がその一切れを食べ終わるのをじっと待った。目の前ではふっくらとしたお揚げが金色に輝いている。空腹というのは一度気が付いてしまうと、どんどんと強くなる。目の前にごちそうがあるならなおのこと。食欲はどんどんと増した。早く食べたい……、早く食べたい……。あふれ出る唾を飲み込み、膝の上でぐっと拳を握った。妙子が1切れ食べるのは時間にして数分程度であるはずなのに、待つとどうしてこうも長く感じられるのか。妙子が3口目を口に入れるころには全身がじわりと汗ばんでいた。


「ああ、やっぱりうめぇ、鰹のたたきうめぇよぉ‼」


 妙子は箸をぎゅっと握りしめて歓喜している。こんなことなら最初からもう一善箸を取りに行けばよかったと後悔した。もう腹が減りすぎて立ち上がる気力すら湧かない.早く、早く箸をくれ……。我慢の限界を迎えて妻に箸を懇願しようとしたとき、


「ありがとうね、はい、お箸返すよ。」と妙子が箸を差し出してくれた。


 いよいよ食事にありつける.


「いただきます‼ 」


 言うや否や、黄金のお揚げにかぶりつく。お揚げにしみ込んだ出汁がじゅわりと染み出し、奥深いつゆの味が口の中を満たした。息を吸うと出汁の椎茸の部分がより強く感じられ、息を吐くと香りが広がってますますうまみを引き立てた。ああ、呼吸までうまい。この瞬間は生きているだけでうまい。お揚げから溢れる幸せが滲みた。

 お揚げはふわりふわりと二口三口、口に運ぶとなくなった。しかし、どんぶりの中には「次は俺たちを食ってくれ」と言わんばかりのうどんがあるではないか。その表面はリビングの蛍光灯を反射してつやつやと輝いている。箸で数本掬い上げ、ずずぃいっと手繰った。冷凍といえども讃岐は讃岐。吸い込まれるように啜られたうどんは口当たりがよく、咀嚼すれば弾力と歯応えがあった。途中で洗濯機にピーッピーッと呼ばれた気がしたが、もはやうどんを手繰る手を止めることはできない。あっという間に平らげたが、幸せはまだ残っている。鰹のたたきがあるではないか。少し厚めの切り身には生姜と茗荷が乗っている。食うまでもない、見るからにうまい。


 いざ実食。


「うめぇ‼」


 思わず声が出た。



 その横で妙子がどや顔をしている。私が食べたかった理由がわかったか、と言わんばかりだ。


 鮮度のいい鰹で臭みがなく、ぎゅっと締まった身は、薬味によってそのうまさが何倍にも膨らむ。二切れは二口でなくなった。 最後にお茶をグイっと飲んだ。


「ごちそうさまでした」

「もっとゆっくり味わって食べたほうがいいよ」

「ごめん、すごくお腹が空いていたんだ」

「はいはい。ほら、洗濯できたみたいだよ」

「そうだね、すぐやるよ」


 そういうと世良は立ち上がり、食器をシンクに下げ、キッチンの横にある浴室へ向かった。脱衣所の洗濯機から衣類を取り出し、リビングに持っていく。まだ取り込んでいない衣類をソファの上に置き、洗濯物を干した。

 最後のパンツを干し終わり、自分の下げた食器を洗おうとしたとき、世良は強熱な眠気に襲われた。その場に立ったまま何とか堪えようとしたものの、この睡魔にはどうにも勝てそうにない。


「たえちゃん、ごめん.ちょっと寝る……」


 遠ざかる意識の中は最後にそれだけ伝えると、世良はソファの上の洗濯物の上に倒れこみ、そのまま深い眠りに落ちた。

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