第7話 ホットパックが冷めるまで
「鹿野さん、ごめんなさい。今さっき、技師長が部長に呼びだされてしまったみたいで」
「あら、そうなの。まあ、いつものことね。ゆっくり待っているわ」
「腰の調子はどうですか?」
「まずまずといったところね。長く座っていると辛くなってくるわ」
鹿野はこちらの勝手な都合で待たされることになったにも関わらず、一切の不満を感じさせない上品な口調で返した。この組織の“大人の事情”をよく理解しているのだ。世良は物わかりのいい常連と言えど、ただ待たせるのはよくない,と思った。
「お仕事だとほとんど座っていますもんね。待っている間に先に腰を温めておきますね」
「お願いするわ」
三月に入ったばかりで外はまだ寒い。少し赤みがかった頬から察するに、冷たい風に当たってきたのだろう。
世良は近くのプラットフォームに彼女を案内し、うつ伏せになってもらった。トレンチコートと手提げバッグは近くの荷物入れに預かった。ハイドロコレーターの蓋を開け、大きめのホットパックを取り出し、蓋の裏に数回叩きつけて水分を払う。ナイロン袋に包んでバスタオルで包む。それを患者の腰の上に置いた。以前はよく使っていたホットパックだが、ここ数年はめっきりと使うことがなくなった。今、この職場で使っているのは大西だけではないだろうか。世良はホットパックの準備をしたのは随分と久しぶりだったが、その手順を覚えていことに我ながら感心した。
「当たり具合はどうですか?」
「大丈夫よ。問題ないわ。世良君はいつも気が利くわね。ありがとう。」
「外はまだ寒いですよね」
「ええ、とても寒いわ。天気が悪いとなんだか腰がうずくように痛くなるのよね。今日が大西さんの日でよかったわ。大西さんに触ってもらうとだいぶ楽になるのよ。といっても全然よくならないのだけどね。情けないわ」
「お仕事も座っていることが多くて大変ですよね」
「そうなのよ。終わった後はがちがちになってるわ。大西さんから温めるといいって教えてもらって、それからは自分でも温めるようにしているの。ほら、今ドラッグストアとかでも売ってるじゃない」
「わかります。目とか肩とか、いろんなやつがありますよね」
「そうね。気休め程度かもしれないけど、自分で対処できる方法がわかると気が楽になったわ。大西さんに触ってもらうとかなり違うんだけど、週に一回しかないじゃない。それだって職場に迷惑かけて通わせてもらってるんだけど。全然よくならなくて最初は仕事を辞めなくちゃいけないかなって思ってたの」
「へぇ、そうだったんですね。全然知りませんでした」
「でもね、私はこの仕事が憧れだったのよ。だから諦められなくって。自分で言うのもなんだけど、アナウンサーって簡単になれるわけじゃないのよ。腰が痛くなって最初は休職していたんだけどね。ダメ元で、今のままでも何とか続けたい、って上司に相談してみたら、知り合いの医者に相談してみるって言ってくれたの。それでここを紹介してもらって。初めて大西さんに施術してもらったとき、世界が一変したわ。これなら仕事もできそうだって。職場も週一回の半日なら収録のスケジュールを調節してくれるって言ってくれたの。あー、なんで今まで一人で悩んでいたんだろう、もっと早く相談したらよかったな、って後悔したわ。でも、まさかこんなに長くなるとは思ってなかったけれどね。……ところで、あなたも仕事があるでしょう。長々とごめんなさいね。お気遣いありがとう。うれしかったわ」
「またお話聞かせてくださいね」
世間話が一区切りしたところで鹿野は読書を再開した。さすがにホットパックが冷めるまでには大西も戻ってくるだろう。
「世良、ちょっとこっちにきてくれ」
仕事に戻ろうとプラットフォームから離れたとき、世良は小木田に声をかけられた。ねっとりとした声に全身が一瞬ビクッとした。小木田は平行棒に自分の患者を座らせてそのすぐ傍に立っている。目はその患者ではなく、遠くの鹿野に向けられていた。おそらく、そのねっとりとした蔑みの視線でずっと観察していたのだろう。
「ホットパックなんて意味あるのか?」
小木田は世良が近づくと開口一番に言った。
「わかりません。ただ、大西技師長が戻るまでただ待ってもらうのも申し訳ないと思いましたので」
意表を突かれて世良は反射的に答えた。
「ホットパックってさ、表在熱なんだよ。深部まで熱が届かないんだ。だから筋は温まらないんだよ。超音波だったらわかるよ、あれは深部の組織まで届くからな」
「はい、ただ腰部なのでご自分で超音波を当てることはできないかと。いつも技師長はホットパックをされていますので、先に対応しておこうと思っただけです」
「いや、あれじゃ効果はないぜ。温めるんだったら超音波だ」
「えっと……」
言葉に詰まる様子の世良をみて、小木田は満足げな笑みを浮かべながら続けた。
「俺もあの人ずっと観察してるんだけどさ、プシコだよあれは」
プシコ、という言葉を聞いて、世良の顔は一瞬ひきつった.その言葉には侮蔑と悪意が含まれている。
「……そうかもしれませんが」
世良は侮蔑的な言葉を使った小木田に嫌悪を抱いたが、その気持ちをぐっと抑えて精一杯に同調的な返事をした。
「非特異的腰痛なんてたいていプシコだろ。だって技師長がみても治らないんだろ。あの人はさ、全然仕事はしないけど、腕だけは俺も認めているんだ。全然仕事はしないけどな。技術は高いんだよ」
「はい、そうですね」
「それでも十年も治らないんだぜ。絶対おかしいだろ。効果のないホットパックが効いているのもその証拠だ」
世良はさっき鹿野と交わした会話のこと思い、嫌悪が増した。横で見ているだけで、一体何がわかるのか。当時の大西が温熱療法を薦めた意図はわからないものの、それが鹿野の人生を大きく変えるきっかけになったことには違いない。
「……徒手でダメなら、認知行動療法、とかでしょうか」
溢れ出んばかりの嫌悪を必死に押さえつけながら、世良は言った。少し声が震えていたかもしれない。
「そうかもな。でもさ、それはPTの仕事じゃないよな。それをやるならOTとか精神科でやればいいだろ。あいつ、いつまでここに通わせるんだろうな」
“あいつ”という言葉の対象が鹿野のことなのか大西のことなのか、はたまたその両者なのか判断がつかなかった。いずれにせよ上司のいないところで部下に持論を得意げに話す小木田からねっとりとした傲慢さが感じられ、気分が悪かった。世良は会話をしている間、小木田が椅子に座らせたまま放置している患者が気になって仕方なかった。彼がどういう表情すればいいのか困っているように見えた。おとなしく座っていれるところを見れば、彼はこの会話を理解できる程度の能力は持っているのだろう。リハビリの間の休憩にしては、この会話の時間は長すぎるし、その中身も気持ちのいいものではないに違いない。
世良は苦笑いを浮かべながら小木田と患者を何度か目配せした。小木田もその意図に気が付いたようで、そろそろ歩行練習を再開しようかと声をかけたそのとき、
ピロリロリンッ! ピロリロリンッ! ピロリロリンッ!
小木田のPHSが鳴った。小木田が電話に出ている間に世良はその場を立ち去った。
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